二本杉峠〜畦ヶ丸〜菰釣山〜世附山神峠

日程:2021/12/18-19

概要:浅瀬入口を起点に権現山に登り、二本杉峠から屏風岩山を越えて畦ヶ丸に達し、畦ヶ丸避難小屋に泊。翌日、菰釣山まで国境稜線を縦走し、南下して大栂・椿丸から山神峠を経て世附川に下降、浅瀬入口に戻る。

⏿ PCやタブレットなど、より広角の画面で見ると、GPSログに基づく山行の軌跡がこの位置に表示されます。

山頂:権現山 1018m / 屏風岩山 1051m / 畦ヶ丸 1292m / 城ヶ尾山 1199m / 菰釣山 1379m / 大栂 1204m / 椿丸 902m

同行:---

山行寸描

▲椿丸から振り返り見た大栂とその向こうの菰釣山。昨日までの寒気が去って気持ちの良い稜線漫歩になった。(2021/12/19撮影)
▲山神峠の祠。屋根は傾き、御神体の笠は落ちてしまっている。(2021/12/19撮影)

玄倉から山神峠を越えて雨山橋に向かう山神径路を歩いたのは昨年11月。その後に、丹沢にはもう一つ山神峠があることを知りました。それが世附山神峠で、かつて世附川中流の芦沢橋あたりと水ノ木とを山越えでつないでいた峠です。この峠の用途については、4月の地蔵平〜富士見峠〜織戸峠〜水ノ木の際にも参照した『山と溪谷』第64号掲載の「丹澤・菰釣山附近[1]」の中に、次の記述がありました。

昔は小山から今のアシ澤峠を越しワラ澤に入りこの峠を越して行くのが、水ノ木方面への唯一の交通路であつたやうだ。現在道は荒れて峠附近以外は全く無くなつてゐるが、祠には新しい旗が幾つも奉納されてあるから參拜者は割合にあるらしい。

▲明治21年(1888年)測量二万図「山伏峠」〔部分〕(クリックすると拡大します)

さらに調べてみると、この峠は後述する江戸時代末期の相甲駿国境紛争においてポイントになった地点で、この紛争に際し甲州側が主張した国境線の基準地点には昨年12月に歩いた三ヶ瀬古道の実質的な入口に当たる二本杉峠も含まれることがわかりました。実は二本杉峠の南にある世附権現山と北にある屏風岩山も気になる存在ではあったので、これはもっけの幸い。丹沢湖畔の浅瀬入口を起点として権現山から畦ヶ丸へ至る尾根を北行し、国境稜線を西進して菰釣山から今度は山神峠を目指して南進、最後に世附川林道を浅瀬入口へ戻る反時計回りのルートの姿が見えてきました。

2021/12/18

△08:30 浅瀬入口 → △10:35-45 権現山 → △11:30 二本杉峠 → △12:45-55 屏風岩山 → △14:20 大滝峠上 → △15:05 畦ヶ丸避難小屋

今季一番の寒気が入ったというこの日、浅瀬入口バス停に降りたのは私ともう1人でしたが、その「もう1人」は丹沢湖岸を眺めながらいずこともなく去ってしまい、落合トンネル脇の登山道に取り付いたのは私だけでした。

権現山まで踏跡不明瞭 初心者の通行不向きと大書された看板がいかめしい門番のように立つ前を知らんぷりして通り過ぎ、特段不明瞭とは思えない山道を登ります。今日は時間にゆとりがあるので、ペースは普段にも増してのんびり。

権現山近傍はミツマタが有名ですが、この道沿いにもミツマタの群生がありました。しかしこの時期のミツマタの白い蕾を見たのはこれが初めて。黄色い花盛りはもちろん美しいですが、白い蕾がこうして陽光の中で春を待つ姿も綺麗なものです。

振り返ると相模湾が日に照らされて黄金色に輝いており、左手には富士山の姿も見えていました。山頂からは盛んに雪煙を飛ばしており、あの暴風の中にいたらひとたまりもないだろうと思わせます。

約2時間の登りで権現山山頂に到着。丹沢には他に箒沢の近くにも「権現山」があるので、こちらは世附権現山と言い慣らわされています。山頂の向こう側、少し下った広場状の場所にベンチが設置されていたのでそこで行動食休憩をとることにしましたが、天気がいいのに今日は寒い!富士山頂ほどではありませんが風も時折吹き抜けて、薄手の手袋しか持参しなかったことを早くも後悔しました。

権現山からぐっと下って久しぶりの二本杉峠。相変わらずの静かな佇まいの中、道標の上に小さな土偶型の人形が人待ち顔で立っていました。このときは気に留めなかったのですが、なんとなく気になって帰宅してから昨年撮った写真を見てみたところ、峠の石碑が倒れてしまっており、これに伴い土偶も引っ越しを余儀なくされていたことがわかりました。そうと気付けば石碑を元のように立て直したのに……。

二本杉峠から北へひとつピークを巻いた鞍部が分岐点になっており、左へ行けば三ヶ瀬古道の廃道区間ですが、こちらはそれなりの準備が必要。右にも明瞭な道がついていますがこれはトラップ(?)で、屏風岩山への道は正面に見えている木の根が示す尾根通しの急登です。

ぐいぐいとしばらく登るとやがて尾根の幅が広くなり、そのうちに屏風岩山のピークに到着します。ピークといってもこれといった表示があるわけではなく、三等三角点標石がてっぺんを赤く塗られてそこにあるだけです。周りは木に囲まれているので夏だと展望には恵まれないでしょうが、今の時期は葉が落ちて見通しが良く、行く手の畦ヶ丸もはっきりと見えていました。ただし、ここで漫然と足を出すと東尾根に引き込まれるので要注意。私もいったん下って鞍部から登り返したところで「?」と思い、GPSを確認して方向を誤っていることに気付きました。

いったん屏風岩山のピークに戻って今度は正しい方向へ下っていくと、やがて大滝峠です。ここには右前方と左後方の二方向から道が上がってきており、右は大滝橋、左は地蔵平へ通じていたはずですが、今はいずれの道もまともには使えないはずです。

さらに少し進むと左に道が分かれている地点に出ました。この左の道が東海自然歩道の廃道区間(奥野歩道)の入口で、試みに少し入り込んでみるとさっそくのガレ場の向こうには朽ちた丸太橋などもあり、廃道マニアが大いにそそられそうな風情。しかし、ヤマレコでつながっているleojijiさんという方がつい最近この廃道区間を踏破した際のレポートを読んでその荒廃(危険)度を承知している私は、あっさりと誘惑を断ち切って元のコースに復帰しました。

先ほどの分岐から少し登ると大滝峠上。そこには信玄平や城ヶ尾峠でも見掛けたことがある廃道区間のお知らせが立てられていました。試みに過去の地図・地形図を紐解いてみると、地蔵平が林業集落として機能していた頃に仕事道として使用されていたであろう大滝峠越えの道が荒廃すると共に、東側の登山道のこの尾根への乗上り口が今の大滝峠上に移され、一方で西側にはいくつもの沢の源流部を横断して信玄平につなぐ自然歩道が設置されたものの、これも丹沢の崩れやすい地質のために廃道の憂き目を見たという経緯が想像されます。

その崩れやすさが出た小さな崩壊地を経て、今宵の宿である畦ヶ丸避難小屋に到着。本当は避難小屋泊を山行計画に組み込むことは好ましくないのですが、ルールを守って大切に利用しますのでご容赦ください。

小屋の中では既に他のパーティーが寛ぎモードに入っている様子でしたが、とりあえずリュックサックを置いて畦ヶ丸のピークを往復してきました。改めて見回してみると小屋の周りは樹林が囲み、それほど展望に恵まれているわけではありませんが、木の間越しに見ても気持ちの良い高度感が得られてすてきなロケーションです。

清潔な小屋の中には窓際で談笑する3人組とテーブルで宴会準備に余念のない4人組の2パーティー。シュラフをのべるスペースを空けようとしてくださいましたが、こちらは床の上で伸び伸びと寝ますからと気持ちだけいただいて、さっそくウイスキーのお湯割りを作りました。ちなみに、この避難小屋には水場がないので水3リットルとお湯0.9リットルを担いできていましたが、最終的には1リットル以上の水が余ることになりました。

富士の向こうに日が沈み、返り見すればほぼ満月。菰釣山を越えて平野まで行くという4人パーティーが翌朝3時に起床する予定とあって、早くも18時には小屋の中は寝静まりました。

2021/12/19

△05:50 畦ヶ丸避難小屋 → △07:15 城ヶ尾峠 → △09:10-15 菰釣山 → △09:55 大栂 → △10:50 織戸峠 → △11:35 椿丸 → △12:35-13:05 山神峠 → △14:15 世附川渡渉点 → △15:00 浅瀬橋 → △15:45 浅瀬入口

4時半起床。5時には4人パーティーを見送って、カップ焼きそばとソーセージの朝食を済ませて50分遅れで出発しました。その時点でも3人組の方はまだ寝ていましたが、今日は下山するだけなのかな?

月明かりのおかげでほの明るい山道を歩むうちに東の空がオレンジ色に染まり出し、大界木山の手前で日の出を迎えました。どうやら今日も快晴です。

1年ぶりの城ヶ尾峠を通過して、その少し先の城ヶ尾山で先行していた4人パーティーに追いつきました。彼らの記念写真を撮ってあげて、この山名は「じょうがお」か「しろがお」かという会話を交わして(正解は「じょうがお」です。この点については〔こちら〕を参照)先に行かせていただきました。

行く手に立派な山容の菰釣山が見えてきました。あの山頂から左(南)へ伸びる長大な尾根が、今回の山行での主目的となる山神峠への道です。

細かいアップダウンを重ねて辿り着いた避難小屋の前で一服。そこから少し登ったところで鳥人間が飛び込み姿勢を見せているようなアヴァンギャルドな姿のブナの木を横目に見れば、山頂まではあと少しです。

真っ青な空の下の菰釣山の頂に到着。このピークに立つのは2014年2017年2018年に続いて4回目ですが、最初の2回は通過したのがいずれも夕闇の中でしたし、2018年は5月の木々が青々と葉を茂らせている時期だったので、こんなにすっきりと見通しの良い状態での菰釣山というのは一種新鮮な感じがしました。

西に遠ざかッて雪しろき山あり、とへば富士の山といふ……と人に問うまでもなく、目の前にすっきり男前の富士山。そして富士山の手前には山中湖が見えています。冒頭に言及した相甲駿国境紛争の原告は実はあの山中湖畔の平野村の名主・長田勝之進で、菰釣山の山名の由来は勝之進が山頂に菰を吊るして生活し、ここで境界を測定したからという説[2]もあれば国境争いの折、この山に菰をつるして境界の印にしたことによるという説[3]もあり、いずれにしてもこの紛争に関係ありとなりそう。ただし、訴訟の途中で世附村や中川村が幕府に提出した「始末書」の中に菰釣山の名が出ており[4]その時点でこの山名は既に確立した名称であったと思われるため、これらの説は今ひとつ腑に落ちません。また菰釣山という呼び名は相模側のもので、甲州側では大丸尾や橅ノ丸[3]、さらにはキビガラノ丸[1]とも呼んでいたそうです。

さて、山頂から縦走路は西へ向かっていますが、ここから登山道を離れて南へ向かいます。と言っても1972年のガイドブック[5]にはここから織戸峠まで通じる登山道が描かれていますし、大栂までは2018年に水ノ木沢での沢登りのアプローチとして歩いているので不安はありません。実際にも明瞭な踏み跡が続いており、山頂から少し下ったところにある三角点を見つけることもできました。

冬枯れの明るい尾根の向こうには大栂のピークが見えており、さしたる時間もかからずにその頂上に登り着くことができましたがここはあっさりスルー。この先は未体験ゾーンなので、尾根の分岐を丁寧に確認しながらの歩きになります。

仏像を納める仏龕のようにも見えるウロを持った不思議な木に驚かされながら歩みを続けましたが、足元の霜柱の溶け具合を見てみると比較的最近に人が通っている様子。

これを見ても、この尾根が決してマイナールートではないことがわかります。

やがて織戸峠に着くことになるのですが、その前に確認したいことあり。というのは4月に富士見峠から織戸峠へと歩いた後での再検討の結果、昔の仕事道が現在残されている踏み跡よりも尾根ひとつ北側(上図オレンジ線)を通っていたことに気付いたので、今回大栂から織戸峠を目指すに当たりこの道の痕跡がないかと目を凝らし少し東へ寄り道もしてみたのですが、それらしい道型を見つけることはできませんでした。

8カ月前に来たばかりだというのに、なぜか懐かしい気がする織戸峠。

峠名の標識が新しいものに変わっていました。あちらの鞍部はたぶん富士見峠だな。

さらに尾根道を歩き続けて椿丸の手前、樹木が伐採されて明るく開けたところから、昨日歩いた権現山〜屏風岩山〜畦ヶ丸の尾根筋を見渡すことができました。その向こうにはたとえば檜洞丸もよく見えており、丹沢の広さとそれぞれの山の個性を実感しました。

椿丸のピークはルートからちょっと離れたところにあるのでピストンしました。山名標識の筆跡は織戸峠と同じもの、そして振り返ると大栂から菰釣山までを見通すことができ、国境稜線からの距離にこのピークの山深さを実感しました。ここまで既に菰釣山から480m近く標高を落としてきており、椿丸からも多少のアップダウンはあるものの下り基調です。思いがけず男性2人組の登山者とすれ違いはしたものの、その後は再び孤独な尾根歩きを続けて西南西へ。

事前の地形検討で要注意だと思っていたのはその尾根の途中から直角に近い角度で南へ折れる箇所でしたが、地形図にあるピークっぽいところ(右図赤記号)からではなくその少し先の鞍部に近いところから左に折れた方が良かったようで、1本東側の尾根に引き込まれそうになってしまい軌道修正することになりました。

ともあれぐんぐん下って予想外に早く到着した顕著な鞍部が、今回の山行の目的地である世附山神峠です。上から見てもはっきりわかるほど祠は傾いており、玄倉の山神様・水神様と同様に不遇をかこつ境涯であろうことは一目瞭然です。

正面に回り、リュックサックを置いて屋根の下に入って御神体と対面。特徴的な卵型の本体に彫られた穴には将棋の駒の形をして何か文字が書かれていたであろう木札が嵌め込まれていますが、今は木札の表面に文字らしいものはほとんど残っておらず、また、かつて頭上に戴いていた笠も失われていました。

上の手書きの図はたびたび引用している「丹澤・菰釣山附近」(1940年)に載っているものでその笠はいかにも「笠」というすっきりした形をしていますが、隣の1984年撮影の写真[6]を見ると笠はぼってりと重そうでまるで印象が異なります。この大きさの笠が乗った山神の写真はネット上でも見ることができ、少なくとも2010年まではこの姿であったことが確実ですが、手書きの絵がデフォルメされていたのか、それともどこかの時点で薄い笠が重い笠に取り替えられたのかは不明です。

そしてこの山神の特別な点は、台座に彫られた十六弁菊花紋です。左右に三連の唐草紋を展開して見る者を畏怖させるこの菊の紋章は後醍醐天皇の世附御陵伝説を生み、黄金千盃を夢見て宝探しに私財を費やした人もいるそうです[7]が、残念ながらこの菊花紋は天皇家とは無縁であるようです〔後述〕。

台座の左右には人名が彫られており、その場では判然としませんでしたが、資料[1]によれば左側は「新山小奉行 / 白澤五右衞門 / 木門文八 / 乗原梅右衞門 / 鈴木多門」、右側は「松尾市衞門」だそう。見ることはできませんが裏側にも「寶暦二壬申年三月吉日」と彫られているそうで、この宝暦2年はおおよそ西暦1752年にあたります。この台座に記された人名も、相甲駿国境紛争における争点のひとつになりました。

峠というからにはこの鞍部を乗り越える道があったわけで、冒頭に紹介したように芦沢橋あたりと水ノ木とをつなぐ道がここを通っていたことは古い地形図にも明らかですが、1929年測量の地形図では既に峠の西側(水ノ木側)の道は姿を消しており、1935年の紀行文[8]にもわずかに俤を止めるのみという状態だったと書かれています。しかし覗いてみると細い踏み跡は残されているので、少し踏み込んでみることにしました。90年前に使われなくなっている道の形が何もなしに残っているはずはないので、近年でもここを歩いている(または歩こうとした)人がいるのだろうと考えての探索でしたが、この斜面はかなりの急勾配で下まで落ち込んでいる上に丹沢らしくザラザラと崩れやすい地質で、しかも山側の斜面にもホールドにできる樹木の幹や根が思うように得られません。踏み跡は前方の尾根の向こう側へ細々と続いていますが、ヘルメットもロープもなしにこの先に突っ込むのは自殺行為だな、と踵を返すことにしました。

山神峠探索が終わればこの山行も終了したようなものです。鞍部からいったんぐっと上がって東南東へ緩やかに高度を下げる尾根を進むと、車が通れそうな作業道が登場したりミツマタの群落が現れたりと意外に変化があって飽きません。

最後ははっきりした登山道になって、気持ちの良い細尾根から右に折れて植林の中をジグザグに下降し世附川に降り着きますが、その直前、道の右に廃屋があってこれはどうやら本州製紙の宿泊所だった三保山荘。しかし、ほぼ完全に倒壊してしまっていました。

世附林道に出るためには世附川を渡らなければなりませんが、そこに掛けられている吊り橋も見るからに老朽化しており、さらに目を凝らすと対岸の出口はチェーンで塞がれているようです。つまりこの橋は渡れませんということなのですが、ここで見掛けたのが4月の旧鍋割峠のトラバースでも見られた紫のスズランテープでした。丹沢山中のバリエーションルートのあちこちで自己顕示欲を発揮するこの紫テープは各方面の顰蹙を買う厄介な存在ですが、この危険な橋にあたかも「ここを通れ」と言わんばかりに目立つマーキングは問題外。ナイフで切り外しゴミとして回収しました。

この山行の最後のイベントは、世附林道の崩壊地の通過可否の確認です。ここは4月に通っているので今回も「なんとかなるのでは?」と思いつつ近づいてみましたが、うーん、確かに状態は悪化しています。踏み跡がついているので最近でもここを渡っている人はいるようですが、私の感覚では、これは突破することのメリットと落ちて致命傷を蒙るリスクとのバランスがとれていません。それというのも少し戻れば簡単に河原に降りられて対岸を迂回できるからで、ためらうことなくUターンし、崩壊地手前の小橋(湯の沢橋)の上流側から対岸の悪沢出合を目掛けて世附川を渡りました。この日の水位は十分低く、ダブルストックでバランスをとりながら渡れば飛び石で靴底より上を濡らすことなく渡れます。

対岸から崩壊地を眺めるの図。核心部となるのは中央のルンゼ状に土砂がなだれ落ちているわずかな区間だろうと思いますが、万一足を滑らせれば致命的です。

芦沢橋の少し上流で再度渡渉して世附林道に回帰。時計を見るとコースタイムの8掛け程度で行けば1時間に1本のバスにぎりぎり間に合いそうなので、ここから浅瀬入口まで競歩まがいのハイペースで歩き続けました。

こんな具合に前から気になっていた世附権現山や屏風岩山、さらに椿丸に登頂でき、世附山神峠の山神様にも無事に対面できて実りある山行となったのですが、やはり峠はそこを越えていた道を辿ってなんぼだなという気もします(たとえば山神径路のように)。よって、次は悪沢・山神沢からの山神峠越えを目指すつもり。ただし、西側の廃道区間(横引横道)を探索するのは危険過ぎる上にそれだけで一日仕事になると思われるので、ここは別ラインを検討する予定です。

相甲駿国境紛争

本文中でたびたび言及した相甲駿国境紛争は、天保12年(1841年)に甲州平野村名主勝之進が訴訟人となって相州・駿州の世附村ほか6カ村を相手に国境侵犯の咎を幕府に訴え出たものです。この訴訟は弘化4年(1847年)まで足掛け7年にわたる期間と莫大な費用を費やし、その結果は端的に言えば原告敗訴。そしてこのときに現在の神奈川・山梨・静岡の県境が確定したのでした。ここでは石田昇「相甲駿国境紛争と公裁」[4]と『山北町史』の記述[9]を参照しながら、登山者目線で興味深いエピソードを中心に、極力シンプルに(駿河関連は省いて)この訴訟のあらましを追ってみます。

そもそも相模と甲斐との国境は8世紀から紛争の種になっていたのですが、それから千年たっても境界が確定していなかったのは、問題が土地の領有権ではなく山林の利用権にあったからです。地図を眺めればわかる通り、水ノ木あたりは相模の世附村よりも甲斐の平野村の方が近く、土地が痩せていて農業生産だけでは生活が成り立たない平野村の人々は世附川源流域の山地を「影山」と呼んで林産物採取の場としてきました。しかし、江戸後期頃に薪炭獲得を目指す世附村の活動が小田原藩の後押しの下でこの地域(相模側の呼称は「新山」)に及ぶようになると、暴力沙汰を伴う林地争奪も起こるようになってきます。小田原藩による一帯の御林化と平野村入会排除の動きの中で争点は一連の騒動がどちらの領内で行われたか(不法侵入者はどちらか)に変わっていき、天保年間の飢饉もトリガーとなって、平野村の勝之進は土地そのものの領有権を主張することで山林利用権を守るべく幕府に訴え出たのでした。

相模各村の主張は現在の甲相国境稜線(オレンジ線)を境界とするものであったのに対し、平野村側の主張は三国峠から山神峠・箒沢・二タ俣杉・狗越路を見通した線(赤点・黄線)というもので、地蔵平・城ヶ尾峠・ザレ峠(馬場峠)・大室山での入会を巡って中川村と対立関係にあった道志村も平野村に同調し、鞍骨峠(二本杉峠)を境界点に加えて争論に参加しました。このうち山神峠の山神社は当初から争点になっていて、これは往古より平野村と世附村が相談の上、持ち合いで山神社を勧請し、宝暦年には石の祠に勧請替えしたのであると訴状に記して、このことを山神峠が両村の境界をなす証拠だと平野村は主張しています。しかしそうなると台座の小田原藩役人の名前が平野村にとって不都合なのですが、これは以前はなかったのにこの訴訟が生じたので世附村が後から彫りつけたのであろうと平野村は難じています。

訴状の受理、資料調べと口頭弁論、さらに原告・被告の同意を得ての大規模な実地検分といった近代的な訴訟手続を重ねて判決が言い渡されたのは7年後、甲州側の全面敗訴で終わりました。くだんの山神峠の役人の名前も後付けの形跡は見られないと一刀両断、その他の平野村側の証拠も一切採用されないという一方的な結果でした。平野村は天領でありながら名主・勝之進の孤軍奮闘となり、小田原藩と各村々がタッグを組んだ相模側の組織力に屈したかたちです。已んぬる哉!と嘆いたであろう勝之進の無念が思いやられますが、ではこの地域から平野村の人々は駆逐されてしまったのかと言えばそんなことはなく、その後も他国の他村入会という立場ながらスズタケ・足駄木などをとっており、明治になって御料地とされてからも払下げ・許可を得ての山稼ぎや水ノ木と駿河小山を結ぶ物流路における駄賃附け(馬による薪炭輸送業)といった形で、この影山は長く平野村の人々にとっての稼ぎの場であり続けたそうです[10]

十六弁菊花紋

菊の御紋と言えば天皇家……というのが一般的な認識だと思いますが、山神峠の台座に彫られた菊花紋が皇室と関係ないことは早くに淸水長輝氏がこの菊花は複花辨をもたないから、現今皇室のものとは似て非なるものであると断定しています[1]。ではその由来は何か。ここでは中野敬次郎氏の論稿[7]からダイジェストして次の2点を紹介しておきます。

  • 昔、丹沢地帯に雄威を張った河村氏は藤原秀郷流の相模豪族で、十六弁菊花を家紋としていた。西丹沢山中は河村氏が没落後の一族潜入地、河村氏落人潜住地でもあるから、これらの菊花紋を河村氏遺跡に結びつけることは大いに可能性があるであろう。
  • ロクロ師と呼ばれる木地挽は、文徳天皇の第一皇子惟喬これたか親王を業祖とあがめて、自分達はその後裔子孫であると信じている。ロクロ師達は各地に集団を作って移住土着し、その作業場や伐木の場所などにおいて十六弁菊花紋を石祠や岩石に刻する習わしがあるが、これは喬惟親王の子孫たるを自負して家紋として刻するらしい。丹沢山塊は木地挽の絶好の作業場であり、住居地であるので、多数の人々が所在々々に用材採集の縄張と工作場を持っていたに違いない。丹沢山中の十六弁菊花紋は恐らく彼らの遺跡なのであろう。

同氏によれば、西丹沢の山中には他にも十六弁菊花紋が彫られた石祠がいくつか見られ、芦沢橋近くの世附川左岸にある天獏魔王社にも彫られているそうです。それらの分布からして上記のいずれの説をとっても不自然ではなさそう(特に後者は近くに六郎ロクロ小屋山があることでも信憑性が感じられる)ですが、ここで立ち止まって考えてみると、山神峠の御神体と天獏魔王社とは世附川右岸にある白旗社と共に宝暦年間(1751-1764)の早い時期に石碑・石祠が建てられており、これは小田原藩が「新山」の支配に乗り出した時期(「御林」の設置は安永年間(1772-1780))でもあります。これらの石碑・石祠が領有権主張の足掛かりとして小田原藩の思惑に基づき「新山小奉行」の名の下に設置されていったのだとしたら、その意匠の中に上記のような牧歌的な理由ではない政治的な意図を探したくなるのですが、このことと菊花紋を結びつけるストーリーを発見することはできませんでした(たとえば当時の小田原藩主・大久保氏の家紋は菊ではなく藤、など)。

もっとも、もし平野村の勝之進が主張していた通り「新山小奉行」云々が後付けで彫られたものだったとしたら話はがらりと変わってくる……などと妄想しつつ、この辺りのことはいずれ勉強し直して再考察したいと思っています。

脚注

  1. ^abcd淸水長輝「丹澤・菰釣山附近」『山と溪谷』第64号(山と溪谷社 1940年11月)p.114-117。菰釣山の山名については道志の人に云はせると橅ノ丸とは山全躰を意味し、その内三角點が菰釣、最高點がキビガラノ丸であるとの事だと紹介している。
  2. ^徳久球雄・石井光造・武内正『日本山名辞典』(三省堂 2004年)p.417
  3. ^ab植木知司『かながわの山山名をたずねて』(神奈川合同出版 1979年)p.182。菰釣山の山名の由来については甲斐の武田信玄の小田原攻めの時、この山頂に菰をつるして味方への合図にしたとの異説も紹介している。
  4. ^ab石田昇「相甲駿国境紛争と公裁」『足柄乃文化』第12号(山北町地方史研究会 1980年6月)p.119-160
  5. ^『アルパインガイド 丹沢道志山塊・三ツ峠』(山と溪谷社 1972年)p.119
  6. ^佐藤芝明『丹沢・桂秋山山域の山の神々』(佐藤芝明 1987年)p.417
  7. ^ab中野敬次郎「箱根丹沢秘伝帖(8)」より「(三)丹沢山中の世附御陵説」『かながわ風土記』第55号(丸井図書出版 1982年2月)p.29-30 / 同「箱根丹沢秘伝帖(9)」より承前部分『同』第56号(同 1982年3月)p.34-38
  8. ^加藤秀夫「水ノ木澤から菰釣シ山」『山と溪谷』第33号(山と溪谷社 1935年)p.147-152。現在の廣河原から水ノ木へ至る道はそう古いものではなく、その以前は峰坂峠(柳島峠)と世附峠の中間、アシ澤峠を降りワラ澤を溯り山神に出て西腹を捲いて行つた。今わずかに俤を止めるのみで全くの廢道となつてゐるがこれを横引横道と云つた。
  9. ^山北町『山北町史通史編』(山北町 2006年)p.301-398
  10. ^山中湖村史編集委員会『山中湖村史』第三巻(山中湖村役場 1978年)p.766-788

参考

  • 相甲駿国境紛争に関して
  • 木地師の暮らしに関して
    • 宮本常一『山に生きる人びと』(河出文庫 2011年)
    • 「特集 木地師の山」『岳人』第893号(ネイチュアエンタープライズ 2021年11月)

◎9日後の世附山神峠再訪問の記録は〔こちら〕。