世附山神峠越え

日程:2021/12/28

概要:駿河小山から悪沢峠を越えて世附川芦沢橋に下り、白旗社と天獏魔王社に参拝。悪沢〜山神沢を遡行して山神峠を越え水ノ木に下り、切通峠を経て平野へ下山。

⏿ PCやタブレットなど、より広角の画面で見ると、GPSログに基づく山行の軌跡がこの位置に表示されます。

山頂:---

同行:---

山行寸描

▲世附川の南岸と北岸で相対する白旗社と天獏魔王社。小ぶりだが不思議な存在感がある。(2021/12/28撮影)
▲世附山神峠の山神社。9日前にご挨拶したばかり。(2021/12/28撮影)

◎9日前の世附山神峠初訪問の記録は〔こちら〕。

前回の山行で念願かなって北から南へと横断した世附山神峠でしたが、その感想は「やはり峠はそこを越えていた道を辿ってなんぼだな」というものでした。そこで今度はいにしえの峠越えの道を辿るかたちで再訪問。駿河小山から悪沢峠と山神峠を越えて水ノ木に入り、さらにこの道の主たる利用者であったであろう甲州の人々の本拠地・平野までをワンデイで辿る山旅です。

2021/12/28

△07:15 駿河小山 → △08:00-05 山口橋 → △09:35 悪沢峠 → △10:15-25 芦沢橋 → △12:55-13:00 山神峠 → △14:10 水ノ木橋 → △15:50 切通峠 → △16:25 平野

渋谷駅を5時過ぎ発の山手線に乗って、品川・国府津で乗り換え駿河小山駅着7時09分。おっと、御殿場線ではSuicaは使えないのか!

キンと冷えた空気の中を着膨れた服装でひたすら歩き、駿河小山駅の北西にある柳島の谷をずっと奥へと詰めると、そこに不老山から三国山へ続く相駿国境稜線から南へ派生する尾根の末端のこんもりした姿が見えてきます。今回の山旅の取付はあそこです。

山口橋を渡って舗装路を進むと、すぐに左手に逆方向へ戻る古い道が見えてきます。そちらに足を踏み入れてみると、まず現れたのはこれでもかというくらいに立ち並んでいる馬頭観音碑。「馬頭観音」と文字で書かれた碑もあれば弁天様のような女の人の頭上に馬の頭が乗った浮彫りの碑もあってさまざまですが、これだけ馬頭観音が並んでいるということは、それだけこの道に馬の往来が多かった(そして馬を供養する必要も少なくなかった)ことを示しています[1]

さらに進むと右手に山ノ神の鳥居と祠が出てきました。失礼ながら祠の扉に手を掛けてみましたが施錠されており、中にどのような神様がおられるかを確認することはできませんでした。

祠の背後から林道に戻り、そのままどこまでも進んでいきます。道は尾根の東側を巻くように奥へ奥へと続いているのですが、途中で崩壊地に突き当たり通行止めとなっています。一応その先まで踏み込んで徒歩でも渡れないことを確認してから、少し戻って左の植林の斜面に取り付きました。

さしたる斜度のない植林の中をぐんぐん高度を上げて尾根の上に乗ると、そこ(690mピークの南西端)には小さな石祠が二つ。背面に彫られた文字は風化していて判別が困難ですが、帰宅してから写真を拡大したところこの石祠を設置した年を記していると思われる行の一番上に「延」の字が読めました。年号の中で最初に「延」が来るものはいくつかありますが、延享年間(1744–1748)だと考えると時期的にも適当ですし、そういう目で見れば「延」の下は「享」のようにも読めます。もしそうなら、この石祠はここに270年も佇んでいることになるわけです。

歩きやすい尾根道を緩やかに登り続けて、やがて水平に伸びる車道にぶつかります。この道を右へずっと行けば世附峠ですが、今回は世附峠より西の悪沢峠に行きたいので早めに斜面を直上しました。しかしこの試みは失敗で、鹿除けの柵に撃退されてしまいました。仕方なくいったん車道に戻って世附峠方向へ進みながら左斜面を観察していたところ、どうやら柵が尽きているところを見つけることができ、そこから国境稜線に向けて再び直登しました。

無事に稜線上の登山道に達し、わずかに世附峠方向に移動するとそこが悪沢峠。地味過ぎる……。峠らしい風情は微塵も感じられず、地面に無造作に置かれた木の標識に「悪沢峠」の文字がなかったらそれと気付かなかったかもしれません。

悪沢峠のすぐ下から林業用の作業道が下に続いており、部分的に崩れてはいるものの人が通る分には問題なく使えました。ところどころの分岐はちょっと厄介ですが、地形図に描かれている点線ルートからあまり遠ざからないようにと意識していけばOKです。

今回是非とも対面したかったのが、悪沢峠から下って世附川(芦沢橋)に降り着く少し手前にあるこの白旗社でした。あらかじめ他の人の記録でその位置をつかみジオグラフィカにマーカーを設定しておいたおかげで、道の脇にひっそりと立っているこの石祠を見つけることができたのですが、そうでもしなければ完全にスルーしていたでしょう。ともあれ観察してみると、この祠は屋根と台座に挟まれた本体の中に丸石を御神体として抱え込む体裁を持ち、正面に向かって左側面には「奉」という文字を中心に文字が彫られています。「宝暦三年」という年号(西暦1753年に相当)と「奉」の下の「建立」は間違いないと思いますが、その他の文字は今ひとつはっきりしません。また、他の面には文字を認識できなかったのですが、この山行後に人から教えていただいて写真を拡大してみたところ実は右側面にも文字が彫られていて、不鮮明ながらそこには「新山小奉行」と「木門文八」以下5名の名前が認められました。「新山小奉行」云々というのは先日訪れた世附山神峠の台座にも刻まれていたもので、しかも「新山」は相模側から見た世附の山々の呼び方(甲州の側からは「影山」)ですから、この石祠には小田原藩が一帯を領有するという意思表示が刻印されていることになりそうです。

まずはこの山行の目的の一つを果たすことができて満足。芦沢橋まで降りて行動食をとってから、世附川を渡渉しました。幸いこの日も水位は低く、飛び石伝いで問題なく対岸に渡ることができました。

続いて1段高い植林の中に見つけたのがこの天獏魔王社です。祠のかたちは先ほどの白旗社とほとんど同じで、丸石を抱えている点も同じなら「宝暦三年」「奉」「建立」と彫られている点も共通ですが、これらの文字が白旗社では正面に向かって左側に彫られていたのに対しこちらは右側で、左側にはやはり「新山小奉行」以下5名の名前らしきものが、こちらはくっきりと彫られていました。ただ、その礎石にあるという十六弁菊花紋[2]は一見した限りでは認識することができませんでした。

これで今回探索していた二つの石祠を見つけることができたので、次なる目標に取り掛かりました。それは、世附山神峠から山神沢・悪沢を下って芦沢橋あたりに降りてきていた古い仕事道を見つけることです。まず天獏魔王社の背後にまっすぐ進んで斜面に突き当たり、そこでジグザグを描く仕事道を登って悪沢左岸に半島のように突き出した尾根を乗り越えました。

古い仕事道が想像よりも高いところを通っていたために若干の試行錯誤を要しましたが、どうにかそれらしい道に乗り上がって行く手(上流側)を見てみるとかなり鮮明に道の形が残っています。ところによっては手すりロープを通したと思われる鉄棒も刺さっていたので、この道は純粋に古道ではなく比較的近年まで使用されていた様子が窺えますが、ともあれ道の痕跡を追って先に進むことにしました。途中で枝沢を渡るあたりのルートファインディングが少し難しいですが、かすかな踏み跡を頼りに斜面を登ってみると再び明瞭な道形に回帰できます。

あれは石組み?部分的に際どい斜面になっていて玄倉の山神径路の悪場を連想しましたが、そうした区間はさほど長くはなく、おおむね安心して歩くことができる状態でした。

やがて道は悪沢へと下り、ここからは沢の中を上流へ進むことになります。もっとも沢の中と言っても沢登りの要素は皆無で、ところどころで対岸へ渡渉しながらも基本的には河原歩きに終始するため、通常の登山靴やアプローチシューズで問題なし。すぐに右岸に崩壊地が現れ、その先で右岸に古道の跡らしきものが斜面を登っている様子を見ることができました。

古道の跡と獣道とは紙一重で、あれが獣道でないならどうしてあんなに高度を上げるのだろう?と思いながらこちらは沢の中を進むと、そこには両岸が迫ったプチゴルジュ地形が待っていました。なるほど、これを回避するためだったのか。

炭焼窯のようにも見える石組みなども横目に見ながら進みましたが、右岸の斜面もそれなりの斜度がある上に随所で崩れているので、これでは古道の跡はほとんど残っていないだろうと諦めをつけ、とにかく先を急ぐことにします。やがて到着した二俣は左が山神沢、右がクマ沢。ここに左から巡視路の階段らしきものが降りてきており、右側には取水施設の残骸(のように見えるものの現役らしい)がそびえ立っていました。

日頃お世話になっている国土地理院の地形図を眺めると、世附川の上流からこの悪沢二俣を通り、大又ダムを経て丹沢湖畔に通じる青い破線を見ることができます。これは丹沢の地下を貫通する水路で、先日登った世附権現山への登り道の途中で見た落合発電所に通じているのですが、そのときはその施設がよもやこうした長大な水路の終点になっているとは思いも寄りませんでした。左の階段と右の取水施設の間にはもっこりとした堰堤状の石組みがありますが、これも堰堤ではなくこの中に水路が通っているようです。本来こういう産業遺産系は好物なので仔細に見て回りたいところですが、今日は先を急がなければならないので時間をかけて観察することができないのが残念です。

それにしても今日は寒い!そして沢の中はところによりひどく荒れています。

それでもどうにか山神峠に登り着いて、9日前に対面したばかりの山神社に詣でることができました。

ここから丹沢湖方面へ戻るのであれば前回と同様に尾根を南進すればよいのですが、今回は水ノ木方面へ下降することになっています。しかし峠の西側の沢筋は広く青ザレの斜面を見せている上に途中に顕著な段差があって一筋縄ではなさそう。そこで峠からいったん北へ20mほど登り、そこにある赤い標識を目印に尾根を下ることにしました。しかしこの尾根も、上部こそ緩やかな斜面で下りやすかったものの徐々に痩せ、そして傾斜が急になってきます。悪場の下降が苦手な私は業を煮やし、持参した補助ロープを取り出してさっさと左脇の沢筋にエスケープ。沢の底から山神峠を見上げてみると、この沢筋通しも降りようと思えば降りられたかもしれない形状をしていました。

下りの出だしで思わぬ時間をくってしまったものの、後はこれといって悪いところはなく、氷に足をとられてのスリップだけしないように気をつけながら下っていくと、やがて水ノ木に向かう幹線林道にぶつかりました。

ここから先は安全地帯なので特記すべきこともなく、水ノ木橋を渡り大棚のヒョングリを車道から遠く見下ろして、後は面白みのない道を淡々と歩き切通峠を目指すだけ。

長い車道歩きがやがて尽きて道が登山道になれば、切通峠まではあとわずか……だと思っていたのですが、この区間も意外に長く消耗しました。

切通峠の手前から右手を見ると世附の山々。江戸時代から明治・大正にかけての平野村の人々も、ここからこの眺めを見やってこれから始まる「影山」での仕事の辛さを思ったかもしれません。

2014年2017年に南から北へと通過した切通峠を今回は東から西へと乗り越し、夕映えの富士山が見事な平野の平地へと下って今回の山行は終了です。途中いくつかのポイントで予定よりも時間をくったために帰りの新宿行き高速バス(最終便は17時40分発)に間に合うかどうかが心配でしたが、終わってみれば計画よりも短い時間で平野に着くことができ、おかげでバスの便を1時間繰り上げることができました。

今回の山行は、水ノ木周辺を農閑期の仕事場とした江戸・明治期の平野の人々が越えた三つの峠、すなわち平野から遠い方から言うと悪沢峠、山神峠、切通峠をつないでその距離感を体感してみようというのが目的でしたが、歩いてみての感想は「とにかく遠い」というものでした。駿河小山と水ノ木の間(GPSのデータによれば14km強)も、水ノ木と平野の間(同8km弱)も、数字上の距離はさほどではないものの実際はなかなか大変なアルバイト。とりわけ水ノ木(標高570m強)から切通峠(標高1050m強)まではだらだらと一方的な上りで、平野(標高990m)の方が山神峠(標高710m強)よりも高いところにあるということを身をもって体感しました。正直に言うと、最後の切通峠越えあたりではもはやうんざり。それでも自分は軽荷の単独行だからまだ明るいうちに歩き通せましたが、荷駄を満載した馬を引いてこれらの道を歩いたら時間も相当かかったことでしょう。

現代の登山者である自分にとってはこのコースは一期一会の旅路にすぎませんが、それでも、世附の山々を厳しい労働の場とした平野の人々が何を思いながらこれらの峠を越えたのか、その一端には触れることができたような気がします。

白旗社と天獏魔王社

この二つの社は『新編相模国風土記稿』の中にも言及があり、そこには次の2点が記されています。

  • これらは村民が私的に建てたものである。
  • 他村では二つあわせて「足澤權現」と呼んでいる。

「白旗社」は源頼朝ほかの源氏武将や源氏の氏神である八幡神を主祭神として関東・東北・中部に広く分布する白旗神社・白幡神社に由来し、一方の「天獏魔王社」は天獏=天白でやはり中部地方(とりわけ戸隠山)を中心に広く分布する古い民間信仰である天白信仰に関わるもの[3]。このように性格の異なる二つの社ですが、その位置を地形図上にプロットすると右図のようになり、今回歩いている駿河小山から水ノ木への道が世附川を渡る地点の南岸と北岸とで互いに向き合う道標となっていることがわかります。

これを見ての少々突飛な連想は、下総国一宮・香取神宮と常陸国一宮・鹿島神宮との関係でした。

香取神宮と鹿島神宮とは古代から中世まで東関東にあった内海「香取海かとりのうみ」の入口で相対しており、二つセットでヤマト政権による蝦夷進出の拠点(東国の鎮守[4])として機能したと考えられています。これら二つの神宮と白旗社・天獏魔王社とではお話にならないくらいスケールが違いますが、私的に建てられたとされているにもかかわらず白旗社と天獏魔王社の側面に「新山小奉行」(「新山」は相模側から見た世附の山々の呼称)と彫られている点に小田原藩の地域支配に向けた強い意思が感じられ、この点が香取・鹿島両神宮を想起させたのでした。

山神峠の西の道

江戸時代、山中湖畔の平野村は高地寒冷かつ地味に乏しい土壌という制約から農業生産が十分ではなく、農閑期の山仕事に生計を依存していました。その仕事場のひとつが平野村が「影山」と読んだ世附の山々で、冬の間ここに定住して得た生産物(たとえば用材や木炭)は金銭収入につなげるために南の山を越えて駿河小山へ運ばれていました。そのための道のひとつが今回歩いた悪沢峠越え・山神峠越えの道で、そこには東の鍋割峠・オガラ沢乗越などと同様に運搬手段である馬が通れる道が続いていたはずです。

▲『山中湖村史』付属の「山中湖周辺関連地図」(部分)[5]で今回歩いたルート(赤線)を見る。いつの時点を描いたものか明記されていないが、図中で東海道や甲州街道が幹線として機能していることから、江戸時代から明治にかけての状況を示したものと思われる。

しかし山神峠越えの道が活用されていたのは明治の頃までで、その後に世附川沿いの道が開かれたためか、昭和に入ると峠の西側を水ノ木へ緩やかに目指すトラバース道(横引横道)は地形図にも載らなくなっていたことは前回の山行のレポートに記した通り。そして峠からの踏み跡は残されているものの、これを忠実に辿るのは危険そうだということもそのときに確認済みです。

▲昭和4年(1929年)測量二万五千図「御正體山」〔部分〕(クリックすると拡大します)

したがって、水ノ木に出るためには西の山腹を横断するのではなく沢筋をダイレクトに下降することになるのですが、そのつもりで前回見下ろしたところでは源頭部は急傾斜の青ザレとなって落ち込んでおり、行って行けないことはなさそうながらあまり踏み込みたくない雰囲気でした。そこで今回の山行の予習としてヤマレコの地図で他の登山者の軌跡を確認してみたところ、どうやら峠の少し北側から下るラインが使えそう。等高線の膨らみからするとここに尾根があるようだ、しめしめ……といったもくろみをもって今回の山行に臨んでいたのでした。

しかし、結局補助ロープを出して尾根から沢に下るのだったら最初から沢筋通しに下ってしまった方が早かったというのが自分の反省。それにこういうやり方はカンニングのようなもので決して褒められたものではありませんが、まぁこれもDX時代の山の登り方ということでご容赦ください。

脚注

  1. ^佐藤芝明『丹沢・桂秋山山域の山の神々』(佐藤芝明 1987年)p.111-113
  2. ^中野敬次郎「箱根丹沢秘伝帖(8)」より「(三)丹沢山中の世附御陵説」『かながわ風土記』第55号(丸井図書出版 1982年2月)p.30
  3. ^堀田吉雄『山の神信仰の研究』(光書房 1980年)p.430-457
  4. ^岡田精司『新編 神社の古代史』(學生社 2011年)p.131-153
  5. ^山中湖村史編集委員会「山中湖周辺関連地図」『山中湖村史』第三巻(山中湖村役場 1978年)付属

参考