塔ノ岳〔鍋割峠越え・尊仏岩跡〕
日程:2021/04/03
概要:寄から雨山峠へ向かう道を途中まで登り、寄コシバ沢から鍋割峠・旧鍋割峠を経て尾根伝いに玄倉川上流へ出た後、箒杉沢から小金沢に入りその右岸尾根に乗って不動の清水へ。尊仏岩跡を訪ねてから塔ノ岳に登頂し、鍋割山から栗ノ木洞を越えて寄へ下山。

山頂:塔ノ岳 1491m / 鍋割山 1272m
同行:---
山行寸描


昨年の山神径路と三ヶ瀬古道以来、丹沢の古道探しに興味を持った私。もともと丹沢は好きな山域ですが、緊急事態宣言期間中は山行を控えて丹沢にまつわる本を読み漁っていました。ところが宣言解除になったときにはしばらく運動ができない身体になっており、結局1月の山行からほぼ3カ月ぶりのこの日、リハビリを兼ねて丹沢に足を運ぶことになりました。
今回、満を持して(?)向かった先は塔ノ岳の山頂近くにあったという尊仏岩跡です。ただし、普通に大倉尾根から塔ノ岳に登るのでは面白味がありません。そこで寄から鍋割峠を越えて尊仏岩に向かうかつての登拝路をできるだけ再現してみようというのが、この山行の眼目です。
2021/04/03
△07:25 寄大橋 → △08:40 寄コシバ沢出合 → △09:25-30 鍋割峠 → △10:05 旧鍋割峠 → △10:45-50 オガラ沢出合 → △11:30 金沢出合 → △12:50-13:00 不動の清水 → △13:35-45 尊仏岩跡 → △14:00-15 塔ノ岳 → △15:15-25 鍋割山 → △16:10 後沢乗越 → △16:35 栗ノ木洞 → △16:50 櫟山 → △17:55 寄
朝一番の電車で小田急線新松田駅に到着。あいにく寄行きの始発バスは発車時刻が遅いので、バス停に並ぶ皆さんを尻目にタクシーに乗りました。寄へ向かう車中での運転手さんとの会話の話題はもっぱらヤマビルのこと。「もう出てますか?」「下の方まで出るようになりましたねぇ」「うひゃー」といった会話を交わしているうちに寄大橋に到着しました。ここまでのタクシー代は4,430円とそこそこのお値段ですが、それだけの費用をかけて早出したのも、少しでも寒い時間帯に歩き出したいと考えたからです。
出発前にこれでもかというくらいに忌避剤を足にかけ、それでもよじ登ってくる奴がいたら撃退すべくエアーサロンパスを取り出しやすいところに入れて、いざ出発。大橋と登山口の間の道は昨年11月には工事中でしたが、今ではすっかり綺麗になっていました。
何度かの渡渉をこなしながら寄沢沿いの道を遡り、釜場平のある馬の背の尾根に取り付く手前でひどく荒れたガレ沢(かつて登攀対象とされていた地獄崩ザリに通じる)を見上げてみました。はるか昔にはこの奥の斜面を斜上して鍋割峠へ通じる道がつけられていた〔後述〕のですが、このガレの様子では今はとても歩けそうにないことを確認して、予定通り寄コシバ沢へ向かうことにしました。
ピンクのツツジが目を楽しませてくれる尾根をひと頑張り登って、寄コシバ沢に到着しました。ここから正規の登山道を離れることになります。
「コシバ沢方面危険」と脅す看板を横目にヘルメットをかぶり、ガレた寄コシバ沢の遡行を開始しました。今では廃道扱いのこのルートは、かつては寄から玄倉川上流へ抜ける際のメインルート。歩行に支障を生じるほど荒れてはおらず、ところどころのケルンやピンクの布も目印を提供してくれています。なお右岸に赤テープや作業道が見え隠れしており、不用意にそちらに入ると尾根の上に追い上げられるので要注意。その尾根も登られてはいるようなのですが、今回の目的はあくまで寄コシバ沢です。
とは言っても寄コシバ沢の上流部は地形的に遡行困難(過去には死亡事故も起きているとのこと)なので、標高960mあたりで赤テープを目印に沢を離れ右岸の斜面に乗り上がりました。
明瞭な踏み跡を辿りながら高度を上げていくと、右下には緩やかなガレ沢だった寄コシバ沢が厳しい急斜面に姿を変えている様子が見てとれます。一方、踏み跡は沢筋からかなり離れた高いところを上流に向かっており、最後の方では固定ロープも出てきましたがこれはおそらく下り用。登りにこの道を使う分にはロープの助けを要する場面はありませんでした。
やがて傾斜がぐっと緩んで気持ちの良い草原の斜面になれば鍋割峠はすぐそこ。振り返ると谷間に寄大橋の赤い橋梁も見えています。そのまま癒し系の歩きを続けて鍋割峠に到着しました。
鍋割峠には小さな石仏がありますが、2017年の西丹沢周回の際にここを通過したときにはまったく気付きませんでした。鍋割山側からこの峠へ降りてくると石仏の背中しか見えないからかもしれませんし、日没との競争で先を急いでいたということもあったのかもしれません。今回は時間にゆとりがあるのでじっくり拝見しましたが、身体に何やらくねくねとしたものを纏わりつかせたこの仏様が誰なのかはこのときはわかりませんでした。
行動食をとりながら峠の向こうを見やると、目の前の沢筋(鉄砲沢源頭部)の対岸に旧鍋割峠と呼ばれている鞍部が見えています。あそこまでのトラバースが、この日最初のハイライトです。
鍋割峠から右手の斜面には明瞭な踏み跡があり、これを辿ってまずは水平に移動します。するとすぐに上と下の二つのラインに分かれており、試みに上のラインをとりました。
ところが、この道はただちに顕著なガレ斜面にぶつかって切れています。これはダメだ、とそこから灌木をつかみながら小尾根を下りましたが、先ほどの下のラインをとっていれば自然にこの小尾根の途中へ出られたようです。
これが降りてきた小尾根の末端。右上の空が見えているあたりが先ほどまでそこにいた鍋割峠です。
小尾根末端からしばらくは特に危険のない斜面のトラバースになりますが、気になったのは紫のスズランテープが随所にくくりつけられていること。うーん、これはやめてほしい。寄コシバ沢の遡行で赤テープのお世話になったばかりなので偉そうなことは言えませんし、したがってあえて回収することはしませんでしたが、それにしてもこのテープはひど過ぎます。第一にこのルートを歩く者のルートファインディングの楽しみを奪ってしまっているし、第二にこの辺りでは地形が変わりやすいのでテープを信用した者がかえって窮地に陥る危険を生じているからです。
最後にちょっとばかり緊張するザレの急斜面を上流方向へトラバース気味に下って一番奥の沢筋の途中に降りましたが、どうやらここまでの山腹横断のラインが低過ぎたらしく、鍋割峠〜旧鍋割峠を結ぶラインまで高さを取り戻しておけばこのガレ沢の中へ下るロープがフィックスされていたようです(使えるかどうかは未確認)。単に旧鍋割峠へ達するだけならロープを使わずにすむ今回とったラインも間違いとは思いませんが、かつての径路を追体験するという山行のコンセプトに照らせば旧鍋割峠を真横に見る位置にまで高度を上げておくべきでした。
ともあれ崩れやすい沢床を登り返して、ラストワンピッチ分の位置にも残置ロープあり。これも登りならなくても困らない程度の斜面で、どっこらしょと乗り上がったところが旧鍋割峠でした。
ところで、どうしてここを「旧」鍋割峠と呼ぶのかは不明です。石仏があった峠とこの鞍部とは、二つセットで「鍋割峠」だろうと思うのですが。また、ここを別名「オガラ沢ブッコシ」とする記録もありますが、これもオガラ沢の位置からすると違和感あり……というより、はっきりと間違いです〔後述〕。
振り返り見れば凄惨な眺め。かつてはここから鍋割峠まで荷を積んだ馬が渡れるほどに安定した水平な道が続いていたはずですが、今はザレた斜面や沢筋に寸断されてしまって往時を偲ぶよすがもありません。とはいえ、この区間は確かに悪場が続きましたが、持参した20mロープを使う機会もなく、沢登りの経験が豊富な者にとっては特に危険を感じるほどではないだろうと思われます。ただし、脆い地質であるだけにヘルメットはかぶっておくことを勧めます。
二つでワンセットという点では、鍋割峠までの登りに使った寄コシバ沢と旧鍋割峠から尊仏ノ土平へ下るコシバ沢も同様(二つ合わせて「越場コシッパ」)なのですが、今回はコシバ沢を下らず、オガラ沢ノ頭を右から巻いて鍋割山北尾根に出ました。
鍋割山北尾根はよく歩かれているようで踏み跡ははっきりしており、傾斜も緩やか。とても歩きやすい尾根でした。その途中の開けたところからは塔ノ岳が見えており、尊仏山荘も確認することができましたが、あそこまで登り返すことになるのか……とちょっと気分はブルー。
オガラ沢出合に出て、そこからしばらくは玄倉林道の跡を上流へと歩きます。道の形はしっかり残っていておおむね歩きやすいのですが、部分的に斜面が崩れて路面を覆っている箇所もあり、ここもいつの日にか自然に帰るのだろうと思わせました。
地図に書かれている登山道は鍋割沢に入って少し先の尊仏ノ土平から塔ノ岳西尾根に乗って行きますが、今回は箒杉沢に入って金沢から小金沢右岸尾根(=大金沢左岸尾根)を登る計画です。よって箒杉沢と鍋割沢との出合で林道を離れて河原に降り、箒杉沢に向かいました。沢とは言ってもこの辺りは川幅が広く、そのほとんどがガレに覆われていて水量はわずか。箒杉沢は左岸の道を使ってしばらく歩き、途中から右岸に渡って堰堤を越えていきますが、そのラインどりは地図に書かれている通りでOKです。
右岸に渡って二つ目の堰堤を越えたところで対岸に金沢が見えてきました。沢の奥に見えている緩やかな尾根が目指すルートです。
最初の堰堤は左(右岸)から容易に通過可能。すぐに右に小金沢、左に大金沢と二俣に分かれますが、いったん小金沢に入って高さのある堰堤の左斜面からほとんど薮を漕ぐこともなく右岸の尾根(大金沢左岸尾根)に取り付きました。
尾根上の踏み跡は薄いものの歩行には支障なく、ところどころには細い緑のポールを円形に立て並べたもの(用途不明)も見られます。単調な登りを続けて標高1250mに達したところには「左 ユーシン / 右 塔ヶ岳」と彫られた石標が立っていました。どうして分岐点でもないこの位置にこの立派な石標が設置されたのか、設置主体は誰なのかもわかりませんが、かつてこの道を辿った人々に思いを馳せながら先に進みました。
傾斜が緩んだ大金沢左岸尾根はやがて塔ノ岳西尾根に吸い込まれるように合流し、ここからは階段も設置されたしっかりした登山道を登ることになりました。ちょっと疲労がたまってきたのと気温が上がってきたこととが相俟って登高ペースが落ちてきてしまいましたが、山頂まではあと少しです。
不動の清水に到着。かつて塔ノ岳山頂周辺のブナが豊かだった頃は水量豊富だったこの水場もその後の樹木の消滅と共に水が涸れ気味になってしまった[3]と聞いていましたが、確かに水流は細いものの水は絶えることなく流れており、手ですくって飲むと冷たく美味しい水でした。
ここには新旧の石碑・石仏あり。新しい2枚の石碑には小田原ナーゲル山の会と秦野市山岳協会の名前が彫られ、古い方の右端は1961年の遭難者供養塔ですが、その隣の二体の石仏は傷みが目立ちます。それでもこの二体のうち向かって左の白っぽい方はまだしも原型をとどめており、こちらが1881年に講中の先達・竹内富造が納めたという不動尊[3]のようですが、もう一体は風化が激しく元の姿を想像することも困難でした。
さて、ここから今日の山行の目的地である尊仏岩跡を目指します。そこは不動の清水から北に向かってわずかに高度を上げた場所にあり、かつては不動の清水と尊仏岩とを結ぶトラバース道もあったので、まずは獣道とも踏み跡ともつかない道を使って斜面の横断にかかったのですが、横→上→横と彷徨するうちにクドレ(崩壊地)に突き当たってしまいました。渡ろうと思えば渡れるものの少々リスキーに見えるこの崩壊地をしばし眺め、ここはおとなしく上から巻くことにしたのですが、この崩壊地の手前にははっきりと人が歩く道の形が残っており、おそらくこれがかつて不動の清水から尊仏岩に通じていた道であっただろうと思います。
いったん登山道に出て少し登り、先ほどの崩壊地の上縁あたりの草付斜面を再びトラバース。こちらも獣道がしっかりついており、やがて尊仏岩跡があるはずの小尾根に達すると笹原の中にはっきりとした人間の踏み跡が上下に付けられていました。よしよし、これが尊仏岩に通じているに違いない。
小尾根を降りていくとまず岬のような地形に出ますが、ここは「岬」の突端よりほんの少し手前の右手の急斜面に付けられた踏み跡を使って下に降りてから、左手にトラバースして「岬」の下へ戻ります。
すると眼下に特徴的なトンガリ岩が出てきました。ここも岩の右側から斜面を下ると……。
目的地に到着!これが尊仏岩が立っていた場所で、手元のGPSが示す標高は1412m。GPSアプリGeographicaでこの場所をマーキングすると下図のようになります。
一見すると稜線からさほど離れていないように見えますが、山頂から標高差が80mほどあり、実感としては「かなり下っている」という印象を受けます。なお、ネット情報を見ているとまれに「山頂に立っていた尊仏岩がここまで落ちてきた」と誤解している記述を見掛けますが、そうではなく尊仏岩は最初からここに立っていたのです。また、塔ノ岳の山名はこの尊仏岩を「お塔」と呼んだことに因んだものと広く認識されていますが、これも鵜呑みにするべきではないようです〔後述〕。
岩の上には二体の石仏、そして梵字と「尊佛」の文字が彫られた小さな板碑がありました。石仏の首がないのは廃仏毀釈の影響なのでしょうか?ともあれ、今年1年の登山の安全を祈願して手を合わせました。
石仏が乗る岩の谷側に降りて見上げてみると、山側から見た印象とは打って変わってそこそこの高さがありました。あの石仏が尊仏岩の足元に置かれたものだったとすると、尊仏岩本体はこちら側の面に貼りついていたかまたは隣接していたはずで、それはそれは立派なものだったことでしょう。これは戦前の記事[5]に(孫佛岩は)高さ二丈許りの立岩で周邊が十間餘りもあり上身が少しく前に屈してゐてその面に梵字で大きく「悪」と刻まれ、そしてその前に上が平坦で根本の尖つた一間程の岩が恰度䑓座の様に在つた
とある「里の古老の話」とも合致しそうです。しかし、いかに大きな岩塔だったとしてもここは、塔ノ岳の縦走路からも不動の清水からも見える位置ではありません。また不動の清水がある以上、水を求めてここまで降りてくることもなさそう。つまり、尊仏岩に最初に達した者は偶然これを見つけたのではなく、ここに岩塔があることを知った上で稜線から降りてきたはずです。
では尊仏岩はどこから見つけられたのか?彼方の蛭ヶ岳やその右手の不動ノ峰には修験の行場があったそうですからそこからということも考えられますが、ちょっと遠過ぎる気がします。
むしろ可能性が高いと思えるのは、かつて大日如来が祀られていたという日高ひったか方面です。現に木の間越しに日高の柔らかいピークが見えていますし、その辺りを通る登山者の声もここまで驚くほど明瞭に聞こえていました。もっとも、こればかりはいくら考えても正解に辿り着けるわけではないので、尊仏岩跡に無事に到着できたことに満足して山頂に向かうことにしました。
先ほどの「岬」までは少々急な登り返しになりますが、そこから先は傾斜の緩んだ笹原の中のはっきりした踏み跡になり、そして登り着いた場所は尊仏山荘のすぐ裏手でした。
山頂はなかなかの賑わいよう。雲は多いものの青空も広がって展望に恵まれましたが、冷たい風が吹いて少々寒く、フリースを着込んでから行動食を口にしました。
秦野盆地や小田原、真鶴半島などを見下ろしながら下山にかかりましたが、今回は思うところあって寄に降りることにしているので金冷シで右折しました。ここから鍋割山までは実際に歩いてみると地図で想像するよりも歩きごたえがあり、地味に疲れるところです。
鍋割山に着いたところで、手元の飲料の残量に不安があったのでスポーツドリンクでも売っていないものかと山荘に入ったのですが、中にいた小屋番さんにケンもほろろに追い出されてしまいました。この山小屋の接客についてはとかくの風評のあるところですが、このときばかりはうっかりマスクをせずに小屋に立ち入ったこちらの非。とはいえ、こんなことなら不動の清水で水を補給しておけばよかったと後悔しました。
その後は特筆すべきこともなく、尾根を南下して後沢乗越、栗ノ木洞、櫟山を順調に通過。寄を見下ろす展望台の周辺は桜のピンクと菜の花の黄色に包まれていました。
寄のバス停には最終バス(18時45分)まで十分ゆとりのある時刻に着いたので、近くの食堂にちゃんとマスクをして入り、山行の完了を祝って生ビールで一人乾杯。GPSのデータによれば平面距離17.8km / 沿面距離18.5km、累計高度(+)1840m / 累計高度(-)1978mでしたから、病み上がりとしてはなかなかよいトレーニングになりました。
冒頭に書いたように、1月の山行からこの山行までの間に3カ月近くの間が空いてしまいました。SNS中心の発信スタイルが広まる一方でレガシーなブログが次々に更新されなくなっていく中、あるいは「『塾長の山行記録』もついに寿命が尽きたか」と思った人もいるかもしれませんが、どっこいそうではありません。本当に山に登っていなかっただけのことです。コロナ情勢や自分の体調が今後どうなっていくかは予断を許しませんが、自分としてはこれからも行ける限りは山に行くし、山に行けばこのサイトに記録をアップし続けるつもりでいます。
さて、次はどこへ行こう?
脚注
- ^坂本光雄「丹澤玄倉川と周圍の山々」『山と溪谷』第28号(山と溪谷社 1934年11月)p.67-75。この中に
本脈は南へ延びて、一五〇二・八米の茅戸カヤトの頭附近が龍ヶ馬場、次の長楕圓形の頭が、日高ヒダカ又は、土平ドダヒラ頭と稱される、現在まで無名とされてゐた
との記述がある(無名とされてゐた
の意味不明)。 - ^奥野幸道「丹沢の古道をたずねて」『足柄乃文化』第22号(山北町地方史研究会 1995年3月)p.12-22(ただし本稿の初出は『丹沢だより』第200号(丹沢自然保護協会 1986年7月)である模様)。この中に
思いがけず「鈴木正信君」の遭難碑があった。誤ってこの道を下り沢に出る辺りで道がないものでもどる途中の疲労死とか。冥福を祈りつつ茶をわかして一休
との記述がある。筆者は1905年に武田久吉が辿った道を追体験すべくこの尾根を登っている途中で遭難碑に出会っている。 - ^ab奥野幸道『丹沢今昔』(有隣堂 2004年)p.12-13
- ^ab『黒尊佛山方之事』(文化2年(1805年))。城川隆生『中世の丹沢山地 史料集』において2021年4月4日閲覧。
- ^abcd坂本光雄「丹澤・塔岳雜談」『山と溪谷』第40号(山と溪谷社 1936年11月)p.76-84
- ^2021年5月8日キャプチャ。その後「(オガラ沢ブッコシ)」を削除して修正。
- ^松本重男・鐡道省山岳部編「鍋割山・雨山・檜岳」『日本山岳案内』第一輯(博文館 1940年)p.111-120(このうち「鍋割山山稜槪念圖」はp.112)。本文中オガラ沢(本書では「オラガ澤」と誤記されている)の説明にも
澤沿ひに鍋割山山稜に至る逕がある
と書かれている。 - ^ab戸澤英一・藤島敏男「丹沢山塊」『山岳』第13年第3號(日本山岳会 1919年10月)p.324-335。この中(p.328)に
熊木といふ所は、玄倉村との交渉は極めて稀で、却つて寄村との關係が深く、製板所の駄馬は直接に毎日午後二時此處を出て、村へ薪炭を運ぶと云ふことである
との記述がある。 - ^ab小木満「西丹沢拾い話」『足柄乃文化』第28号(山北町地方史研究会 2001年3月)p.75-88。本稿は丹沢自然保護協会会報『丹沢だより』第295-300号(1994年)に「ユウシン地名考あれこれ」と題して連載された論考をまとめて加筆したもの。
- ^村田孝次「寄澤を繞る山と峠」『山と高原』第32號(朋文堂 1941年12月)p.45-47。なお、上掲『日本山岳案内』にはこの鞍部への言及はない。
- ^たとえば上掲「寄澤を繞る山と峠」の地図では「後沢乗越」は鞍部そのものの名称として記されている。
- ^菊池武「山岳修験と巨石信仰-特に狗留孫仏を中心に」『山岳修験』9号(日本山岳修験学会 1992年1月)p.17-31。本稿は深山幽谷に屹立する巨大な立石(メンヒル)に「狗留孫仏(石)」と名付けて信仰の対象としている事例を九州2例、中国5例、近畿4例、愛媛・丹沢・出羽各1例の合計14例取り上げて、庶民信仰の様子や山岳修験(熊野信仰)の行場としての役割、曹洞宗が狗留孫仏信仰の伝播に寄与していることを論じている。
- ^武田久吉「四十年前の丹澤を語る」『山と溪谷』第143号(山と溪谷社 1951年4月)p.19-27
- ^武田久吉「丹澤山」『山岳』第8年第3號(日本山岳会 1913年12月)p.552-562
- ^城川隆生『丹沢・大山・相模の村里と山伏〜歴史資料を読みとく』(夢工房 2020年)p.117
- ^『峯中記略扣 常蓮坊』(文政6年(1823年))。城川隆生『中世の丹沢山地 史料集』において2021年4月4日閲覧。
- ^『添田町歴史的風致維持向上計画 第2章 添田町の維持向上すべき歴史的風致』(2021年3月改訂版)p.52 - 添田町ウェブサイト「添田町歴史的風致維持向上計画について」2021年5月15日閲覧。
- ^半井忠見(碧梧庵)『愛媛面影』巻一(1869年)
- ^山岸猛男『丹沢 尊仏山荘物語』(山と溪谷社 1999年)p.66
- ^高野鷹藏「塔ヶ嶽」『山岳』第1年第1號(日本山岳会 1906年4月)p.58-78
- ^時間が押しているために尊仏岩の写真撮影や測量を諦めた一行は、塔ノ岳の山頂で暫時休憩してから案内人が持つ提灯の明かりを頼りに夜の大倉尾根を下る。午後10時を回った頃に麓の村に降り着き、その後、松田に向かう途中で案内人と別れた一行が停車場前の「富士見屋」に投宿したのは日付が変わった午前3時すぎ。この抱腹絶倒の山行記は
最後に案内にも御苦勞を謝する
とユーモアを湛えて締めくくられている。 - ^植木知司『かながわの峠』(神奈川新聞社 1999年)p.135(「鍋割峠」の項)には
そのころ尊仏詣でには二つの道があった。一つは峠からコシッパ沢に下り、鍋割沢から塔ノ岳へ。もう一つが、峠から鍋割山を越えて塔ノ岳に登ったといわれる
との記述がある。
注:『山岳』のページは国立国会図書館オンラインでの表記に従い当該年次の通巻ページを示しています。