塾長の山行記録

山神径路

日程:2020/11/28

概要:玄倉から秦野峠林道を蕗平橋まで上がり、山神径路に入って山神峠さんじんとうげを越え、玄倉林道の八号隧道の上流に出る。帰路は雨山峠越えで寄へ下山。

分類:関東周辺

山頂:---

同行:---

ハイライトシーン

▲山神峠の祠。道だけでなくこの祠も崩壊の度が増してきている模様。(2020/11/28撮影)
▲最も緊張したポイント。外傾した岩をフットホールドにして高度感のある崖の上を慎重にトラバースした。(2020/11/28撮影)

ネット上の記録では「山神径路」「山神経路」の二つの表記が混在していますが、意味合いからしても「径路」がふさわしいと思われるほか、神奈川県のサイトや最後に紹介する登山地図の中に「径路」という表記があるので、本稿では「山神径路」を採用しました。

金曜日の夜23時まで諸々の用事をこなし、ほっとひと息。さて週末はどうするか……と考えたときにふと思い出したのが山神峠です。ネット情報で調べたところでは、玄倉林道ができるまで玄倉川上流に入る道は雨山峠越えと山神峠越えがあり、後者は大正時代に今のユーシンと雨山沢出合との間の玄倉川右岸にあった林業拠点・諸士平(諸子平)と玄倉とを結ぶ仕事道であったそう。昭和20年代に玄倉林道が開通してその役目を終えたこの道は、西暦2000年に神奈川県が登山道として再整備したのですが、脆い地質のために維持することが困難だったようで数年で廃道となっています。この山神峠越えの道は「山神径路」とも呼ばれ、最近歩かれている記録もそこそこあったので、それならと通常のハイキング装備(雨具・ヘッドランプ・行動食)をバックパックに詰めてから4時間ほどの睡眠をとりました。

2020/11/28

△08:10 玄倉 △09:00-15 蕗平橋 △11:20-25 山神峠 △13:40-45 雨山橋 △14:25 雨山峠 △16:15 寄

小田急線新松田駅からバスに乗って玄倉バス停で下車。雲ひとつない快晴で、丹沢湖の向こうには白い富士山の姿も見えていました。

玄倉バス停から上流側すぐに目指す山神峠から流れ下ってくる小菅沢があり、これを渡って玄倉集落(小菅沢右岸側)の中を小菅沢上流に向けて歩いてもよいのですが、いずれにしても最後は秦野峠林道に合流することになるのでバス停からすぐの分岐(同左岸側)を右に曲がり、最初から秦野峠林道に入りました。地図によっては「落合林道」と記載されているこの林道を緩やかに登ってゆくと、やがてかなり厳重な通行止めの標識が出てきましたが、通行止め区間は「しんなし橋〜虫沢林道分岐」の間となっていて、自分が目指す蕗平橋はそのかなり手前です。だったら大丈夫でしょう、と勝手に決めて林道を登ってゆくと、まず後ろから来た車のおじさんから「この先は通行止め。今日は工事してるから」(意訳:帰れ)と声を掛けられました。工事車両が行き来するようだとさすがにまずいなと思いながらさらに登っていると、また後ろから来た二台目の車のおじさんからも「このところ熊が出てるから。それにこの先は通行止めだよ」(意訳:帰れ)と声を掛けられました。しかし、二台目のおじさんに追いつかれたところは既に蕗平橋だったので「ここから山道に入ります」と返事をすると、おじさんは得心してくれた様子でした。やれやれ、こんなことなら林道を使うのではなかった。

これまたネット上の記録を見ると、山神峠までは蕗平橋がかかる小菅沢の左岸の高いところにつけられている道を行くものと右岸の沢沿いを行くものの二種類があるのですが、前者は峠まで連続している送電鉄塔(落合線)の巡視路らしく、本来の山神径路は右岸です。その入り口は蕗平橋の手前のカーブミラーの脇にある階段で、ここを上がると落ち葉で埋め尽くされた斜面の中に踏み跡らしきものが続いていました。

標識も出てきたので正しいコースに乗ったことがわかり、まずは安堵。ぽかぽかの陽気の中をルートを探しながら登ります。

昔の道の跡はかなり薄れていますが、それでも石積みや踏み跡やピンク・ブルーのテープやらで最初のうちはさほど苦労せずに進むことができました。ところが、ふと見上げるとすぐそこに鹿の白い尻毛があってびっくり。普通なら遠くから人の気配を察して跳び去ってゆくはずの鹿がなぜそんな至近距離にいるのか?もしや弁慶の立ち往生?と思いつつ観察してみると、その鹿は角をブルーのネットのようなものに絡ませてしまい、身動きがとれなくなっている様子です。眺めているうちにかすかに前足を動かす仕草を見せたので生きてはいるのですが、どうやら既に衰弱している模様。なんとかしてやりたいとは思うものの、この日に限ってナイフを持ってきていないし、そもそも角をもつ大型獣に不用意に近づくわけにもいきません。スマホを取り出しても電波が通じていないので、電波の届くところまで登ってからしかるべきところへ通報することにしました。

しかし、道の形は徐々に薄くなり、ピンクテープもなくなってルートファインディングが難しくなってきました。これは鹿の心配をする前に自分の心配をした方が良さそうだ……と思いつつ滑りやすい斜面をトラバースし続けましたが、このまま高い方へ追い上げられるのはリスキーだと考えて適当なところから沢筋に降りることにしました。

沢の中には堰堤が連続しており、概ね右岸を簡単に越えられますが、そちらが崩落しているところでは左岸に踏み跡がつけられていました。旧登山道から離れてしまうのは残念ですが、安全かつスピーディーに山神峠に到着することを優先するなら、右岸の斜面に固執せず沢の中に降りたのは正解だったようです。

いくつ目かの堰堤を越えて右岸の護岸のような構造物の上に乗ったとき、背後の見通しがよくなって愛鷹山が見えていることに気がつきました。これなら電波も通じるかもしれない、とスマホを取り出すと案の定アンテナが立っていたので、西丹沢ビジターセンターに電話を入れて先ほどの鹿のことを報告しました。しかし、電話の向こうのお兄さんは少し申し訳なさそうな声で「そういう場合、基本的には何もしない(=助けない)んです」という返事。野生動物の生死に人が関わってはならないということなのだろうと納得はしたものの、そのシカを苦しめているのは人が設置したものなのにと割り切れない気持ちにもなりながら、電話を切るしかありませんでした。

沢筋を詰めてゆくと前方が派手に崩落しており、そして左岸の巡視路の階段が沢床に近づいてきているのが視界に入ってきたので、左岸の斜面を直登し巡視路に乗り上がりました。巡視路の鉄パイプの階段も壊れて宙ぶらりんになっていたりするものの、どうにか安定した道を確保できて安堵しましたが、そこから右岸側を眺めてみると、左右を崩落でえぐられて島のようになった尾根上に旧登山道の指導標がぽつんと立っていました。

その先は難しいところもなく、送電鉄塔の足元を通過して緩やかな坂道を登ってゆくと自然に山神峠に到達しました。峠の鞍部にはベンチが二つ設置されていますが、その手前の左側に石段があり、これを登ると峠の名前の由来となった祠がありました。

この祠は明和6年(1769年)に江戸の廻船問屋「紀ノ国屋」が寄進したと伝わっている[1]ので、この山神峠越えの道は江戸時代以前から使われていたことになります。このあたりの歴史はいずれ調べてみたいものですが、祠の中に納められている山神宮と水神宮の二つの石碑のうち向かって左の水神宮は祠の中で倒れており、祠自体もネット上で見た10年ほど前の姿と比べると見る影もなく傷んでしまっていました。1985年に祠の建替えが行われているそう[2]ですが、もし現在の祠がそのときのものであれば既に35年が経過しています。このまま朽ちてゆくに任せるには忍びないのですが、どうにかならないものでしょうか。

……などと感慨に浸りつつ行動食をとり終えたら、ただちに歩行再開。登山道が崩落しているので通行できませんという注意書きを横目に、登山道に入りました。ここから先は、檜岳山稜の北面をトラバースしながらアッチ沢・蛇小屋沢・板小屋沢・モチノキ沢・小沢と渡って末端に同角隧道を持つ顕著な尾根を乗り越し玄倉川上流へ抜けてゆくことになります。

いきなり出てくる崩落地は斜面の上側に明瞭な踏み跡があり問題なし、さらに尾根を回りこんだところの崩落地には点検用巡視路につき通行により負傷された場合でも当局は責任を負いませんという木で鼻を括ったような看板が出ていましたが、巡視路ということは巡視のために人が行き来できているのだな、と前向きに受け止めることにして迂回路を渡りました。

アッチ沢の先の尾根上で意味不明な跨線橋を無視して作業用モノレールの上を跨ぎ越し、しばらく行くと分岐が出てきました。とりあえずまっすぐ進んでみるとこの光景。

これはまた派手に崩落したものだな……と呆気にとられましたが、対岸を見ると梯子があってその上に迂回路があることがわかったので、先ほどの分岐まで戻って巻き道を使いました。

桟道を渡り蛇小屋沢を横断すると、石組みの下に苔むした気持ちの良い登山道が続いています。尾根上の鞍部にはベンチもあって、このあたりは癒し系です。

板小屋沢を渡り、檜岳から北西に伸びる尾根の西斜面は植林帯になって道も安定していましたが、どうやら曲がりなりにも整備が継続されているのは山神峠からこの植林帯までのようで、やがて尾根上にこれより地盤脆く崩れ易いため、足元に充分注意して通過してくださいという看板が出てくると、ここから先は道の状態が一気にワイルドになってきます。そうとは知らない自分は「これまででも十分脆かったような気がするが……」と思いつつ、しかしそこにある崩落を見ると看板に書かれていることはブラフではないと考えを改めて崩落地を右から回り込むように登り、崩落地の上から尾根を乗っ越して北側斜面をジグザグに下りました。

檜岳からの尾根の北側、モチノキ沢に面した斜面の途中で怪しげな桟道をひとつ渡ったところにあるこの短いトラバースが、おそらく現在の山神径路の核心部です。写真では伝わりにくいですが、左下の斜面は高度感のある急な崖になっており、こちらからあちらの岩の上までの間にはかつて桟道があったのだろうと思うものの、今はその痕跡もありません。したがって右手の踏み跡のない立った斜面に露出している強度不明な岩にそろそろと足を乗せて渡るしかないのですが、万一足を滑らせれば深刻なダメージは避けられません。ここばかりは、クライミングや沢登りの経験がないと心理的に厳しいだろうと思われます。

引き続き、外傾したザレの斜面のトラバースが続きます。

比較的新しい鎖が残っているところもありますが、この鎖は何の役にも立っていません。

ガレたモチノキ沢を渡った先の斜面に掛かる朽ちた桟道は使えず、右の斜面を渡りました。

神経を使うトラバースを繰り返して到達した尾根越えの場所からは、正面に同角山稜の大石山が見えました。この悪路もあと少しの辛抱です。

悪いトラバースはなおも続きますが、耐性ができてきてさほど気にならなくなってきました。また、小沢を越えると安定した道の区間も増えてきます。

小沢右岸の顕著な尾根を馬酔木が目立つ鞍部で乗り越えた先のこのザレた斜面が最後の難物。滑り落ちないよう慎重にトラバースします。

その後も朽ちた桟道が続きますが、危険を感じることはありませんでした。そしてとうとう下の方から川音がしてきて、玄倉林道が見えてきました。

八号隧道の上流側に降り立ち、これで山神径路の通行が終了です。事前に予想していたよりもかなり時間を使ってしまいましたが、何はともあれ無事に歩き通せてほっとしました。

帰路は雨山橋から雨山峠を越えて寄への下山ですが、その道中の模様は四週間前の檜洞丸の記録で記述してあるのでここでは省略します。

ひとつだけ付け加える必要があるのは、この日やどりき水源林内の道が工事中だったことです。さすがにそこを突破するわけにはいかないので、ここから右手に沢へと下り、河原を使って工事区間を迂回しましたが、特に問題になるようなところはありませんでした。

どうにか明るいうちに下山できて何より。30分ほどの待ち時間で新松田駅行きのバスに乗ることができました。


終わってみれば面白い道で、歩き通した後には充実感を味わうことができましたが、正直に言うと事前の検討段階では、たかが廃道……と甘く見ていました。しかし、西丹沢特有のザレザレの斜面の崩落は想像以上で、フリクション頼みのトラバースの連続はヘタな沢登りよりよほどスリリングでした。そこにハイキング装備だけで臨んだのは今にして思えば少々無謀で、せめてヘルメットと20mロープを持参していればずいぶんと心強かったことでしょう。

ただし、たとえそうした装備を持参したとしてもこのルートの状態は日々(崩落が進む方向へと)変わってゆくでしょうから、今後ここを歩こうとする場合は、常にエスケープの可能性を確保しながらのプランニングが必要と思われます。

脚注

  1. ^植木知司『かながわの山山名をたずねて』(神奈川合同出版 1979年)p.140
  2. ^奥野幸道「丹沢の古道をたずねて」『足柄乃文化』第22号(山北町地方史研究会 1995年3月)p.12-22
  3. ^高野鷹藏「塔ヶ嶽」『山岳』第1年第1號(日本山岳会 1906年4月)p.58-78
  4. ^abc坂本光雄「丹澤玄倉川と周圍の山々」『山と溪谷』第28号(山と溪谷社 1934年11月)p.67-75 の中にユウシン休泊所より右岸沿ひに十分ばかりで、諸士平ショシダヒラに至る舊圖には諸子平と記載されてゐると記しているので、筆者は「諸士平」が正しく「諸子平」は誤記だと考えていたことがわかる。
  5. ^ab奥野幸道『丹沢今昔』(有隣堂 2004年)p.80-81
  6. ^abc小木満「西丹沢拾い話」『足柄乃文化』第28号(山北町地方史研究会 2001年3月)p.75-88
  7. ^高柴武雄「熊木澤」『ハイキング』第40號(ハイキング社 1935年)p.46-49。1934年5月27日にユウシン休泊所に泊まった筆者が休泊所の親方小宮兵太郎から湧津谷は、オレが命名した谷で、その名の起源は「谷深くして、水勢勇まし」と云ふ意味から採つたと聞かされた話が記録されている。ただし新たに「ユウシン」と命名したのか、元からあった「ユウシン」に「湧津」の字を当てただけなのかは定かではない。なお、小宮兵太郎が諸士平・ユーシンに住んだ期間は1911年から1946年までとのこと[5]。また「湧津澤」の表記が出てくる最初期の記録として戸澤英一・藤島敏男「丹沢山塊」『山岳』第13年第3號(日本山岳会 1919年10月)p.324-335 がある。
  8. ^上掲「丹澤玄倉川と周圍の山々[4]」の中で筆者は友信澤の名稱は、友信と云はれし者が此の澤に入りてより友信ユウシン澤と名稱されたと云ひ傳へられてゐるとするが、この点を小木満が筆者に確認したところ友信(とものぶ)の沢のことは諸星梅吉さんから聞いたものだ。父親の作太郎さんも息子の勇さんも、三代にわたって丹沢の奥山の精通者であり、友信(とものぶ)の沢の呼称を代々伝えていた。勇さんは学校の先生で歌人であり“とものぶの沢”をよみこんだ歌もあったという話だったとのこと[6]
  9. ^松本重男・鐡道省山岳部編『日本山岳案内』第一輯(博文館 1940年)の中では友信澤友信休泊所と一貫して「友信」の字が当てられている。
  10. ^一方、上掲「丹澤玄倉川と周圍の山々[4]」の中で筆者は、震災前は諸士平に戸数320戸もの部落があり小学校もあって繁栄していたとした上で今から凡そ八十年許り前、安政年間の頃、薩州の浪人が十五名許り、江戸に於て謀叛を起さんとして、露見し、敗走して此の地に逃れ來り時節の來るのを待つてゐたが生活に窮し、木工、林業等をして暮してゐたが維新の戦亂が勃發してより何邊へか姿を消してしまつたという里人の話を伝えている。
  11. ^上田哲農「雨の丹沢奥山」『日翳の山 日なたの山』(朋文堂 1958年)p.128-137。小宮兵太郎がユウシン休泊所に詰めていた頃の話。朝ユーシンを発った筆者たちは、ザンザ洞を遡行した後に雨と霧に巻かれながら同角ノ頭から檜洞を下ってユーシンに戻ろうとしたが、途中「諸子平」への道を示す指導標を見掛けるものの様子がおかしい。やがて辿り着いた伐採小舎(中ノ沢休泊所のことか)で人夫たちの親分から、そこは方角違いの小川谷であることや中の沢のことを諸子平とも呼ぶことを教えられる。結局、筆者たちはそのまま下山を続けて玄倉に出てから山神峠越えでユーシンに戻っている。
  12. ^巡視結果を踏まえて、11月28日に蕗平橋-山神峠の区間が通行止めになりました「西丹沢:平成24年11月22日 蕗平橋-山神峠の情報」 - 神奈川県ホームページ(2012年12月20日掲載→その後削除)
  13. ^中央環境審議会 自然環境部会自然公園小委員会(第28回)議事次第・配付資料」より「丹沢大山国定公園の公園計画の変更について」→「国定公園の公園区域及び公園計画の変更等に係る中央環境審議会の答申について」 - 環境省ホームページ(2014年7月23日掲載)。2021年6月3日閲覧。

参考(本文及び脚注に記載のないもの)