鍋割山〔オガラ沢乗越跡探索②〕

日程:2022/12/09

概要:大倉から鍋割山に登り、旧鍋割峠からコシバ沢を尊仏ノ土平へ下ってからオガラ沢を中ツ峠へ登り返してオガラ沢乗越の痕跡を確認した後、鍋割山経由大倉へ。ちょっとしたアクシデントによる遅い下山を山行終了後の美酒と蕎麦で締めくくる。

⏿ PCやタブレットなど、より広角の画面で見ると、GPSログに基づく山行の軌跡がこの位置に表示されます。

山頂:鍋割山 1272m

同行:---

山行寸描

▲オガラ沢の遡行。沢登りの対象としては魅力ゼロだが、この穏やかな渓相は確かに山越えの道をつけるにはうってつけという感じ。(2022/12/09撮影)
▲中ツ峠。かつてはここを人と馬とがひっきりなしに通っていた(はず)。(2022/12/09撮影)

かつて雨山峠と鍋割峠の間にあって玄倉川上流地域と寄とを結んでいたと言われる「オガラ沢乗越」の径路跡をこの目で見ようと12月4-5日に丹沢に入ったものの、このときは2日目の天候が不順だったために目的の半分(下図赤丸)しか果たせませんでした。

▲大正11年(1922年)修正測量五万図「秦野」〔部分〕に書かれた径路と調査対象エリア。

そこで、この日はその残り半分(上図オレンジ丸)を実行すべく日帰りで鍋割山に登ることにしました。主たる探索の対象は鍋割山の北西にある中ツ峠周辺ですが、山行としては旧鍋割峠からコシバ沢を尊仏ノ土平に下りオガラ沢を登り返す、少しばかりストイックなプランとしています。

◎本稿では、前回の記事と同じく「オガラ沢乗越」を峠の名称ではなく径路の名称として使用しています。

2022/12/09

△07:05 大倉 → △09:10-15 後沢乗越 → △10:20-35 鍋割山 → △11:10 旧鍋割峠 → △12:00 尊仏ノ土平 → △12:20-25 オガラ沢出合 → △13:45-14:15 中ツ峠 → △14:45-55 旧鍋割峠 → △15:20 鍋割山 → △15:55-16:10 後沢乗越 → △18:15 大倉

鍋割山への登路は、きわめてオーソドックスな大倉から後沢乗越経由の王道ルート。どうせ鍋割山に登るのなら途中からミズヒ沢を登るとか、どうせ旧鍋割峠に出るのなら寄側のコシバ沢を登って鍋割峠からトラバースするとか、行程を充実させるオプションはいくつかあるのですが、今回は中ツ峠での探索の時間をなるべく長く確保することに重きを置いたので、このように欲張りしたい気持ちには封印をしました。

始発電車と始発バスを乗り継ぎ夜明けの大倉を出発して、緩やかな尾根筋をまたいで四十八瀬川沿いの道を北へ。かつて勘七ノ沢や小草平ノ沢への沢登りで使った道ですが、それももう20年ほど前のことになってしまいました。

後沢乗越からの登りの途中では名残りの紅葉を見ることができて頬が緩みましたが、鍋割山荘の手前でオレンジのベストの3人組に会って少し緊張しました。彼らはシカ駆除のハンターに違いありません。もちろんお互いに和やかに挨拶を交わしたのですが、これから登山道を離れることになる自分としては、間違って撃たれては困ります。そうならないことを願いながら鍋割山に着いて、軽く行動食を口にしました。

南の方には日に照らされて部分的にオレンジ色に輝く相模湾が見えており、私の少し後にここに登り着いた若者2人組が歓喜の声を上げています。ところが、ややあってそのうちの1人が話しかけてきました。「すみません、ここから下りるには登ってきた道を戻るしかありませんか?」「そんなこともないけど、どこに降りたい?大倉に戻りたいのなら同じ道を戻るか、あるいは塔ノ岳方面へ行って大倉尾根を下りる手もありますよ。地図は持ってます?」「持ってません」「……」。幸いまだ早い時間だし、ここから塔ノ岳にかけては道標も充実しているので絶対に往路を戻れとまでは言いませんでしたが、それにしてもさすが鍋割山、いろいろな人が登ってくるものです。

それはともかく、自分の目線は海側ではなく山側に向かいます。複雑な起伏を連ねるあの地形は地図と実物とを同定することを困難にしていますが、中央に見えている顕著な鞍部は雨山峠のはず。そうであるなら、これから向かう中ツ峠はそれよりずっと右の方です。

鍋割山から雨山峠方向へ下ると道がぐっと左に向きを変えるところで直進方向に尾根が続いており、これが旧鍋割峠やオガラ沢ノ頭を乗せる尾根です。その入り口には黄色いマーキングがなされていました。

ここから先は登山道のない、いわばバリエーションルートということになりますが、実際には尾根の傾斜は緩やかで踏み跡も明瞭に付けられており、これといった困難を感じることもなく昨年4月に鍋割峠から荒れた斜面を横断して達した旧鍋割峠に降り立ちました。

そのときの記録にも書きましたが、現在登山道が通っている茅ノ木棚山稜上の鍋割峠とこちらの峠とはセットで山越えのルートを提供していたのであり、こちらが旧、あちらが新という関係ではありません。そういう意味では「旧」鍋割峠と呼ぶのはおかしいのですが、一般に旧鍋割峠の名が通用してしまっているので、ここでもその表記を踏襲することにします。

今回はオガラ沢を下から詰めることとしているためにいったん玄倉川上流域へ降りなければならず、そのためにはオガラ沢出合へ出られる鍋割山北尾根を下降するのが手っ取り早いのですが、昨年4 月にパスしたコシバ沢を下ってみたかったのであえて遠回りとしました。

旧鍋割峠からの下り始めは柔らかい土の上を緩やかに下る危険のないものですが、二俣まで下りたところからはガレの中で石車に気をつけながらの少々気が滅入る下りになります。地形としては旧鍋割峠に詰め上がる右俣が支流でガレを押し出している左俣が本流のようですが、それにもかかわらず右俣の用途であるコシバ(越場コシッパ)の名を冠されているのは、この沢にしてみたら不本意かもしれません。

気を使うとは言うものの傾斜は相変わらず緩やかで、確かにこれなら鍋割峠越えの径路として荷を背負った馬を歩かせることも難しくはなさそう。むしろ寄側のコシバ沢の方が部分的に傾斜がきつくて難儀しそうに思えますが、こうしたことは実際に歩いてみて初めて実感できることです。

やがて大きな堰堤が出てきて、これを左からかわしたらすぐに広いガレの平地に出ました。ここは鍋割沢の河原で、現在「尊仏ノ土平」と呼ばれているところです。

明治38年に武田久吉氏たちが山神峠を越えて玄倉川上流から尊仏岩を目指したとき、一行の進みがあまりに遅いことに辟易した案内人はもう時間が遅いから「鍋割り」の炭焼き小屋に泊まろうと渋ったという話が伝わっています[1]が、その「鍋割り」とはこの辺りのことを指しているのでしょうか。だとしたら、この眺めの中のどこかに炭焼き窯の跡も残されているのかもしれません。

鍋割山北尾根の末端をぐるりと回ってオガラ沢出合に達し、オガラ沢に入りました。最初の堰堤は左から簡単に越えることができ、その堰堤上にあるアヴァンギャルドな生け花(草月流?)を面白く眺めてから上流を見やると、左岸に台地が見えています。

早くも径路跡か?と思いながら乗り上がってみるとそこは広場状になっており、用途不明ながら穴の開いた箱のようなものがひっくり返って苔むしていました。この広さや遺物からして、ここは径路というよりこの辺りの工事の際に小屋を置いたところのような気がしますが、実際のところはわかりません。

そこから沢の中を右に左に渡りながら上流へと歩き続けましたが、沢登りの対象としてはまったく魅力がないこの沢も、峠越えの道が下ってくる谷筋としては申し分ない優しさを感じさせます。それでも「これが径路跡だ」と明瞭に言い切れる遺構はなかなか見つかりません。

上の写真は標高880mから890mにかけての、とりわけ斜度が緩やかなあたりの左岸を対岸から撮ったものですが、右下から左上へと続く直線は径路跡のように見えないでしょうか?これで石積みでも残っていれば確信が持てるのですが、そうしたわかりやすい人工物は見当たらず、そのうち河岸段丘は全部径路跡に見えてきてしまいました。しかし、今回の山行の目的はこうしたひとつひとつの可能性を丹念に吟味することではなく、中ツ峠周辺に残っていることがあらかじめわかっている明瞭な径路跡を明瞭な範囲に限って確認してその後の検討の方向性を決めることにあるので、とにかく中ツ峠に到達することを優先して先を急ぎます。

地形図から読み取れる最後の二俣を過ぎてから中ツ峠に乗り上がるまでの間にもいくつもの分岐が存在し、そのどれをとるかはある程度勘を働かせるしかありません。幸い、どうにか無駄なく最短ルートを選ぶことができ、ほぼダイレクトに中ツ峠に上がることができました。

『東丹沢登山詳細図』(吉備人出版 2018年新版1刷)には「中ッ峠」と書かれているここは、読みとしては「なかっとうげ」ではなく「なかつとうげ」だろうと思っています。「つ」って何だ?と思われるかもしれませんが、外国を意味する「外つ国」(とつくに)や日本語訳『指輪物語』に出てくる「中つ国」(なかつくに)のように「どこそこ」という意味で「つ」を使う用例は少なくありません。なお、私がときどき参照する吉田喜久治氏の『丹澤記』[2]も「中ッ峠」や「中っ峠」と書いていますが、当時実際に「なかっとうげ」と呼んでいたのか、あるいは「蛭ヶ岳」の「ヶ」が小文字であるのと同じ発想で「ッ」を小文字にする書き方としたのか、そのあたりの真相は不明なので「諸説あります」ということにしておきつつ、本稿では「中ツ峠」の表記を使用します。

ここで、前回・今回と検証の対象としている「オガラ沢乗越」についておさらいをしておきます。この名前の出典の一つは山北町地方史研究会の機関誌『足柄乃文化』に掲載された「西丹沢拾い話[3]」で、そこには次のように書かれていました。

寄村から玄倉川上流に通じる峠径は、鍋割峠と雨山峠の間にオガラ沢乗越と鉄砲沢乗越があって計四つ、それぞれの峠径の先に製板所や休泊所があって、これらの峠径が拓かれた所以を物語っている。この峠径は生産点と生活点を結ぶ径路であった。
雨山峠は諸子平休泊所への物資輸送路として拓かれた。休泊所が諸子平に移る前には、オガラ沢出合附近にあったものが水害を蒙って諸子平に移ったという。
寄村からの四つの峠径は、すべて寄村から見て山向こうの沢の名をつけられて、諸士平側の沢への乗越しができることを示している。
玄倉からの径路は、山神峠越えの径が逆木まで通じていたにすぎない。寄村と玄倉川上流とが、どんなに密接な関係にあったかを示す一つの証拠である。

普通「○○乗越」と言えば峠の名前だと認識しますが、雨山峠と鍋割峠の間にさらに二つも峠があったとするのは地形的に難しい。そして上に引用した文章をそのままに読むとオガラ沢乗越鉄砲沢乗越峠径であり径路だと書かれているので、この記述に沿ってオガラ沢乗越と鉄砲沢乗越を大正11年(1922年)修正測量五万図「秦野」上に試みに引いてみたのが下の図です。

このうちオガラ沢乗越は上の地形図にもともと破線で示されていますが、中ツ峠(上図「?」の位置)から鉄砲沢下流方向にも径路跡が残されていることはいくつかの山行記録で見ていたので、鉄砲沢乗越は独立した径路ではなくオガラ沢乗越の途中から分岐する枝道だったのではないかと考えて線を引いてみました(鉄砲沢の沢筋は幅が狭い中に滝や釜を抱えているよう(未見)なので、沢筋には降りず右岸尾根を末端近くまで活用していたと想定)。もっとも、私にとっては径路がどのように付いていたかということが関心事なので、「○○乗越」が峠の名前なのか径路の名前なのかということについてさほどこだわっているわけではありません。

さて、登り着いた中ツ峠からそれぞれの方向に実際に径路跡を辿ってみることにしましょう。その目的は上記の仮説(思考実験)の立証ではなく、径路跡が見られる範囲内でこの仮説を否定する要素がないかどうかの確認と、その後の検証の方向性を考えるための材料を得ることにあります。

まずは登ってきたオガラ沢側に戻ってみました(踏み跡がついているのは動画を撮る前にいったん下見をしたためです)が、中ツ峠からの径路跡は斜面に切れ込む谷筋によって断たれてしまいました。この先がどのように続いていたのか興味深いところではありますが、上述の通り過去の地形図上で実在が証明されている径路ですから、さらなる探索は労多くして益少なしということになりそうです。

次に鉄砲沢下流方向に付いている径路跡を辿ってみました。こちらは思いのほか長く、かつ、はっきりと径路跡が残っており、2度の折り返しを経て高度を下げていましたが、その先に踏み込むと時間的な問題を生じるので今回の確認はここまでです。この径路跡は上記の仮説に記した鉄砲沢乗越の一部であった可能性はありますが、これが作られた時期を特定できる材料が見つかるとも思えず、たとえ仮にこの先が鉄砲沢出合まで通じていたとしても、そのことをもってこの道が鉄砲沢乗越であると証明できたことにはならないでしょう。

そして、これまで記録を見たことがない鉄砲沢上流方向も見てみました。これも地形図上はその存在が記されていますが、実際にそちらに進んでみるとごく薄く細いバンドのようなものがありはするもののすぐにザレた斜面で不明瞭になり、その先には谷が入ってきていて向こう側の尾根にも径路の痕跡を見出すことはできませんでした。中ツ峠に戻ってあらためて眺めてみると、この鉄砲沢上流側は向こう側の尾根までの間に背の高くない馬酔木ばかりが繁茂していますから、ある時期にこの斜面全体が崩れて径路跡を損なった可能性がある(よって「バンドのようなもの」も径路跡とは言えない)と考えられそうです。

さらに踏み込んで考えてみると、ここまで大正11年の地形図の記載が正確であることを前提として検討していますが、そもそも大正11年の地形図が誤っていて、オガラ沢乗越はずっと等高線に沿って鉄砲沢上流を回り込んでいたのではなくもっと下の方で鉄砲沢を渡って中ツ峠に上がってきていたということも考えられなくはありません。その場合は、先ほど見た鉄砲沢下流方向の径路跡がオガラ沢乗越の一部だということになります。要するに、現時点で断定的なことは何も言えず、あらゆる可能性を排除してはならないということです。

いずれにせよ、今日のところはここまでで十分。以上の知見をベースに仮に今後手を付けるとしたら、まずは中ツ峠から鉄砲沢下流方向に続く径路跡のその先がどうなっているかを見ることが考えられますが、これだけで一日仕事になりそうです。次に鉄砲沢上流方向は、ザレ斜面の向こう側の尾根を回り込んだところに径路跡が残っていないかどうかを探ることが考えられ、ざっと見たところではその尾根に取り付くところが急ではいるものの、尾根に乗ってしまえばその先は歩けそうに思えます。これもまた一日仕事ですが、回り込んだ先が目視できていないだけにどれくらいの安全マージンを確保できるのか皆目見当がつきません。

あちらこちらと見て回っているうちに帰路に就かなければならない時刻になったので、最後に三方向の径路跡(らしきものを含む)に一瞥をくれてから、鍋割山方向へ尾根を登ります。そのところどころには苔が綺麗な癒し系の平坦部もあれば、この尾根を下降していれば緊張することになりそうなザレた斜面や細尾根もあり、それらを越えながら徐々に高度を上げて遂に旧鍋割峠に帰り着きました。

旧鍋割峠から鍋割山まではほんのひと登り。山頂に着いたときには鍋割山荘は締め切られており、登山者の姿もありませんでした。

鍋割山からスタートして尊仏ノ土平へ下り、中ツ峠へ登り返して鍋割山へ戻ってきたこの日の道筋を軌跡として描くと、上の図のようになります。短時間ではありましたが面白い山行でした。そしてバリエーションパートはこれで終わり、このあとは一般登山道を使って大倉へ向かうだけなので鼻歌混じりでとっとと下ろうと思っていたのですが、意外にもそうは問屋が卸してくれませんでした。

鍋割山から後沢乗越に向かって下る途中で年配と若者の男性二人組を追い越したのですが、見れば二人とも登山者というより一般観光客という出立ちをしており、しかも年配の方は膝が悪いらしく段差の下りに難儀しているようです。いったんは追い越したものの気になって後沢乗越で立ち止まり、しばらくして降りてきた二人の若い方に「ヘッドランプを持っていますか?」と聞いたところ、帰ってきた答えは「スミマセン?」。やはりそうか、彼らは東洋風の顔立ちをしてはいますが日本人ではなかったのです。しからばと言語を切り替えて再度聞いてみると案の定、ヘッドランプは持っていないとのこと。さすが鍋割山、いろいろな人が登ってくるものだ……などと呑気なことを言っている場合ではありません。日没時刻は16時半頃なので、あの膝の悪い男性のペースでは山の中で暗闇につかまることは必定です。「あなたたちと一緒に下りますよ。あと30分で日没なので」と告げるとまたしても「スミマセン」。

予想通り二俣に着く前に真っ暗になってしまいましたが、ありがたいことに道が平坦になると年配の男性の歩行速度がぐっと上がりました。若者の方はスマホを懐中電灯代わりにしてぐんぐん先を行き、これなら自分が同行しなくても大丈夫だったかなと苦笑しながら年配の男性の方と会話してみると、二人はシンガポールから観光でやってきた父子でこの日の朝から鍋割山に登っていたそう。シンガポールから来てなぜわざわざ鍋割山なのかと聞きたくなるところですが、高尾山の名前も出していたところからすると、どうやら日本を訪れる観光客向けに「東京近郊で登るべき山」的なリストがあり、そこに鍋割山も載っていたようです。ともあれ、無事に大倉のバス停に着いたところで「Thank you so much!!」と言ってもらって二人とはお別れ。同時に自分の山行も終了です。

下山後に立ち寄ったのは、大倉のバス停の近くにある「手打そばさか間」です。雰囲気のある店内で、フルーティーなお酒「松みどり」と共においしい肴、そして奮発して天せいろ。ここに入ったのは久しぶりですが、これだけ腰を落ち着けて蕎麦をいただいたのは初めてでした。もし再び丹沢グルメ巡りを企画するとしたら、ここは外せないな。

今日の山行で得た情報を今後どのように発展させるべきか、今のところ方針は立っていません。行くなら次は中ツ峠から鉄砲沢下流方向に続く径路跡のその先の確認ですが、冬は自分にとって丹沢の季節であると共にアイスクライミングの季節でもあり、そう根を詰めて丹沢に通うというわけにもいかないので、自然体でそのタイミングが来るのを待つことにします。いわば「無計画の計画」です。

脚注

  1. ^高野鷹藏「塔ヶ嶽」『山岳』第1年第1號(日本山岳会 1906年4月)p.58-78
  2. ^吉田喜久治『丹澤記』(岳ヌプリ書房 1983年)p.438-439 ほか
  3. ^小木満「西丹沢拾い話」『足柄乃文化』第28号(山北町地方史研究会 2001年3月)p.75-88。本稿は丹沢自然保護協会会報『丹沢だより』第295-300号(1994年)に「ユウシン地名考あれこれ」と題して連載された論考をまとめて加筆したもの。

参考