蛭ヶ岳〔黒尊佛山方之事の道〕

日程:2023/10/23

概要:江戸時代の丹沢の縦走記録である『黒尊佛山方之事』を手本として、大倉から塔ノ岳に登り尊仏岩跡に立ち寄ってから丹沢山と不動ノ峰を経て蛭ヶ岳に登頂。往路を塔ノ岳まで戻り、表尾根に入って烏尾山から烏尾尾根を下り大倉へ戻る。

⏿ PCやタブレットなど、より広角の画面で見ると、GPSログに基づく山行の軌跡がこの位置に表示されます。

山頂:塔ノ岳 1491m / 丹沢山 1567m / 蛭ヶ岳 1673m

同行:---

山行寸描

▲尊仏岩跡の石像。『黒尊佛山方之事』には尊佛岩之下ニ長壹尺程之大日尊有之と記されている。(2023/10/23撮影)
▲蛭ヶ岳から塔ノ岳方面の眺め。この山頂にあった藥師尊佛ト間ムキニ御迎タモウ也だったそう。(2023/10/23撮影)
▲蛭ヶ岳から帰り着いた塔ノ岳。往時には向こうの右斜面に尊仏岩が見えていたかもしれない。(2023/10/23撮影)

先週のヤビキ沢遡行で丹沢名物の「あいつら」(ヒルとも言う)もようやく店じまいしたらしいことがわかり、今日も引き続き丹沢詣で。沢登りにしてもよかったのですが、今回はおなじみの「丹沢の歴史を辿るシリーズ[1]」とし、19世紀初頭の大山寺御師が大倉の先達に連れられて蛭ヶ岳を目指した記録である『黒尊佛山方之事[2]』のルートに狙いをつけました。この記録は2021年に初めて尊仏岩跡を訪れたときにその存在を知り、以後いつかはこの通りに歩いてみたいと思っていたものですが、ようやくその機会が訪れたというわけです。

2023/10/23

△07:20 大倉 → △09:40-50 塔ノ岳 → △10:15 尊仏岩跡 → △11:15-20 丹沢山 → △11:50-55 不動ノ峰休憩所 → △12:45-13:05 蛭ヶ岳 → △13:50-14:00 不動ノ峰休憩所(水場確認) → △14:25-30 丹沢山 → △15:15 塔ノ岳 → △16:35 烏尾山 → △18:20 大倉

まず『黒尊佛山方之事』のルートをおさらいすると、出発点はおなじみの大倉(大クラ)です。そこから大倉尾根を登って金冷シあたりで左斜面のトラバースにかかり、尊仏岩(黒尊佛)にお参りしてから縦走を続けて丹沢山、不動ノ峰(不動嶽)を通過して蛭ヶ岳(藥師嶽)に達します。ここで薬師如来にお参りしたら往路を戻り、行きには通らなかった塔ノ岳(トウノ峯)の山頂を踏んで表尾根に入り、烏尾尾根を下って大倉へ戻ってきます。

先掘村ノ大クラト申所ニマイルヘシ 是ニテ宿ヲ取泊ヘシ ソノ翌日嶽エ登山イタスヘシ(『黒尊佛山方之事』より。以下同じ)

今日の山旅の起終点も当然、大倉ということになります。最初に取り付くのはその単調なつらさから「バカ尾根」との異名がある大倉尾根。息が上がらない、汗をかかない、休まないをモットーに、とにかく淡々と足を上げ続けることを心がけました。

金冷シから塔ノ岳の山頂まではあとわずか。『黒尊佛山方之事』の筆者(以下「黒筆者」と呼びます)はここから左の山腹を横断してダイレクトに尊仏岩を目指していますが、今では失われたその道は、明治時代の地形図にははっきりと描かれています。

▲塔ノ岳。金冷シから左斜面を尊仏岩に向かう道がある。(明治21年(1888年)測量二万図「塔嶽」〔部分〕)

金冷シから左の樹林に入って崩壊地を乗り越えながら不動の清水を目指し、さらに尊仏岩跡まで斜面の横断を続ける試みは近年でも篤志家によって行われていますが、現在この山腹は植生保護の措置がとられておりむやみに立ち入るわけにはいかないので、今回は登山道の通りに塔ノ岳の頂上を目指し、尊仏山荘の裏手から尊仏岩跡を往復することにしました。

尊仏岩への道は、登山道脇の笹原の中の踏み跡を辿り、岬のような地形を右に下って左に切り返して岬の下に戻ると、そこにあるトンガリ岩の手前を再び右に下ってまた左へ戻る。一度経験すれば忘れようがないルートです……と言いたいところですが、上掲の動画の中で間違えやすいポイントだと記したところで私も危うく間違えかけてしまいました(汗)。

先尊佛嶽ハ奥ニテ イタツテ足場モハルシ ガケ也 此所ニ高サ弐丈五尺程之高キ岩有之也 是ヲ黒尊佛申也 又此下ノ右方ニ壹丈程之高キ岩ナランテ有 尊佛岩之下ニ長壹尺程之大日尊有之 大日御迎タモウ所ハ此方少シ丑方エ御迎タモウ也

『黒尊佛山方之事』の「黒尊佛」とは「倶(狗)留孫仏」、すなわち過去七仏の四番目で、西日本では山中にそそり立つ岩にこの名前を与えている事例が少なくないそうです。その他、尊仏岩についての蘊蓄は以前まとめた〔こちら〕に譲るとして、久しぶりに対面してみるとやはり何やらありがたげなその姿に自然に手を合わせたくなってきます。

尊仏岩参詣を終えたら登山道に戻って丹沢山を目指します。ところが『峯中記略扣 常蓮坊[3]』によれば日向修験が「彌陀ガ原」と呼んで抖擻行の一夜を過ごしたとされる行場・丹沢山は、なぜか『黒尊佛山方之事』では完全にスルーされています。この後に訪れる不動ノ峰より丹沢山の方が標高が低いので黒筆者にとってそこはただの通過点に過ぎなかったからかもしれませんが、もし黒筆者が今回の私のように秋晴れの日に縦走していたなら、丹沢山周辺の縦走路から彼方に見える霊峰富士に言及していたことでしょう。

不動嶽ハイタツテ平チ也ル所 近所見廻ス所ニ小シバ之所モ有 又ハ草フカキ所 或スヾ野々所モ有 イタツテスザマシキ大木有 又ハマサシク天狗ノ御アソヒ所ト相見エ 九尺四方程 イタツテキレイナル所有之也 二ケ所程有也 イタツテスコキ所アル也 先不動尊ノ座ス所 左ノ方ニクボミ有 九重ノ紅葉ノ大木有 此下ニ長壹尺程ノ不動尊護守ナサシメタモウ也 不動尊御迎タモウハ未申方ヲ御迎タモウ

不動ノ峰の手前の広場には新しい休憩舎が完成していました。立派な作りである上に、帰路に確認したところ道を挟んで反対側(北側)に3分ほど下れば水が得られたので、想定外の用法で使用する登山者が出てこないかと心配にもなります。ここはぜひ、ルールを守って末長く大切に扱いたいものです。

此嶽ギハイタツテ平成ル所ニテ山廣キ事ハ奥シレズ 真スコキ事也 是從藥師護守ナサシメタモウ所ハ左方エトホソ道有 コレヲ参リ南ノ山ハハスレヘ出候所 真藥師如来護守ナサシメタマウ所也 ウシロハ古ボク 前ハアラシミハラス事 西南方ヲ一目ニ見ハラス事 真ウツクシキケイ有 藥師御迎タモウ所ハ尊佛ト間ムキニ御迎タモウ也 藥師御迎タモウ所ハ辰巳ノ方ニ御迎タモウ也 此嶽ニテ遥向ニ尊佛南方ニ相見エル也

やっと折返し点である蛭ヶ岳に到着しました。ここは『黒尊佛山方之事』では「藥師岳」とされており、その山頂の南端には薬師如来の石像があって尊仏岩と向き合っていたとされているのですが、実は大正時代の大地震で崩落した尊仏岩も、この蛭ヶ岳山頂にあっていつの間にか失われた薬師仏も、共に写真が残っています。

これらの写真は『山と溪谷』第143号(1951年4月)に掲載されたもので、前者は松井幹男氏、後者は武田久吉氏が撮影したものです。このうち尊仏岩の写真は尊仏山荘内に写しが掲げられているので、見たことがある人も多いことでしょう。なお、この写真のキャプションには尊仏岩は大正12年の関東大地震で崩落したと書かれていますが、山岸猛男氏の『丹沢 尊仏山荘物語』では大正13年の丹沢地震で大金沢に転落したとされています[4]。いずれにせよ、崩落に際して粉々になってしまったであろう尊仏岩の残骸を探すすべはもはや残されていません。

蛭ヶ岳に着いたらタッチ・アンド・ゴーで塔ノ岳へ戻りたいところですが、黒筆者は山頂の薬師如来の前で祈りを捧げていたはずですから、自分だけさっさと帰るのはフェアではない(?)気もします。そんなわけで、私も蛭ヶ岳山荘名物の「ひるカレー」をいただいてそれなりの時間を蛭ヶ岳山頂で過ごしてから帰路につくことにしました。

尊佛從三丁程登レハトウノ峯ト申ス峯有 此所ニ高壹尺五寸程之石トウ有也 此所ニテ掘村修ケン中行ヲイタシ 三月廿三日ニ祭燈護摩修行仕 此峯ニ行場台有 常ニハヤキステ申ス也

蛭ヶ岳からは脇目も振らずに往路を戻り、日が傾き始めた頃にやっと塔ノ岳へ戻ってきました。以前にも書いたことですが、丹沢修験の研究家である城川隆生氏は塔ノ岳の名前の由来について、尊仏岩が「お塔」と呼ばれたことによるものではなく『黒尊佛山方之事』にも記されている高壹尺五寸程之石トウがあったことに由来するのであろうと述べています[5]。そして、ここからは往路で使った大倉尾根ではなく表尾根へと下ります。

行く手左前方には、丹沢の修験道にとって最大の聖地である大山の姿がはっきりと見えています。あの山の麓に住んでいたであろう大山寺御師が、仕事としてではなく自分のためにわざわざ先達を雇って大倉から蛭ヶ岳までを往復したこと、そしてその記録を後世のために残したことに、何か尊いものを感じます。

烏尾山からは、烏尾尾根を下ってまっすぐ新茅荘をめざします。しかし、かつてこの道は烏尾尾根の途中(標高780mあたり)からヒゴノ沢に向かって下るようにつけられており、日向修験の行者たちは抖擻行の2日目に烏尾尾根を下りヒゴノ沢の水で身を清めてから塔ノ岳を遥拝して、そのまま烏尾尾根上で夜を過ごしたと言われています。

▲烏尾山。烏尾尾根の途中からヒゴノ沢へ下る「十三曲」が描かれている。(明治21年(1888年)測量二万図「塔嶽」〔部分〕)

この烏尾尾根の途中(標高910mあたり)には現在、馬頭観音の石碑が立っています。石碑の側面に彫られた文字によればこれはこの先が「御林」であることを示す境界標柱で、ここに置かれたのは文化7年(1810年)です。一方、黒筆者がこの尾根を下ったのは文化2年(1805年)のことですから、そのときには馬頭観音石碑はまだなかったことになります。

この馬頭観音には、東丹沢の修験の道を追体験した昨年の「東丹沢周回」の際にわざわざ表尾根から標高差200m余りを往復して訪ねているので、尊仏岩跡と同じくこれが2度目の対面です。その姿をカメラに収めたらこの日のイベントはすべて終了で、あとは黙々と歩き続けて大倉を目指すばかりです。

新茅荘から戸沢林道を歩き、大倉に到着したのは18時20分。ここを出発してからちょうど11時間がたっていました。本格的なトレイルランナーならこの半分程度の時間で走りきれるだろうと思いますが、それにしてもこうして歩き終えてみると黒筆者がいかにハイペースで歩いていたかがよくわかります。黒筆者は日の長い季節に前夜泊の利点を生かして夜明け前から出発していたと思われますが、当時は登山道が整備されていたわけではなく、途中には厳しい崖もあれば背丈よりも高いスズタケの薮をかき分けて歩くところもあったことは『黒尊佛山方之事』に仔細に記されています。黒筆者はこのルートの解説をヲソルヘシ、ヲソルヘシ、ヲソルヘシと締めくくっていますが、真に恐るべきは200年前の修行者の脚力だと思いながら、自分の山行は「手打そばさか間」で締めくくりました。

最後に、黒筆者に敬意を表しつつ『黒尊佛山方之事』の末尾に記されている「身支度の注意事項」を引用しておきます(一部まとめて記してあります)。

  • 手拭い・手甲・股引き・裏のある草鞋掛足袋の着用。
  • 怪我対策。
  • 中食をたくさん。これが一番大事。
  • 水筒で水を持つ。
  • 他に余計なものを持たない。
  • 案内人を頼む。山麓で前泊する場合は情報収集すること(?)。

うーむ、実に合理的な注意書きです。もちろん私自身もこの注意書きを参照しながら、きちんとしたウェアを着用し、ファーストエイドキットを携行し、行動食と水は必要にして十分な量を持ち、そしてそれら以外のものは持たず[6]軽量化に努めました。さすがに案内人は雇いませんでしたが、山旅の楽しみの一つとして前泊はしてもよかったかも。

脚注

  1. ^これまでの「丹沢の歴史を訪ねるシリーズ」は以下の通り(同一山行が複数の主題にまたがる場合もある)。
  2. ^黒尊佛山方之事』(文化2年(1805年) 城川隆生『中世の丹沢山地 史料集』において2023年10月23日閲覧)
  3. ^峯中記略扣 常蓮坊』(近世後期~末期 同上)
  4. ^山岸猛男『丹沢 尊仏山荘物語』(山と溪谷社 1999年)p.66
  5. ^城川隆生『丹沢・大山・相模の村里と山伏〜歴史資料を読みとく』(夢工房 2020年)p.117
  6. ^ヘッドランプとココヘリ発信機とスマホと財布を除く。