東丹沢周回
日程:2022/04/09-11
概要:2泊3日で東丹沢の修験の道をぐるっと周回。最初の2日は『峯中記略扣』に描かれた日向修験の峰入り修行の道(大山〜丹沢主脈の山々)を辿り、最後の1日で大山修験と八菅修験の共通の抖擻ルートがあった相州アルプスを縦走して起点の七沢温泉入口へ。
⏿ PCやタブレットなど、より広角の画面で見ると、GPSログに基づく山行の軌跡がこの位置に表示されます。
山頂:大山 1252m / 塔ノ岳 1491m / 丹沢山 1567m / 蛭ヶ岳 1673m / 黍殻山 1273m / 焼山 1060m / 半原高取山 705m / 仏果山 744m / 経ヶ岳 633m / 華厳山 602m / 白山 284m
同行:---
山行寸描
2014年の丹沢全山縦走、2017年の西丹沢周回に続く「長尺シリーズ」の第3弾は、相州アルプスを含む東丹沢周回コースとしました。この山行を考え始めたのは2021年の春頃のことでしたが、その時点では既にヤマビルの活動期に入りかけていたので決行時期は2021-2022の冬としていったん本件を塩漬けに。秋になってから、それまでしまいこんでいたこのプランを引っ張り出して検討を再開し、起終点を七沢温泉入口にすることはすぐに決められたのですが、地図上にどういうラインを引くかについては少々悩んだ末、せっかく東丹沢を歩くのであれば修験の行者が歩いた抖擻とそうルートをできるだけ辿ってみようと思い付きました。
そこから合間を見ては関係資料を集め目を通して押さえるべきポイントを設定し、先人の記録からその間のおおよそのコースタイムを計算し、自分のお世辞にも速いとは言えない足に見合う宿泊場所を検討し……とプランを煮詰めていっていよいよ2021年の師走、雪が降る前に決行だ!というところまできたのですが、1泊目の宿泊場所に予定していた丹沢ホームに連絡を入れてみると貸切だのなんだので予約がとれません。しばし天を仰いだ末、こうなったら多少の積雪は蹴散らしてでもこの冬のうちに片付けてしまおうと年明けの成人の日の三連休(1月8-10日)に照準を定めて各種手配を進めたところ、今度は1月6日に南岸低気圧の影響で南関東でも「多少の」ではすまないほどの大雪、そして1月21日から3月21日までのまん延防止等重点措置期間。
そんなこんなの紆余曲折の末、当初のもくろみから大幅に遅れた4月になってようやく東丹沢を目指すことになりました。
2022/04/09
△07:05 七沢温泉入口 → △07:50 日向薬師 → △08:25 日向山 → △08:45 大釜弁財天 → △09:25-30 ひょうたん広場 → △09:55 弁天見晴 → △10:25 すりばち広場 → △12:20-40 大山 → △13:40 諸戸山林事務所 → △14:35 国民宿舎丹沢ホーム
旅の起点である七沢温泉入口には、自宅から最も早い便で7時に到着。ここから広沢寺温泉までの道は車や徒歩で何度も行き来したことがあり、それというのも今を去ること22年、私が初めてクライミングシューズを履いたのが岩登りのゲレンデとして有名な広沢寺弁天岩で、以来何度もこの岩場に通って腕を磨いたからですが、この日向かうのは弁天岩ではなく初訪問の日向薬師です。
なぜなら、今回の山行の前半は日向修験の行者道を記す『峯中記略扣 常蓮坊[1]』に即したコース取りとすることにしたからで、1963年に発見されてセンセーションを呼んだこの覚書によれば、そのコースのあらましは弁天御髪尾根べんてんおぐしおねから大山登頂後に表尾根を辿って塔ノ岳、さらに丹沢主脈を蛭ヶ岳まで縦走して青根へ出るもの。修験者たちは、途中で指定された行場や宿泊場所に立ち寄りながら5日間でこれを踏破する峰入り修行を7年に一度実行していたそうです。
バス停から日向薬師に向かう道すがら、桜の目立つ里山の景色の向こうにこれから登る大山がひときわ高く見えています。今日は一日良い天気に恵まれそうだ、とこのときは喜んでいたのですが……。
霊亀2年(716年)に行基が開山した日向山霊山寺が前身と伝わる日向薬師は、薬師如来信仰の霊場として古来有名で、今年は4月16日に本尊開帳・柴燈護摩供・稚児行列(これは12年に1度)を伴う例大祭が執り行われるそう。当日はずいぶんと賑やかになるであろう境内も今日のこの時間は清掃の人がいるだけの静かな佇まいで、その正面奥にある大きな茅葺屋根の本堂で手を合わせたらすぐに左手の道から日向山の山頂を目指しました。
緩やかな傾斜の山道を登って梅ノ木尾根に達したら右手へ折れて、しばしの歩きで日向山の山頂に到着しました。そこには天明8年(1788年)の石祠があり、説明板にはここにかつて弁天様が祀られていたと書かれています。弁天様を拝むことができないのは残念ですが、それよりも気になるのは気温の高さ。まだ8時半頃だというのにぐんぐん暑くなってきて、長袖Tシャツ1枚でちょうどいい感じです。気温が高いということは担がなければならない水の量が増えることを意味しますが、この地域ではもう一つ、ヤマビルの活動が活発になるという懸念も生じます。
日向山から七曲峠を経て北側の車道に降り立ち、広沢寺温泉側に少し下ったところにある大釜弁財天に立ち寄りました。ここは日向修験・大山修験と並び称される八菅修験の行所「金色嶽」に擬せられる聖地で、鳥居をくぐるとすぐ先にある大岩の間の空洞が天然の祠になっていました。また鳥居の下流側には丹沢ではあまり見掛けない立派なポットホールがあり、どうやらこれが「大釜」の名前の由来らしいと気付きました。
大釜弁財天から車道を引き返して大沢川沿いに上流へ進むと、舗装路が山道に変わってしばらくしたところで右手の弁天御髪尾根へ通じる分岐点に達します。道標にはまっすぐ行けば五段の滝、右に折れればひょうたん広場と書かれていて、ここからフィックスロープが連続する急斜面をぐいぐい登っていったん傾斜が緩み東屋が建っているところがひょうたん広場。ベンチに腰掛けて行動食をとりながら一息入れました。
さらに登り続けて弁天御髪尾根に乗ったところが弁天見晴で、冬のキンと寒い日なら絶景が広がっているだろうと思える展望地になっています。それにしても冒頭に言及した弁天岩、日向山山頂の弁天様、大釜弁財天、弁天御髪尾根に弁天見晴とこの辺り一帯は弁天様のオンパレード。ものの本によれば弁財天は龍神と共に水源の神様だそうなので、古くから雨乞いの滝として信仰を集めていた大釜に弁天様が祀られ、それが周囲の地名に波及したという風に考えることができるのかもしれません。
それはさておき、弁天見晴からちょっと登るとほぼ水平の歩きやすい尾根歩きになり、やがて尾根上の小広い鞍部に湿った窪地が現れました。ここはすりばち広場と呼ばれていますが、八菅修験と日向修験の共通の行所(空鉢嶽・尾高宿など)であり、明治の初めまで行者の庵もあったと言われています。
梅の木尾根との合流点である大沢分岐で単独の登山者と出会い、その後を追うように尾根通しを歩いて大山と唐沢峠とをつなぐ稜線上の登山道に合流。広く開けた尾根道を登って大山の山頂に着きました。前回この山頂に立ったのは去年の11月と比較的最近ですが、今日登り着いてみると山頂広場は工事のためにしっちゃかめっちゃか。登山者は1段下の見晴らし台に三々五々たむろしている状態です。自分も見晴らし台のベンチに席を確保し、ここで大休止としました。
食事を終えたら山頂の北側に回り込んで諸戸尾根への下り口を探すと、事前の情報の通り鹿よけのネットでしっかり塞がれた状態ながら、ネットをめくり上げて腰を落とすようにすればくぐり抜けることができました。ネットをきちんと元通りに戻し、正面に見えている表尾根や塔ノ岳の大きさに気圧されるものを感じながら歩きやすい踏み跡を淡々と下りましたが、これは日向修験の道が今のヤビツ峠を経由せずにこの尾根を下って門戸口(山林事務所あたり)に出て最初の夜を過ごしてから三ノ塔へ登り返していることに倣ったコースどりです。
諸戸神社・山林事務所に下り着き、ここからは勾配の緩い車道をミツマタなどを愛でながら札掛へと下ります。時刻はまだ早いのですが、この時間から表尾根に登り返すと山小屋に着ける時刻から考えて宿泊に支障が生じますし、この辺りに江戸幕府によって設定されていた丹沢御林の中心地である札掛に足を踏み入れてみたいという動機もあって、札掛にある国民宿舎丹沢ホームに予約をとってあったのでした。
丹沢ホームには初めて泊まりましたが、素晴らしくモダンな建物と畳敷きの宿泊室のギャップには驚きました。お風呂は気持ち良い絶妙の熱さで、食事もとてもおいしく、しかも値段がとてもリーズナブル。ここならもう一度泊まりたいと思いました。
2022/04/10
△04:05 国民宿舎丹沢ホーム → △04:45 BOSCOオートキャンプベース → △05:50-06:10 ヨモギ平 → △07:10 三ノ塔 → △07:35 烏尾山 → △08:05-10 烏尾尾根馬頭観音 → △08:45 烏尾山 → △10:45-11:15 塔ノ岳 → △12:25-35 丹沢山 → △13:05 大滝新道下降点 → △14:10-50 早戸大滝 → △16:05 大滝新道下降点 → △17:40 蛭ヶ岳 → △19:00 姫次 → △19:45 黍殻避難小屋
朝4時過ぎに出発。三ノ塔から札掛へまっすぐ伸びているヨモギ尾根を末端から登るという選択肢もありますが、昨日車道を下ってきたときに渡渉点を目で探してみてもここならという場所が見つからなかったのと、まだ暗いうちに距離を稼ぐなら車道の方が好都合だろうという理由から、昨日下ってきた道をゆっくりと登り返しました。
40分ほどの歩きで昨日大山から降り着いた山林事務所の向かいにあるBOSCOオートキャンプベースの入口に到着し、そっと施設の中を通らせてもらいます。ヨモギ尾根に取り付く道がわかるだろうかと少々不安でしたが、施設内の道路を辿り藤熊川を左岸に渡って上流方向へ少し進んだら、右(下流方向)へ折り返すブル道が見つかりました。これをジグザクに登るとかなり上の方まで通じていて、ブル道が切れた先も明瞭な踏み跡を使ってヨモギ平に達することができました。
ヨモギ平には広い木のテラスが設けられており、背後の大山北尾根から昇る朝日に照らされながら宿の人がこしらえてくれたおにぎり(大2個にソーセージ付き)の朝食をとりました。ここから三ノ塔までは緩やかな登りが50分ほどです。
表尾根に合流する地点には塔ノ岳を見つめる小さなお地蔵さんがいて、リュックサックをそこにデポして三ノ塔まで往復した後、リュックサックを回収して烏尾山を目指します。左手には富士山がぼんやり霞んで見えますが、三ノ塔の上からは富士山の右側に南アルプス南部の山々(赤石岳や荒川三山)が雪を戴いた姿も見られました。
烏尾山のベンチの近くにリュックサックを再びデポし、ここから表尾根を外れて烏尾尾根を標高差200m余りも下ると、尾根が平坦になったあたりに馬頭観音が姿を見せてくれます。ここは今回の山行でのこだわりポイントの一つで、日向修験の行者たちは表尾根からここまで下りた後、尾根の左下から水音を聞かせているヒゴノ沢の水で身を清めてから塔ノ岳を遥拝し、翌日からの厳しい抖擻行に備えたと言います。あいにく今は植林のために塔ノ岳を見上げることはできませんが、地形的には確かにそこそこの人数がここを2晩目の宿とすることが可能と思えました。
石碑を観察してみると、馬頭観音に向かって右側面には「是より多ん沢御林 狗留そん仏 道」、左側面には「文化七年 庚午四月吉日 志主 横野邑中」と彫られています。文化七年は西暦1810年ですが、この文面の「是より」からは、ここから上が特別な場所であることを伝えようとする意図が感じられます。
烏尾山に登り返して縦走を継続し、かつて新米の行者の腰に縄をつけて断崖から下を覗かせた「新客ノゾキノ岩」があったという行者ヶ岳をなんと言うこともなくスルーして、善男善女で賑わう塔ノ岳に到着しました。尊仏山荘で仕入れたコーラを一気飲みして身体を冷やし、軽く食事をとってから引き続き丹沢山を目指します。本当はここで尊仏岩に立ち寄るのが正式ですが、ほぼ1年前に訪れたときの記憶が鮮明なので今回はパス。尊仏岩に通じる笹の中の踏み跡をチラ見しただけで先を急ぎました。
丹沢山までの間の竜ヶ馬場もかつては竜樹菩薩の尊像が置かれた行所で、開けたその地形から大山の遥拝がなされていたようですが、現代の登山者はむしろ笹原の美しさを褒め、写真を撮りながらここを通過します。やがて達した丹沢山の山頂は日向修験が3晩目を過ごした場所で、1週間前に降った雪がまだ少し残っていました。
烏尾尾根の馬頭観音に続く二つ目のこだわりポイントは、稜線から早戸大滝への往復です。日向修験の一行は丹沢山(弥陀ヶ原)に泊まった後、4晩目を不動ノ峰手前の不動明王像がある平坦地に泊まっており、この間の1日を使って「下リコフバセ上リコフバセ」を行き来していますが、この名前は大峰修験の弥山山頂と講婆世宿(聖宝宿・55番靡)との間の急斜面をイメージしたもので、主稜線から長い急斜面を下ったところ、すなわち早戸大滝を行所としたものと解されています。かつては丹沢山と不動ノ峰の間の最低鞍部(早戸川乗越)をまたいで箒杉沢から大滝沢へと道が通じており、現に明治21年測量の地形図にも最低鞍部から大滝沢へ下る道が書かれているのですが、この道は大正13年の丹沢地震(前年の関東地震の余震)によって使えなくなり、現在この稜線上から早戸大滝へは最低鞍部の先の1550mピークから早戸大滝に向かって落ち込んでいる尾根上に拓かれた大滝新道を使うことになっています。
丹沢山側から大滝新道に入る場合、最低鞍部から不動ノ峰方向へ登っていって最初に出てくる植生保護策の看板が入口の目印になります。看板の近くの登山道からは目に付きにくい場所にリュックサックをデポし、10リットルのサブザックに水と行動食とヘッドランプと貴重品を入れて柵沿いをトラバースするとすぐに尾根上の踏み跡に合流し、そこからしばらくは明るい尾根上の快適な下降が続きました。ところが、長い下降の中盤になって馬酔木の茂みが目立つようになると途端に方向がわかりにくくなってきます。ところどころに赤テープはあるものの、ふと気付けば大滝沢の上流寄りに向かってザレた急斜面を下っている自分がいました。この日はヘルメットをかぶっておらずロープも持ってきていないため、ちょっとしたスリップや行き詰まりが致命的になりかねません。よって慎重に先を見通しそろそろと足を進める我慢の下降を続けることになりました。
どうにか無事に大滝沢に下り着き、そこからしばしの下降で早戸大滝の落ち口に到着できました。左岸には大滝新道の最下部の固定ロープが垂れており、これを見れば下降ルートはとにかく早戸大滝に向かってまっすぐ下る尾根を外さないようにしなければならなかったことがわかります。かたや右岸側には滝の下へと通じる道が付いていましたが、こちらもトラロープでガードされた剣呑な道で、バリエーション未経験者にはとても勧められない代物でした。
ともあれ、引き続き慎重に下って滝の全貌を眺められるところまで降りてから振り返ったところ、さすがは「日本の滝百選」に選ばれている早戸大滝、その評価に値する迫力のある滝でした。右岸側からの岩の出っ張りが滝の一部を隠しているのも、かえって神秘性を増しているよう。ざっと眺めて登攀の可能性を考えてみたものの、もし登るならボルトを打ちながらの人工登攀になりそうですが神聖視されてきたこの滝の壁にボルトを打ち込むことはためらわれ、それよりは完全氷結したときにアイスクライミングで挑む方が真っ当のような気がします。
後で調べてみたところ、この滝は1961年にボルト18本連打で初登され
ており[2]、2014年にもボルトを新たに打ってのルート工作が試みられている[3]のですが、近年での登攀記録は落ち口からフィックスしたロープを使ってのユマーリングの記録[4]を見掛けただけでした。また、凍った早戸大滝の写真を検索してみましたが、下から上まで確実につながった状態の画像を見つけることはできませんでした。
早戸大滝の下からリュックサックをデポした地点までは500m以上の標高差があります。大滝新道入口と書かれた皿標識を横目に落ち口まで戻り、持参したプラティパスに2リットルの水を汲んだら左岸のトラロープをつかんで登り返しを始めましたが、出だしのこの急斜面を我慢して突破すれば、あとは樹林の中のだらだらとした尾根登りが続くだけでした。
じっと待っていてくれたリュックサックの元に戻り、縦走を再開してすぐに不動ノ峰休憩舎で、ここで不動明王像に手を合わせてこの先の行程の無事を祈りました。既に16時を回っているしツェルトも持参しているので休憩舎で泊まることができればその方が楽なのですが、ここはぐっと我慢して計画通り蛭ヶ岳越えを目指します。
蛭ヶ岳の山頂の手前から東を眺めると、夕方の斜光の下に宮ヶ瀬湖が見えました。その右のオレンジ色に染まった顕著な尾根は丹沢三峰で、自分があそこを歩いたのは1984年の1回きり。その頃はハイキング程度の山行しかしていませんでしたが、まさか38年後にこのような極道な山歩きをしていようとは想像もしていませんでした。
蛭ヶ岳山頂では山荘に立ち寄ることもなく、山頂広場のテーブル上で日中の熱暑のためにすっかり痩せ細っている雪だるま(クマ?タヌキ?耳のとんがりがキュート)に挨拶をして、ただちに姫次方面へ下りました。なるべく明るいうちに距離を稼がなくては。
『峯中記略扣』の道は蛭ヶ岳を越えて姫次から一気に青根へ下っていますが、こちらは山行をもう1日継続するために黍殻避難小屋まで足を伸ばしました。丹沢主脈上の縦走路からわずかに外れたところに位置するしっかりした造りのこの避難小屋は収容人数15人ですが、今宵は私の貸切です。まずはウイスキーの水割りで喉を潤し、お湯を沸かしてカップ焼きそば、それにコンビーフ。誰もいないことをいいことにiPhoneで大音量で音楽をかけ(King CrimsonではなくThe Go-Go'sにしました)、食事を終えて満ち足りた気分になったらただちに就寝しました。初日の行動時間(休憩コミ)7時間半に対して、この日の行動時間は15時間40分。よく頑張ったと自分で自分を褒めましたが、実は、翌日の行動時間はさらに長くなりました。
2022/04/11
△04:15 黍殻避難小屋 → △04:40 黍殻山 → △05:35-45 焼山 → △08:00 蛭嶽大神 → △08:45-09:15 鳥屋 → △10:10 宮ヶ瀬三叉路 → △10:40 仏果山登山口 → △11:50 宮ヶ瀬越 → △12:00 半原高取山 → △12:15-25 宮ヶ瀬越 → △12:55-13:00 仏果山 → △13:40 革籠石山 → △14:30 半原越 → △15:00-05 経ヶ岳 → △15:50 華厳山 → △16:15 荻野高取山 → △17:05 煤ヶ谷高取山 → △18:05-10 御門橋 → △18:55 白山神社 → △19:55 順礼峠 → △20:15 七沢温泉入口
3時半に起床して手早く朝食を済ませ、真っ暗な中を避難小屋を後にしました。最後の一日も頑張ろう。
黍殻山のピークを経て焼山に向かう途中で、宮ヶ瀬湖の向こうに昇る朝日を拝むことができました。それにしても、これからあの湖面を輝かせている宮ヶ瀬湖の畔まで降りてその向こうの相州アルプスへと登り返すことを考えると気が遠くなってきます。
焼山の山頂には展望塔(今は立入禁止)と石祠が建っています。山頂の解説板によるとこれらの祠は青根・青野原・鳥屋の三部落の境界を示すためのもので、したがって三つあるはずなのですが時間の関係もあって目にしたのは二つだけ。見損ねたのは青根の祠で、青野原の祠は無惨に倒れてしまっており、鳥屋の祠はハート型のマークが面妖なと思ったらなんと胴体部分が逆さにされていました。倒れたものを直すときに間違えてしまったのかとも思いましたが、しかし側面の文字を見れば上下は誰の目にも明らかなので、これは意図的に逆さにされてしまったのかもしれません。気の毒なことです。
今回の山行でのこだわりポイントが烏尾尾根の馬頭観音と早戸大滝(と後で出てくる荻野高取山)だとすれば、緊張ポイントはこの焼山から鳥屋方面へ下る道でした。もともとこの道は焼山の手前(姫次寄り)で分岐して焼山の東斜面を横断していたのですが、この横断場所を含む複数箇所で道が崩れたために今は点線ルート扱いの状態です。山神径路や三ヶ瀬古道を歩いていれば多少の荒れ道は苦にならないはずですが、避けられる危険は避けたいので選んだルートが、焼山の山頂を越えて青野原側で巻き道と合流した地点から少し進んだところからほぼ真東に下る尾根を直下降するというもの。いざ下り始めてみると、確かに出だしはそこそこの急斜面ですがチェーンスパイクががっちり地面をつかんでくれて、ダブルストックで身体を安定させながら下ればさほどの危険を感じることなく鳥屋に向かう登山道に合流することができました。
さらにその先でも1箇所はっきりと崩れてしまっているところがありましたが、ここは容易に下から迂回することが可能でした。さらに、エンナミノ頭と柏原ノ頭を結ぶ尾根筋の山腹を巻く道も荒れているという情報を事前につかんでいたためにエンナミノ頭へと直登して稜線上を歩きましたが、そこにはどうやら平戸から上がってきたオートバイのものらしい轍がついていました。
柏原ノ頭から緩やかに尾根を下って、回避した山腹道と合流するところに丁目石と弁天様らしき石像(「安政五午年 四月吉日」の刻字あり)あり。おや?こんなところにと思いつつ弁天様を仔細に観察していると、その右奥に祠があるのが目に入りました。
それがこの蛭嶽大神(祠内の御札には「奉再建蛭嶽大神一心靈神 普寛靈神 盛心靈神」)の祠でした。ここは計画段階からぜひ立ち寄りたいポイントとして認識していたのですが、参照していた「山と溪谷オンライン」の地図ではここから300mほども東にこの祠が存在するように書かれていたので、もし先ほどの弁天像を観察していなかったら見逃すところでした。
蛭嶽大神の近くの道が少々悪い状態だったもののその区間は短く、あとはオートバイが走れるほどに安定した道が下界までつながっています。途中のミツマタ群落を鑑賞しながら鶏の鳴き声がかしましいこっこパーク脇の道を通って車道に降り、鳥屋のバス停を経てこの地域唯一のコンビニエンスストアであるファミリーマートの横にリュックサックを置くことができました。このファミマでの補給も計画のうちで、ここで食糧と飲料を獲得できることを前提に運搬する荷物を最小限にしていたのですが、ストイックな登山者から見ればこれは邪道と言われるかもしれません。しかし、コース上に使えるリソースがあれば何でも使うのが私のモットー。なに憚ることなく、ここでサンドイッチと飲料を買い求めて大休止としたのでした。
『峯中記略扣』に記述された日向修験の行者道を辿る旅は昨日の姫次までで既に終わっていますが、ここからは八菅修験と大山修験にゆかりのあるコースとして相州アルプスを縦走することにしています。そもそもこの鳥屋自体、大山修験の行者が蛭ヶ岳から下ってきて次なる目的地である石遲草嶽・明王嶽(仏果山のこと)を目指す中継地であったと考えられており、そのことと関係があるかどうかは不明ながら、鳥屋バス停の近くや宮ヶ瀬湖の畔にはたくさんの石碑(特に宮ヶ瀬湖畔は馬頭観音だらけ)が立っていて宗教的雰囲気を濃厚に漂わせていました。
鳥屋から虹の大橋を渡り宮ヶ瀬を抜けてやまびこ大橋を渡ったら仏果山登山口まではあとわずか。つらい舗装路歩きと気温の高さにへこたれそうになりながらも、ここまで来たら計画を完遂するばかりだと悲壮な決意を固めます。
仏果山登山口から稜線上の宮ヶ瀬越までの間も名うてのヤマビル危険地帯らしく、そのことの警告を発する案内板に恐怖しながら登山道を登り続けましたが、ここ数日の晴天で道が乾燥していることが幸いしてか、足元にヤマビルが姿を現すことはありませんでした。
登り着いた宮ヶ瀬越にリュックサックをデポして半原高取山を往復したら、相州アルプス最高峰である仏果山を目指します。
仏果山の山頂には何体かの石仏や賽の河原のような石積みがかたまっており、それらの中にはヨーダにそっくりの小像も混ざっていて笑わされました。半原高取山にもこの仏果山にも高さのある展望台が備え付けられており、それぞれに登山者が登って景観を楽しんでいましたがここはスルー。それよりも仏果山と革籠石山との間の「山岳修験者のはなし」という解説が八菅修験の行所を詳しく説明していて面白く読みました。
土山峠から上がってきた道が相州アルプスの縦走路にぶつかる地点から経ヶ岳までの間は、昨年11月に歩いたばかりです。この山行は大山の南稜から大山を越えて北尾根を下るというもので、それだけであれば土山峠か煤ヶ谷で行動を終了すればいいはずなのにわざわざ経ヶ岳へ登り直していることを訝しがられたのですが、この東丹沢周回ルートの中で行程終盤の体力面での難所になりそうな半原越から経ヶ岳への登りの負荷をあらかじめ知っておきたいという動機があってあえて経ヶ岳から半僧坊までコースを延長したというのが真相です。確かにこの登り返しはきついと言えばきついのですが、二度目という気安さもあってさほど苦にすることなく経ヶ岳の山頂に達し、そこから常にこの山旅の中心にあった大山を眺めることができました。
経ヶ岳から華厳山までは地元の「西山を守る会」による親切看板に導かれ、最初に滑りやすい急降下をこなした後にだらだらと登って45分ほどで山頂に着くことができました。経ヶ岳山頂で見た「西山を守る会」のポスターでもこの区間は15分くらい下り、その後30分くらいの登りになります
と書かれていましたから45分というタイムはぴったりなのですが、手元のiPhoneで参照している『山と高原地図』の表記は30分になっています。先ほどから相州アルプス上の各区間のコースタイムが妙に辛いように感じていたのですが、これでことこの地域に関する限り『山と高原地図』のコースタイムを信用してはいけないということを確信しました。
華厳山から最終目的地である飯山白山に向かうためには華厳山の山頂から南東へ標高差40m下ったところから派生する尾根を辿らなければなりませんが、八菅修験の行者道は経ヶ岳から華厳山を経て荻野高取山(第10行所「寺宿」)に達しているので、派生尾根の分岐点にリュックサックをデポして荻野高取山までの緩やかな尾根道を往復しました。これもまた本山行のこだわりポイントの一つです。
リュックサックのデポ地点まで戻って派生尾根を下りましたが、出だしの斜面は地形図の等高線の詰まり具合が示す通りの急坂で、固定ロープの世話にならなければ下降に相当苦労することになっただろうと思います。それでもこの急坂が落ち着いたら、あとは適度な間隔で付けられている赤テープを目印にひたすら下るだけ。この尾根は正規の登山道ではないもののよく歩かれているらしいことが、踏み跡の明瞭さや赤テープの新しさなどから伝わってきます。そしてこの下りの過程でこの日三つ目の高取山となる煤ヶ谷高取山(464m)を通過することになりました。
なんとか明るいうちに下界に達したいという願いはかなえられ、尾根末端の鹿柵も赤テープに導かれて無事に通過することができ、御門橋バス停の近くで待望の自動販売機と対面することができました。さすがにこれは計画の中に入ってはいませんでしたが、この日の気温の高さのために水分の消費が著しく手持ちの水があとわずかになっていたので、ここでのPET飲料の補給はうれしいプレゼントでした。
今回の山行の掉尾を飾るのは、八菅修験にゆかりがあり古代からの聖地ともされてきた飯山白山です。ここでも登山口でヤマビル被害への注意を促す看板を目にしましたが、足元ばかり注意しながら登っているうちに空は一気に暗くなっていき、しかもヘッドランプのバッテリーが減って自動的に節約モードへと照度を落とされてしまいました。しかし、ここで慌てる必要はありません。黍殻避難小屋で使用したソーラーランタンが歩行時の照明としても使えることは昨年の和名倉沢遡行後の下山時に実証済みで、ただちにソーラーランタンを腰にぶら下げて登高を継続しました。
白山展望台に到着したときにはあたりはほぼ真っ暗で、おかげで素晴らしい夜景の広がりを目にすることができました。白山の山頂はここではなく北に進んだところですが、なにしろ遠くを照らす照明手段がないので山上の平坦な道を脇目も振らずに歩いて白山神社に達し、ここで山行を切り上げることにしました。本当はこの先の桜山まで足を伸ばす予定だったのですが、信用ならない『山と高原地図』が往復25分かかると言っているということは実際には40分はかかるということだなと計算して照明が切れるリスクと天秤にかけた結果、桜山を断念することにしたものです。
白山神社で山行を切り上げると言っても、下山先を山旅の起点であった七沢温泉入口にするという点を揺るがせにするわけにはいきません。漆黒の闇の中、ソーラーランタンの明かりだけを頼りに山道を飛ばし、狢坂峠・物見峠・順礼峠と繋いで、順礼峠から下界への道はヤマビルにまとわりつかれないようにと必死に駆け下りました。
初日の行動時間7時間30分、2日目15時間40分、3日目15時間50分で、合計39時間(休憩コミ)。GPSデータが正確なら、合計距離は75.5kmで累積標高は上り下りとも6000m強。このハードワークをこなしてようやく完遂した「丹沢長尺三部作」を同一地図上に重ねて表示すると次の通りです。こうしてみると西丹沢周回(紫色)と東丹沢周回(橙色)が塔ノ岳〜丹沢山〜蛭ヶ岳の線を境に西と東とでループを描き、これら二つに絡むように西から東へ横断するのが丹沢全山縦走(エンジ色)というつくりになっています。
もっとも、2014年時点の私には丹沢と言ってもおよそ標高1000m以上のピークしか眼中になく、さらにもともと「丹沢」という地名が中津川水系の旧御林に相当する地域の名称であった[5]という歴史も知ってはいませんでした。よって、そうした中で設定した「全山」縦走コースは今となっては少々おこがましいネーミングだったなと反省気味。一昨年の秋からいくつかのマイナールートを歩くうちに丹沢の地理的・歴史的奥深さを知るようになった現在では、たとえ短距離の日帰りでも相当にディープな課題をこの地図の中に設定することが可能になってきています。そんなわけで、自分と丹沢とのつきあいは細く長くまだまだ続きそうです。
丹沢の行者道
修験道は、日本古来の山岳信仰が仏教に取り入れられた神仏習合の信仰。その開祖は伝説的な行者である役小角(634?-701?)とされていますが、大山を含む丹沢山中をフィールドとして修験者が活躍しだしたのは早くも8世紀のこと[6]です。中世には大山周辺の主要寺院に修験集落が構えられて隆盛を示したと言いますが、戦国時代に北条氏に与したことから徳川家康が江戸に入府した後は厳しい弾圧を受け、多くの山伏が山を下り御師となって民間の大山信仰の牽引役になったとのこと。その後も紆余曲折ありながら続けられていた峰入り修行も、明治元年(1868年)の神仏判然令と明治5年(1872年)の修験宗廃止令、そしてこれらに続く廃仏毀釈によって絶えることとなりました[7]。
今でも大山周辺の川筋や尾根筋には多くの山岳寺院の痕跡が残っているそうですが、今回の山行では以下の三つの行者道を意識しながら歩きました。
- 大山修験の行者道
- 『大山縁起』及び『今大山縁起』によれば、大山寺不動堂(現・阿夫利神社下社)を起点に山頂から北尾根を辿って札掛あたりへ下り、表尾根に登り返して蛭ヶ岳まで縦走してからルート不明ながら鳥屋または宮ヶ瀬あたりへ出た後、仏果山と経ヶ岳に登り大山を遥拝してから塩川の谷へ下り、その後もルート不明(三峰山経由か?)ながら起点に戻る。
- 八菅修験の行者道
- 中津川沿いの八管山光勝寺(現・八菅神社)から上流へ進んで塩川の谷。ここから経ヶ岳に登り飯山白山まで縦走した後に、煤ヶ谷から不動沢に入って大山三峰山の尾根に上がるものの、まっすぐに大山を目指さず再び不動尻に下って七沢の大釜弁財天から弁天御髪尾根を登って大山に至る。
- 日向修験(霊山寺)の行者道
- 『峯中記略扣』の道。日向山霊山寺宝城坊(現・日向薬師)を発ち弁天御髪尾根から大山登頂後に門戸口を経由して表尾根から塔ノ岳に達し、烏尾山からヒゴノ沢、丹沢山の先から早戸大滝へそれぞれ立ち寄りつつ丹沢主脈を蛭ヶ岳まで縦走して青根へ出る。
上記三つの行者道上に営まれた行場を地図上にプロットしてみたのが上の図です。共有されている行場があって錯綜している上に正確性・網羅性も不十分なので、だいたいの雰囲気をつかむためのものと思ってください。本文中で自分の通過地点と修験の行所との同定を控えめにしたのも同じ理由からです。
ともあれ、これらのルートのうち今回の周回山行で歩いていない大山北尾根は昨年11月に歩いていますし、大山修験と八菅修験に共通の抖擻ルートだった大山三峰尾根も2014年の丹沢全山縦走の際に歩いているので、八菅神社周辺と不動沢周辺が未踏ながら主稜線上の行場はそこそこカバーできたことになるだろうと考えています。
日本山岳文化学会論集
この山行の翌年、私が丹沢の古道歩きに取り組んでいることを知っている山仲間のKS氏から『日本山岳文化学会論集』第20号(日本山岳文化学会 2023年3月)を送っていただきました。これは同誌の冒頭に掲載された論文「東丹沢に印された山岳古道」(砂田定夫)が私の興味を引くだろうという氏の厚意に基づくものですが、読んでみると確かに面白い。というか、すこぶる面白い。
筆者は文献と実地の両面から大山・八菅・日向の三つの修験の道を探求しており、中でも八菅修験のルートについて突っ込んだ考察を行なっているので、今後この道を探索しようとする場合は必読ではないかと思います。この論集は、日本山岳文化学会の事務局に申し込めば学会の会員でなくても1,000円で購入できます。(2023/04/25追記)
脚注
- ^『峯中記略扣 常蓮坊』(文政6年(1823年))(城川隆生『中世の丹沢山地 史料集』において2022/04/13閲覧)
- ^『丹沢の谷 110ルート』(山と溪谷社 1995年)p.7
- ^菅原信夫『続 丹沢山紀行丹沢の行者道を行く』(白山書房 2016年)p.240-248
- ^「東丹沢・早戸川 早戸大滝」『隠レ蓑』(2022/04/13閲覧)
- ^『新編相模国風土記稿 巻之五十四』(天保12年(1841年)成立)
- ^城川隆生『丹沢・大山・相模の山村と山伏』(夢工房 2020年)p.15
- ^同上 p.138-140
参考
- 東丹沢の行者道全般について
- 城川隆生『丹沢の行者道を歩く』(白山書房 2005年)
- 菅原信夫『続 丹沢山紀行丹沢の行者道を行く』(白山書房 2016年)