塔ノ岳〔鍋割峠越え・尊仏岩跡〕

日程:2021/04/03

概要:寄から雨山峠へ向かう道を途中まで登り、寄コシバ沢から鍋割峠・旧鍋割峠を経て尾根伝いに玄倉川上流へ出た後、箒杉沢から小金沢に入りその右岸尾根に乗って不動の清水へ。尊仏岩跡を訪ねてから塔ノ岳に登頂し、鍋割山から栗ノ木洞を越えて寄へ下山。

⏿ PCやタブレットなど、より広角の画面で見ると、GPSログに基づく山行の軌跡がこの位置に表示されます。

山頂:塔ノ岳 1491m / 鍋割山 1272m

同行:---

山行寸描

▲鍋割峠〜旧鍋割峠区間。ザレた源頭部のトラバースと登下降が続く。(2021/04/03撮影)
▲尊仏岩跡。石仏の首がないのは廃仏毀釈?それとも博徒の験担ぎのせい?(2021/04/03撮影)

昨年の山神径路三ヶ瀬古道以来、丹沢の古道探しに興味を持った私。もともと丹沢は好きな山域ですが、緊急事態宣言期間中は山行を控えて丹沢にまつわる本を読み漁っていました。ところが宣言解除になったときにはしばらく運動ができない身体になっており、結局1月の山行からほぼ3カ月ぶりのこの日、リハビリを兼ねて丹沢に足を運ぶことになりました。

今回、満を持して(?)向かった先は塔ノ岳の山頂近くにあったという尊仏岩跡です。ただし、普通に大倉尾根から塔ノ岳に登るのでは面白味がありません。そこで寄から鍋割峠を越えて尊仏岩に向かうかつての登拝路をできるだけ再現してみようというのが、この山行の眼目です。

2021/04/03

△07:25 寄大橋 → △08:40 寄コシバ沢出合 → △09:25-30 鍋割峠 → △10:05 旧鍋割峠 → △10:45-50 オガラ沢出合 → △11:30 金沢出合 → △12:50-13:00 不動の清水 → △13:35-45 尊仏岩跡 → △14:00-15 塔ノ岳 → △15:15-25 鍋割山 → △16:10 後沢乗越 → △16:35 栗ノ木洞 → △16:50 櫟山 → △17:55 寄

朝一番の電車で小田急線新松田駅に到着。あいにく寄行きの始発バスは発車時刻が遅いので、バス停に並ぶ皆さんを尻目にタクシーに乗りました。寄へ向かう車中での運転手さんとの会話の話題はもっぱらヤマビルのこと。「もう出てますか?」「下の方まで出るようになりましたねぇ」「うひゃー」といった会話を交わしているうちに寄大橋に到着しました。ここまでのタクシー代は4,430円とそこそこのお値段ですが、それだけの費用をかけて早出したのも、少しでも寒い時間帯に歩き出したいと考えたからです。

出発前にこれでもかというくらいに忌避剤を足にかけ、それでもよじ登ってくる奴がいたら撃退すべくエアーサロンパスを取り出しやすいところに入れて、いざ出発。大橋と登山口の間の道は昨年11月には工事中でしたが、今ではすっかり綺麗になっていました。

何度かの渡渉をこなしながら寄沢沿いの道を遡り、釜場平のある馬の背の尾根に取り付く手前でひどく荒れたガレ沢(かつて登攀対象とされていた地獄崩ザリに通じる)を見上げてみました。はるか昔にはこの奥の斜面を斜上して鍋割峠へ通じる道がつけられていた〔後述〕のですが、このガレの様子では今はとても歩けそうにないことを確認して、予定通り寄コシバ沢へ向かうことにしました。

ピンクのツツジが目を楽しませてくれる尾根をひと頑張り登って、寄コシバ沢に到着しました。ここから正規の登山道を離れることになります。

「コシバ沢方面危険」と脅す看板を横目にヘルメットをかぶり、ガレた寄コシバ沢の遡行を開始しました。今では廃道扱いのこのルートは、かつては寄から玄倉川上流へ抜ける際のメインルート。歩行に支障を生じるほど荒れてはおらず、ところどころのケルンやピンクの布も目印を提供してくれています。なお右岸に赤テープや作業道が見え隠れしており、不用意にそちらに入ると尾根の上に追い上げられるので要注意。その尾根も登られてはいるようなのですが、今回の目的はあくまで寄コシバ沢です。

とは言っても寄コシバ沢の上流部は地形的に遡行困難(過去には死亡事故も起きているとのこと)なので、標高960mあたりで赤テープを目印に沢を離れ右岸の斜面に乗り上がりました。

明瞭な踏み跡を辿りながら高度を上げていくと、右下には緩やかなガレ沢だった寄コシバ沢が厳しい急斜面に姿を変えている様子が見てとれます。一方、踏み跡は沢筋からかなり離れた高いところを上流に向かっており、最後の方では固定ロープも出てきましたがこれはおそらく下り用。登りにこの道を使う分にはロープの助けを要する場面はありませんでした。

やがて傾斜がぐっと緩んで気持ちの良い草原の斜面になれば鍋割峠はすぐそこ。振り返ると谷間に寄大橋の赤い橋梁も見えています。そのまま癒し系の歩きを続けて鍋割峠に到着しました。

鍋割峠には小さな石仏がありますが、2017年の西丹沢周回の際にここを通過したときにはまったく気付きませんでした。鍋割山側からこの峠へ降りてくると石仏の背中しか見えないからかもしれませんし、日没との競争で先を急いでいたということもあったのかもしれません。今回は時間にゆとりがあるのでじっくり拝見しましたが、身体に何やらくねくねとしたものを纏わりつかせたこの仏様が誰なのかはこのときはわかりませんでした。

調べたところ、この石仏は馬頭観音でした。そう言われてみると観音様のお顔の上に馬の頭らしきものが見え、現地で見たときはくねくねしてセクシーと思ったその姿も実は忿怒相です。そして、かつてこの馬頭観音は人と共に峠を越える馬を見守っていたでしょうし、鍋割沢から寄へと帰るその馬の背中には薪炭がくくりつけられていたことでしょう。

行動食をとりながら峠の向こうを見やると、目の前の沢筋(鉄砲沢源頭部)の対岸に旧鍋割峠と呼ばれている鞍部が見えています。あそこまでのトラバースが、この日最初のハイライトです。

鍋割峠から右手の斜面には明瞭な踏み跡があり、これを辿ってまずは水平に移動します。するとすぐに上と下の二つのラインに分かれており、試みに上のラインをとりました。

ところが、この道はただちに顕著なガレ斜面にぶつかって切れています。これはダメだ、とそこから灌木をつかみながら小尾根を下りましたが、先ほどの下のラインをとっていれば自然にこの小尾根の途中へ出られたようです。

これが降りてきた小尾根の末端。右上の空が見えているあたりが先ほどまでそこにいた鍋割峠です。

小尾根末端からしばらくは特に危険のない斜面のトラバースになりますが、気になったのは紫のスズランテープが随所にくくりつけられていること。うーん、これはやめてほしい。寄コシバ沢の遡行で赤テープのお世話になったばかりなので偉そうなことは言えませんし、したがってあえて回収することはしませんでしたが、それにしてもこのテープはひど過ぎます。第一にこのルートを歩く者のルートファインディングの楽しみを奪ってしまっているし、第二にこの辺りでは地形が変わりやすいのでテープを信用した者がかえって窮地に陥る危険を生じているからです。

こうした紫テープは、近年丹沢の非正規ルートの随所に見られるようになり、丹沢愛好家の顰蹙を買っている模様。幸い、今回見掛けた紫テープは20日後にここを通った登山者の方が掃除して下さったそうです。

最後にちょっとばかり緊張するザレの急斜面を上流方向へトラバース気味に下って一番奥の沢筋の途中に降りましたが、どうやらここまでの山腹横断のラインが低過ぎたらしく、鍋割峠〜旧鍋割峠を結ぶラインまで高さを取り戻しておけばこのガレ沢の中へ下るロープがフィックスされていたようです(使えるかどうかは未確認)。単に旧鍋割峠へ達するだけならロープを使わずにすむ今回とったラインも間違いとは思いませんが、かつての径路を追体験するという山行のコンセプトに照らせば旧鍋割峠を真横に見る位置にまで高度を上げておくべきでした。

ともあれ崩れやすい沢床を登り返して、ラストワンピッチ分の位置にも残置ロープあり。これも登りならなくても困らない程度の斜面で、どっこらしょと乗り上がったところが旧鍋割峠でした。

ところで、どうしてここを「旧」鍋割峠と呼ぶのかは不明です。石仏があった峠とこの鞍部とは、二つセットで「鍋割峠」だろうと思うのですが。また、ここを別名「オガラ沢ブッコシ」とする記録もありますが、これもオガラ沢の位置からすると違和感あり……というより、はっきりと間違いです〔後述〕。

振り返り見れば凄惨な眺め。かつてはここから鍋割峠まで荷を積んだ馬が渡れるほどに安定した水平な道が続いていたはずですが、今はザレた斜面や沢筋に寸断されてしまって往時を偲ぶよすがもありません。とはいえ、この区間は確かに悪場が続きましたが、持参した20mロープを使う機会もなく、沢登りの経験が豊富な者にとっては特に危険を感じるほどではないだろうと思われます。ただし、脆い地質であるだけにヘルメットはかぶっておくことを勧めます。

二つでワンセットという点では、鍋割峠までの登りに使った寄コシバ沢と旧鍋割峠から尊仏ノ土平へ下るコシバ沢も同様(二つ合わせて「越場コシッパ」)なのですが、今回はコシバ沢を下らず、オガラ沢ノ頭を右から巻いて鍋割山北尾根に出ました。

鍋割山北尾根はよく歩かれているようで踏み跡ははっきりしており、傾斜も緩やか。とても歩きやすい尾根でした。その途中の開けたところからは塔ノ岳が見えており、尊仏山荘も確認することができましたが、あそこまで登り返すことになるのか……とちょっと気分はブルー。

オガラ沢出合に出て、そこからしばらくは玄倉林道の跡を上流へと歩きます。道の形はしっかり残っていておおむね歩きやすいのですが、部分的に斜面が崩れて路面を覆っている箇所もあり、ここもいつの日にか自然に帰るのだろうと思わせました。

地図に書かれている登山道は鍋割沢に入って少し先の尊仏ノ土平から塔ノ岳西尾根に乗って行きますが、今回は箒杉沢に入って金沢から小金沢右岸尾根(=大金沢左岸尾根)を登る計画です。よって箒杉沢と鍋割沢との出合で林道を離れて河原に降り、箒杉沢に向かいました。沢とは言ってもこの辺りは川幅が広く、そのほとんどがガレに覆われていて水量はわずか。箒杉沢は左岸の道を使ってしばらく歩き、途中から右岸に渡って堰堤を越えていきますが、そのラインどりは地図に書かれている通りでOKです。

右岸に渡って二つ目の堰堤を越えたところで対岸に金沢が見えてきました。沢の奥に見えている緩やかな尾根が目指すルートです。

今年の1月に入手した吉田喜久治氏の『丹澤記』(岳ヌプリ書房 1983年)は、いにしえの丹沢にまつわる著者の私的な記録と考察を集めた読み応えのある本ですが、同書(p.438)によると尊仏ノ土平ソンブツのドタイロ塔ヶ岳の玄倉川・箒杉沢からの登路、金沢の尾根の末端、大金沢出合の下手、つまりまさに上の写真の場所にあり、ここから見て真東に登り詰めたところにある日高も別称「土平ノ頭」であったとされています[1]。現在の地図では尊仏ノ土平は鍋割沢に入ったところに当てられていますが、この点についても近頃このドタイロがナベワリ沢にあるかのようにいうひとがいるが、おもいちがいであろうと一刀両断。同書の記述に完全に依拠することにはためらいを覚えますが、一応紹介しておきます。

最初の堰堤は左(右岸)から容易に通過可能。すぐに右に小金沢、左に大金沢と二俣に分かれますが、いったん小金沢に入って高さのある堰堤の左斜面からほとんど薮を漕ぐこともなく右岸の尾根(大金沢左岸尾根)に取り付きました。

尾根上の踏み跡は薄いものの歩行には支障なく、ところどころには細い緑のポールを円形に立て並べたもの(用途不明)も見られます。単調な登りを続けて標高1250mに達したところには「左 ユーシン / 右 塔ヶ岳」と彫られた石標が立っていました。どうして分岐点でもないこの位置にこの立派な石標が設置されたのか、設置主体は誰なのかもわかりませんが、かつてこの道を辿った人々に思いを馳せながら先に進みました。

帰宅してからこのとき撮影した石標の背面の写真を拡大して見たところ、そこには「昭和四十四」「鈴木正信君」「同好会」という文字が彫られていました。そして、個人名が大きく書かれているということは遭難碑なのではないか?と思いつつ調べを続けた結果、この石標が遭難碑であることを示す文献[2]が見つかりました(合掌)。なお「昭和四十四」年が事故の日付だったとすれば、この石標がここに建てられたのはどんなに早くても1970年以降のことでしょう。その頃には塔ノ岳へ登る道は鍋割沢側から付けられており、大金沢左岸尾根の道は一般ルートではなくなっていましたから、この遭難碑が道標としての役割を果たすことはほとんどなかったはずです。

傾斜が緩んだ大金沢左岸尾根はやがて塔ノ岳西尾根に吸い込まれるように合流し、ここからは階段も設置されたしっかりした登山道を登ることになりました。ちょっと疲労がたまってきたのと気温が上がってきたこととが相俟って登高ペースが落ちてきてしまいましたが、山頂まではあと少しです。

不動の清水に到着。かつて塔ノ岳山頂周辺のブナが豊かだった頃は水量豊富だったこの水場もその後の樹木の消滅と共に水が涸れ気味になってしまった[3]と聞いていましたが、確かに水流は細いものの水は絶えることなく流れており、手ですくって飲むと冷たくおいしい水でした。

ここには新旧の石碑・石仏あり。新しい2枚の石碑には小田原ナーゲル山の会と秦野市山岳協会の名前が彫られ、古い方の右端は1961年の遭難者供養塔ですが、その隣の二体の石仏は傷みが目立ちます。それでもこの二体のうち向かって左の白っぽい方はまだしも原型をとどめており、こちらが1881年に講中の先達・竹内富造が納めたという不動尊[3]のようですが、もう一体は風化が激しく元の姿を想像することも困難でした。

さて、ここから今日の山行の目的地である尊仏岩跡を目指します。そこは不動の清水から北に向かってわずかに高度を上げた場所にあり、かつては不動の清水と尊仏岩とを結ぶトラバース道もあったので、まずは獣道とも踏み跡ともつかない道を使って斜面の横断にかかったのですが、横→上→横と彷徨するうちにクドレ(崩壊地)に突き当たってしまいました。渡ろうと思えば渡れるものの少々リスキーに見えるこの崩壊地をしばし眺め、ここはおとなしく上から巻くことにしたのですが、この崩壊地の手前にははっきりと人が歩く道の形が残っており、おそらくこれがかつて不動の清水から尊仏岩に通じていた道であっただろうと思います。

いったん登山道に出て少し登り、先ほどの崩壊地の上縁あたりの草付斜面を再びトラバース。こちらも獣道がしっかりついており、やがて尊仏岩跡があるはずの小尾根に達すると笹原の中にはっきりとした人間の踏み跡が上下に付けられていました。よしよし、これが尊仏岩に通じているに違いない。

小尾根を降りていくとまず岬のような地形に出ますが、ここは「岬」の突端よりほんの少し手前の右手の急斜面に付けられた踏み跡を使って下に降りてから、左手にトラバースして「岬」の下へ戻ります。

すると眼下に特徴的なトンガリ岩が出てきました。ここも岩の右側から斜面を下ると……。

目的地に到着!これが尊仏岩が立っていた場所で、手元のGPSが示す標高は1412m。GPSアプリGeographicaでこの場所をマーキングすると下図のようになります。

一見すると稜線からさほど離れていないように見えますが、山頂から標高差が80mほどあり、実感としては「かなり下っている」という印象を受けます。なお、ネット情報を見ているとまれに「山頂に立っていた尊仏岩がここまで落ちてきた」と誤解している記述を見掛けますが、そうではなく尊仏岩は最初からここに立っていたのです。また、塔ノ岳の山名はこの尊仏岩を「お塔」と呼んだことに因んだものと広く認識されていますが、これも鵜呑みにするべきではないようです〔後述〕。

岩の上には二体の石仏、そして梵字と「尊佛」の文字が彫られた小さな板碑がありました。今年一年の登山の安全を祈願して手を合わせましたが、それにしても石仏の首がないのは、廃仏毀釈の影響なのでしょうか?あるいは博徒が験担ぎに持ち去った可能性も。と言うのも、この塔ノ岳では現在「孫佛祭」が開催されている毎年5月15日に関東一円の博徒が集まって大倉尾根の各所で開かれる賭場で博奕を打つということが戦後まで行われていたそうですし、「地蔵の頭を持っていれば博打に勝つ」という縁起担ぎに基づく首なし地蔵の話も日本全国にあるからです。

これも後日調べたところ、梵字は不動の清水の拘留孫如来碑や塔ノ岳山頂の狗留尊佛如来碑に描かれている胎蔵界大日如来の種字「アーンク」を簡素化したもののようです。これは19世紀の御師の登山記録[4]尊佛岩之下ニ長壹尺程之大日尊有之とあることと符合しますが、二体の石仏も胎蔵界大日如来に紐づけるならその印相は法界定印になるべきところ、このように人差し指を合わせて立てているので阿弥陀定印のよう?風化が進んでいる上に自分の勉強不足もあって、この辺りは判然としません。

石仏が乗る岩の谷側に降りて見上げてみると、山側から見た印象とは打って変わってそこそこの高さがありました。あの石仏が尊仏岩の足元に置かれたものだったとすると、尊仏岩本体はこちら側の面に貼りついていたかまたは隣接していたはずで、それはそれは立派なものだったことでしょう。これは戦前の記事[5]に(孫佛岩は)高さ二丈許りの立岩で周邊が十間餘りもあり上身が少しく前に屈してゐてその面に梵字で大きく「悪」と刻まれ、そしてその前に上が平坦で根本の尖つた一間程の岩が恰度䑓座の様に在つたとある「里の古老の話」とも合致しそうです。しかし、いかに大きな岩塔だったとしてもここは、塔ノ岳の縦走路からも不動の清水からも見える位置ではありません。また不動の清水がある以上、水を求めてここまで降りてくることもなさそう。つまり、尊仏岩に最初に達した者は偶然これを見つけたのではなく、ここに岩塔があることを知った上で稜線から降りてきたはずです。

では尊仏岩はどこから見つけられたのか?彼方の蛭ヶ岳やその右手の不動ノ峰には修験の行場があったそうですからそこからということも考えられますが、ちょっと遠過ぎる気がします。

むしろ可能性が高いと思えるのは、かつて大日如来が祀られていたという日高ひったか方面です。現に木の間越しに日高の柔らかいピークが見えていますし、その辺りを通る登山者の声もここまで驚くほど明瞭に聞こえていました。もっとも、こればかりはいくら考えても正解に辿り着けるわけではないので、尊仏岩跡に無事に到着できたことに満足して山頂に向かうことにしました。

先ほどの「岬」までは少々急な登り返しになりますが、そこから先は傾斜の緩んだ笹原の中のはっきりした踏み跡になり、そして登り着いた場所は尊仏山荘のすぐ裏手でした。

山頂はなかなかの賑わいよう。雲は多いものの青空も広がって展望に恵まれましたが、冷たい風が吹いて少々寒く、フリースを着込んでから行動食を口にしました。

秦野盆地や小田原、真鶴半島などを見下ろしながら下山にかかりましたが、今回は思うところあって寄に降りることにしているので金冷シで右折しました。ここから鍋割山までは実際に歩いてみると地図で想像するよりも歩きごたえがあり、地味に疲れるところです。

鍋割山に着いたところで、手元の飲料の残量に不安があったのでスポーツドリンクでも売っていないものかと山荘に入ったのですが、中にいた小屋番さんにケンもほろろに追い出されてしまいました。この山小屋の接客についてはとかくの風評のあるところですが、このときばかりはうっかりマスクをせずに小屋に立ち入ったこちらの非。とはいえ、こんなことなら不動の清水で水を補給しておけばよかったと後悔しました。

その後は特筆すべきこともなく、尾根を南下して後沢乗越、栗ノ木洞、櫟山を順調に通過。寄を見下ろす展望台の周辺は桜のピンクと菜の花の黄色に包まれていました。

寄のバス停には最終バス(18時45分)まで十分ゆとりのある時刻に着いたので、近くの食堂にちゃんとマスクをして入り、山行の完了を祝って生ビールで一人乾杯。GPSのデータによれば平面距離17.8km / 沿面距離18.5km、累計高度(+)1840m / 累計高度(-)1978mでしたから、病み上がりとしてはなかなかよいトレーニングになりました。

冒頭に書いたように、1月の山行からこの山行までの間に3カ月近くの間が空いてしまいました。SNS中心の発信スタイルが広まる一方でレガシーなブログが次々に更新されなくなっていく中、あるいは「『塾長の山行記録』もついに寿命が尽きたか」と思った人もいるかもしれませんが、どっこいそうではありません。本当に山に登っていなかっただけのことです。コロナ情勢や自分の体調が今後どうなっていくかは予断を許しませんが、自分としてはこれからも行ける限りは山に行くし、山に行けばこのサイトに記録をアップし続けるつもりでいます。

さて、次はどこへ行こう?

オガラ沢ブッコシ

本文中で言及したように、旧鍋割峠=オガラ沢ブッコシ(打越)と記しているネット上の山行記録は少なくなく、その原因はおそらくヤマレコの地図上の旧鍋割峠の位置に「旧鍋割峠(オガラ沢ブッコシ)」という地名情報が設定されていたこと(右図[6])だろうと思います。しかし、オガラ沢は旧鍋割峠の北西にあるオガラ沢ノ頭を頂点として北西と北北東に延びる尾根を分水嶺としているため、旧鍋割峠自身にはオガラ沢との接点がありません。そして、オガラ沢打越という表記が見られる唯一(?)の文献である吉田喜久治『丹澤記』の記述(p.281-282)とそこで言及されている1940年のガイドブック[7]をあわせ読めば、オガラ沢打越は鍋割峠越えの道とは別物であることがわかります。ヤマレコの地図上の地名設定はユーザーが自由に編集できるので、ときどきこうした誤りが紛れ込むことがあるようです。

では、本当のオガラ沢打越はどこにあったのでしょうか。

経路としてのオガラ沢の利用例としては、1918年に熊木(熊木落合とも。今の地図では熊木沢出合)の製板所をベースにして蛭ヶ岳〜丹沢山〜塔ノ岳を回った記録[8]があります。この山行の帰路において筆者は、熊木から製板所の者に案内され谷を三四丁上流に遡つて南へ折れ地圖上の徑(=鍋割峠越え)とは異なる道をとって「一一〇五」の數字のある隆起(現在の地図では1108mピーク)の西を越えていますが、熊木沢出合から三四丁(300〜400m)上流は確かにオガラ沢出合です。そしてこの道の実在を裏付けるように、大正11年(1922年)修正測量五万図にもオガラ沢出合から登りにかかって無名沢ノ頭(現在「茅ノ木棚沢ノ頭」の道標があるところ)の西の大きな鞍部に達する道が載っています。もっとも、大正関東地震(1923年)の際には丹沢全山が丸裸になって遠くから見ると雪をかぶって真白と誤認されるほど山容が変わったそうです[9]から、1922年の径路が1940年にもそのままの道筋で健在だったという保証はないのですが、その点にはいったん目をつぶって大正11年修正測量五万図を引用してみます。

▲大正11年(1922年)修正測量五万図「秦野」〔部分〕。

上図によると、熊木から沢沿いに東に進んでオガラ沢に入り南へ徐々に高度を上げるこの道はオガラ沢ノ頭から北西に伸びる尾根を二つ目の鞍部(上図では標高980m / 現在の地図では950m)でまたいでおり、そこは現在「中ツ峠」と呼ばれているところです。ならば、オガラ沢打越とは中ツ峠のことなのか?しかし上掲『丹澤記』の記述はオガラ沢打越 1000メートルで、著者がいつの地形図を参照しているかは不明であるにしても、標高が微妙に一致しません。

実は、同書において「中ツ峠」という地名の解説(p.438-439)には普通名詞。峠道の途中にある峠、坂をいう。オガラ沢打越に一つ、雨山峠に一つと記されており、これを著者がオガラ沢打越の歩き方を解説している箇所(p.155-156)と共に読むと、著者が言う「オガラ沢打越」とは特定の峠の名ではなく径路の呼称(「オガラ沢に通じる山越えの径路」の意)であって、その途中で越えているのが中ツ峠であると解釈することができます。そして同書の「1,000メートル」がこの径路の最高所を表しているとすれば、これはオガラ沢ノ頭の北西の尾根上ではなく無名沢ノ頭の北側の尾根をまたぐところ(右図)の標高を示しているという読み方ができそうです(もっとも『丹澤記』に記されている標高は実はあまりアテになりません。これは著者がいい加減というわけではなく、執筆当時の地形図の精度の問題だろうと思います)。

ここまでは『丹澤記』に出てくるオガラ沢打越の話ですが、一方、山北町地方史研究会の機関誌『足柄乃文化』に掲載された「西丹沢拾い話[9]」という記事の中には寄村から玄倉川上流に通じる峠径は、鍋割峠と雨山峠の間にオガラ沢乗越と鉄砲沢乗越があって計四つという記述があります。ここで「鍋割峠」「雨山峠」と並列に見えることから「オガラ沢乗越」「鉄砲沢乗越」も峠の名前なのだろうと考えるのは自然と言えば自然ですが、地形的に見て鍋割峠と雨山峠とを結ぶ稜線上にさらに二つも峠があったとは考えにくいことから、これらの「乗越」は実際はどこにあったのかという問題意識を持ってこの山域を歩いている山行記録がネット上にいくつか見られます(下図)。

しかし、こと「西丹沢拾い話」の文脈上に限って解釈するなら、これらも上述のオガラ沢打越と同様に考えてみてはどうでしょう。というのも「西丹沢拾い話」の計四つの後にはそれぞれの峠径の先に製板所や休泊所があって、これらの峠径が拓かれた所以を物語っている。この峠径は生産点と生活点を結ぶ径路であった寄村からの四つの峠径は、すべて寄村から見て山向こうの沢の名をつけられて、諸士平側の沢への乗越しができることを示しているという文章が続いており、これらを含めて峠径を字義通りに解すれば、オガラ沢乗越も鉄砲沢乗越も径路の呼称として読むことができる(したがって「オガラ沢乗越」=「オガラ沢打越」)からです。すなわち、寄村側から見て「鍋割峠を越える径路」と「雨山峠を越える径路」の間に「オガラ沢に通じる山越えの径路」と「鉄砲沢に通じる山越えの径路」があったと読み替え、後二者は無名沢ノ頭の西の鞍部を南から北へ越えた後に鉄砲沢上流のどこかで(たとえば下図のように?)分岐していたと考えると、いろいろと辻褄が合うのではないでしょうか。寄沢からこの鞍部を越えてオガラ沢へ下る道に言及している1941年の資料[10]が無名沢ノ頭の西の鞍部のことを(「◯◯乗越」ではなく)「寄峠」と呼んでいることも、この仮説を補強してくれているように思えます。

▲「寄村から玄倉川上流に通じる峠径」(仮説)

まぁ、信頼に足る史料に当たれておらず現地にも足を運んでいないので、ここに記したことは所詮思考実験の域を出ません。丹沢にあまた存在するその他の「乗越」の用例と整合していない[11]ことも、断定をためらわせる要素です。ただし、この仮説の当否はさておきひとつだけ確からしいと思えることは、これらの径路は荷を積んだ馬が通う仕事道だった[8]ので可能な限りアップダウンを避け等高線に沿う形で付けられていたはずであり、このことが旧径路探しのヒントになりそうだということです。


その後の現地訪問の結果、「鉄砲沢乗越」の道の付き方については異なる見通しを持つようになりました。(2023年1月12日追記)

尊仏岩

塔ノ岳にかつて尊仏岩という岩塔があったことを知ったのは、2014年3月に宿泊した尊仏山荘に掲示されていた写真によってでした。

歴史を遡れば塔ノ岳表尾根や丹沢の主脈は古くからの修験の道であり、この尊仏岩も行者によって見出されたものと思われます。よって、たとえば大山寺御師の登山記録『黒尊佛山方之事』(文化2年(1805年))には先尊佛嶽ハ奥ニテイタツテ足場モハルシガケ也此所ニ高サ弐丈五尺程之高キ岩有之也是ヲ黒尊佛申也とあり、また大山山麓の日向山伏の峰入りを記録する『峯中記略扣 常蓮坊』(文政6年(1823年))にも是ヨリ峰ニ登ルト塔ノ峰也此所ニ弥陀薬師ノ塔有大ル平地也富士山ハスグニ西ノ方也是ヨリ北ヱ行黒尊仏岩有と記されて修行者が立ち寄るポイントとされていたのですが、さらに『新編相模国風土記稿』(天保12年(1841年))の中に

塔ノ嶽 村東大住郡界ニアリ、此山ノ中腹ニ土俗黒尊佛ト唱フル大石アリ。高五丈八尺許其形座像ノ佛體ニ似タリ。故ニ此稱アリ。此山ヲ他郷ニテハ尊佛山ト唱フ。土民ノ説ニ、旱魃ノ時、登山シテ此石ニ祈請シ、雨ヲ乞ト云。又石上ニ生スル苔ヲ、土人御衣ト稱シ瘧疾ヲ煩フ者アレバ、是ヲ取テ煎シ用。必効驗アリ。

との記述があることから、尊仏岩は広く地域の人々からも雨乞いや熱病平癒に御利益ありと尊崇を集めていたことがわかります(雨乞いの方法としては他に尊佛岩の前で雨乞ひ唱文を數千遍唱え、それでも効き目がない場合には尊佛岩の下に在る雷穴を掻き亂すと忽ち雷鳴が轟きわたり慈雨を得るという口承も記録されています[5])。これらの記録に言う「黒尊佛」というのは、過去七仏の四番目である「倶(狗)留孫仏」が転訛したもの。調べてみるとこうした名前を持つ岩は主に西日本各地にあり、山中にそそり立つ岩にその名が与えられている場合が多いようです[12]

塔ノ岳への登路は各方面から通じており、菩提峠から表尾根を辿る東口、大倉から登る南口、玄倉から山神峠を越え玄倉川上流の沢筋を使って登る西口、さらに丹沢山側から縦走して来る道もあったそう[5]。毎年5月15日の祭礼の日には大倉尾根のあちこちで天下御免の賭場が開かれたとのことですが、大倉尾根から登ると金冷シの辺りから尾根の西側の斜面を横断して不動の水場に達し、そこでおそらく水垢離をしてから尊仏岩へ参拝するルートが設けられていたことが明治21年(1888年)測量二万図(岩のところに「孫佛」と書かれている)で見てとれます。

上掲『黒尊佛山方之事』の筆者も、大倉から大倉尾根を登りこの巻き道で尊仏岩に詣でてから不動尊のある不動ノ峰を経由し、蛭ヶ岳(薬師嶽)の山頂にあって尊仏岩と谷越しに向かい合っている薬師如来像にお参りをすると、往路を戻って今度は塔ノ岳山頂を踏んでから表尾根に入り烏尾山から大倉へとその日のうちに下っていました。当時の登山道の整備状況も考え合わせると、素晴らしい健脚であることがわかります。

近代登山の記録としては、外交官アーネスト・サトウの子息で植物学者・登山家の武田久吉が1905年9月に玄倉から、さらに1913年8月には札掛から塔ノ岳に登っており、それぞれ回想録のかたちで尊仏岩の印象を書き残しています。ところが、最初の登山の記録[13]では目の前に高さ三丈もあろうかと思われる黑尊佛が立つて居たとし、そして再登したときの記録[14]では高さは一丈許もあらうか、頂に小さな地藏佛を安置してあると説明しています(1丈=10尺≒3.03m)。斜面に立っている岩塔なので見る角度によって高さが違って見えるのは当然とはいえ、上掲『黒尊佛山方之事』でも弐丈五尺程としているところからすると『新編相模国風土記稿』の五丈八尺許(約18m)はさすがに誇張し過ぎだったように思えます。

ところで、塔ノ岳の山名はこの尊仏岩を「お塔」と呼んだことに因んだものと広く認識されていますが、その根拠になったと思われる記述が、本文中で尊仏岩にまつわる「里の古老の話」を引用した戦前の記事[5]の中にありました。以下、長くなりますが引用します。

此間、尊佛山と號する三廻部村の觀音院というお寺を訪づれました時に「お塔があるから、お塔ヶ岳テエ云ふズラー」という古老に會ひました。そこでよくお塔と云ふことに就いて訊ねて見ましたら、そのお塔と云ふのは大金澤へ轉げ落ちた孫佛岩のことでした。左様ですから孫佛岩即ち、お塔の存在といふことは山名起因上重大なことなのです。

このお塔と云ふことに就いて先輩に訊ねて見ましたら古來我が國には佛者の間に立岩をお塔と云つて五輪塔を表彰シンボルして尊稱した慣はしがございましたさうで、この例證は全國に澤山數へることが出來ますが、その最も顯著なものとして擧げれば靈山で名高い四國の石鎚山に天柱石と云はれるものは高さが五丈八尺と唱へられて一名お塔と稱されてをります。(寫眞を参照願ひたし)お塔とは卽ち立岩のことでありまして往昔塔ノ岳を靈山として拓いた佛者に依つて發見された立岩、所謂孫佛岩をお塔と敬稱されたのでせう。お塔のある山、つまり塔ノ岳の稱呼は孫佛岩があつて生じた山名であることは論を俟つまでもないんです。

このように自信満々の解説ですが、この説に対しては近年の研究者による異説[15]があり、それによれば江戸時代の修行者が尊仏岩を「塔」と呼んでいる記録は存在せず、実際には山頂に立っていた石塔(高壹尺五寸程之石トウ[4]弥陀薬師ノ塔[16])が山名の由来であろうということです。

それはそれとして、ここで着目したいのは山名の由来ではなく五丈八尺の部分です。塔ノ岳の尊仏岩が五丈八尺とされていたように石鎚山の天柱石も五丈八尺とされているのは、果たして偶然の一致なのでしょうか?試みに「五丈八尺」で検索してみたところ、西国修験道の一大拠点である九州の英彦山神宮の神事・柱松起こしにおいて奉幣殿前の齊庭に立てられる柱松の長さも「五丈八尺」とのこと[17]。こうなると、修験道の世界に何かそうした規格のようなものがあって尊仏岩は(実際の高さに関わりなく)それになぞらえられたのではないかとも思えてきますが、天柱石の高さについてはこれとは違う記述[18]もあるので、素人の詮索はここまでにとどめておいた方が良さそうです。

ともあれ、この尊仏岩は明治の末頃までは相州一円から武州にかけて信者を擁し篤く崇拝されていたそうですが、大正関東地震の余震である丹沢地震(1924年1月15日)によって大金沢に転落し姿を失ってしまったと言われています[19]。いずれ大金沢を遡行して尊仏岩の痕跡なりとも見つけられないものかと思ってはみるものの、同様の発想を持って大金沢に入った人はこれまでにも山ほどいたことでしょうから、収穫を得られる見込みは限りなくゼロに近そうです。

登拝路

冒頭に記したように、今回の山行は「寄の人々が尊仏岩に詣でた道筋を探ってみよう」と思って検討を始めたもので、その考察のスタートラインにあったのは『新・丹沢山ものがたり』(とよだ時)の「尊仏ノ土平」の項にある昔、塔ノ岳にあった尊仏岩の尊仏さんのお祭りには、いまの足柄上郡山北町玄倉や、寄集落からここを通り塔ノ岳に登っていったものという記述でした。玄倉からの道である山神径路は昨年歩いているので、今回は寄ルートの方を歩いてみようというわけです。

そこで手元にある古いガイドブックのルート図を見たところ、少なくとも1972年までは寄沢から寄コシバ沢を遡行して鍋割峠を越え、現在の旧鍋割峠を経てコシバ沢(越場沢)を沢通しに下り尊仏ノ土平に出る道が登山道とされていたことがわかりました。このときはこうした登山道は古くからの道がずっと変わらずに残されていたものなのだろうと思っていたので、上記の寄集落からここを通り塔ノ岳に登っていった人々もこのルートを採用していたのだろうと考えて、最初の山行プランではこの両コシバ沢を登り下りして尊仏ノ土平から塔ノ岳を目指すことにしていました。

▲『丹沢の山と谷』(山と溪谷社 1959年) / 『アルパインガイド 丹沢道志山塊・三ツ峠』(山と溪谷社 1972年)

ところが、念のため古い地形図を国土地理院から取り寄せて確認してみたところ、その最も古いものに記されている道は上記のルートとは異なっていました。

▲明治21年(1888年)測量二万図「塔嶽」〔部分〕(クリックすると拡大します)

この図のピンク線は地形図上に太い点線で示されている道で、寄側では寄コシバ沢に入らずにイイハシの大滝の手前から山腹を斜上して鍋割峠に出ていますし、旧鍋割峠からもコシバ沢には入らずに鍋割山北尾根を辿ってから尾根の西側のオガラ沢に下っています。また、塔ノ岳西尾根にはそもそも道が描かれていません。これはどうしたことか?

そこで山行プランを再考した結果、まず鍋割峠までの登路については、現在の地形図を見るとかつて道が付けられていた斜面に顕著なガレ(上図の黄色く着色した箇所)が二つ走っており十分な安全マージンを確保することが難しそうなので、素直に寄コシバ沢を使うことにしました。一方、鍋割峠から旧鍋割峠を経て鍋割山北尾根をオガラ沢出合へ下るルートは今でもそれなりに歩かれているようなので、こちらはそのまま採用することにします。

次に塔ノ岳への登路については、この方面からの登山記録として入手できる最も古い記事として、武田久吉が最初に塔ノ岳に登ったとき(1905年)の同行者・高野鷹藏が『山岳』に書いた詳細な記録[20]を参照しました。

これによると一行は玄倉で雇った気の利かない猟師を案内人に立て、山神峠を越え植物採取などしながらのんびり下って玄倉川上流に達し、もう時間が遅いから「鍋割り」の炭焼き小屋に泊まろうと渋る案内人を皆でさー行け、おい行かないかと強要して箒杉沢に入ると、十町(1kmほど)で右岸にワサビ田のある渓流(棚沢)を見てから岩から岩へと登る急傾斜(小金沢)をがんばり、標高千米突位の所迄來て渓流が登れなくなると左の方即ち此澤の右岸へとよぢ登って奮闘の末に不動の石像と破れ小屋がある場所(不動の清水)に登り着き、そこからひと登りで高さ三丈ばかりの大きな石、すなわち尊仏岩が立つ場所に午後5時45分に到着していました[21]

筆者の高野鷹藏はこの大金沢左岸尾根(上記の歩き方からすると「小金沢右岸尾根」と呼ぶ方が自然ですが、今は一般的に「大金沢左岸尾根」と呼ばれています)を足場は惡いし中々苦しい十町ばかりと表現していますが、それでも案内人は「鍋割り」ではなく左の箒杉沢をあえて選んでいますから、これが当時の玄倉から尊仏岩への賽路だったのでしょう。

▲昭和4年(1929年)測量二万五千図「大山」〔部分〕(クリックすると拡大します)

この大金沢左岸尾根を登る道は昭和4年(1929年)測量二万五千図「大山」には明記されており、上記『丹沢の山と谷』(1959年)の別のページにも描かれていましたから、昭和の前半においては現役の登路だったようです(一方、1972年版の『山と高原地図 丹沢』(昭文社)では既に点線ルートになっていました)。さらに近年の記録でもここを「塔ノ岳古道」「大金歩道」等と称して歩いているものがいくつかあったので、今回の山行でもこの道を採用することにしました。

これらの断片的な情報をつなぐと、玄倉川上流から塔ノ岳へのかつての登路は箒杉沢〜大金沢左岸尾根ルートで、その後に鍋割沢側から塔ノ岳西尾根に取り付く道が拓かれ、やがて大金沢左岸尾根ルートは廃道になった(それに伴い「尊仏ノ土平」も移った?)というヒストリーが推定できそうですが、しかし本当のところはわかりません。一般論で言っても山の地形はその時々によって変わり道も付け替えられるものですし、ことに丹沢の場合は、これまで繰り返し述べているように大正関東地震及び丹沢地震の影響を大きく受けていますから、上掲の各種地図・地形図に書かれた登山道は「その図が作られた時期にはこの道が主に使用されていた」ということを示すに過ぎないと考えるべきなのでしょう。鍋割峠から玄倉川上流への下降路にしても、地図に書かれていないからと言って他の時代に使われた道が使われていなかったとは限らず、むしろ調べるにつれこの辺りの山域は縦横に歩かれていたらしいことがわかってきました。ましてやオガラ沢ブッコシの例のように、たかだか100年前のことであっても現在の地名や地形から往時を推測することは難しいものです。今回の山行は、山道の歴史を掘り起こすには丹念な文献渉猟が必要であるということを再認識させられる機会となりました。

……と、ここまでくだくだ書いてきてこう言うのもなんですが、寄から尊仏岩を目指すのであれば、鍋割峠からわざわざ玄倉川上流へ下らなくてもそのまま鍋割山を越えて塔ノ岳に向かう[22]か、あるいは寄集落の人々が萱取りに使ったという南山稜側の道を登って鍋割山(別名「三ノ萱」)に達し、塔ノ岳を目指す方がはるかに楽のように思えます。その辺りのことも実感したくて下山には簡便な大倉尾根下降ではなく鍋割山経由のこのルートを使ってみたのですが、後沢乗越あたりの痩せ尾根とアップダウンが気になったものの、これも後沢出合から一ノ萱へと比較的広めな等高線間隔で通じる後沢右岸尾根を登下降に使っていたのであれば回避できそう。それでもあえて尊仏ノ土平を経由しなければならない事情があったのか、あるいは下山だけに鍋割山南山稜を用いて回峰ルートにしたかったのか?この辺りのことをご存知の方がいれば、教えていただきたいものです。

脚注

  1. ^坂本光雄「丹澤玄倉川と周圍の山々」『山と溪谷』第28号(山と溪谷社 1934年11月)p.67-75。この中に本脈は南へ延びて、一五〇二・八米の茅戸カヤトの頭附近が龍ヶ馬場、次の長楕圓形の頭が、日高ヒダカ又は、土平ドダヒラ頭と稱される、現在まで無名とされてゐたとの記述がある(無名とされてゐたの意味不明)。
  2. ^奥野幸道「丹沢の古道をたずねて」『足柄乃文化』第22号(山北町地方史研究会 1995年3月)p.12-22(ただし本稿の初出は『丹沢だより』第200号(丹沢自然保護協会 1986年7月)である模様)。この中に思いがけず「鈴木正信君」の遭難碑があった。誤ってこの道を下り沢に出る辺りで道がないものでもどる途中の疲労死とか。冥福を祈りつつ茶をわかして一休との記述がある。筆者は1905年に武田久吉が辿った道を追体験すべくこの尾根を登っている途中で遭難碑に出会っている。
  3. ^ab奥野幸道『丹沢今昔』(有隣堂 2004年)p.12-13
  4. ^ab黒尊佛山方之事』(文化2年(1805年))(城川隆生『中世の丹沢山地 史料集』において2021年4月4日閲覧)
  5. ^abcd坂本光雄「丹澤・塔岳雜談」『山と溪谷』第40号(山と溪谷社 1936年11月)p.76-84
  6. ^2021年5月8日キャプチャ。その後「(オガラ沢ブッコシ)」を削除して修正。
  7. ^松本重男・鐡道省山岳部編「鍋割山・雨山・檜岳」『日本山岳案内』第一輯(博文館 1940年)p.111-120(このうち「鍋割山山稜槪念圖」はp.112)。本文中オガラ沢(本書では「オラガ澤」と誤記されている)の説明にも澤沿ひに鍋割山山稜に至る逕があると書かれている。
  8. ^ab戸澤英一・藤島敏男「丹沢山塊」『山岳』第13年第3號(日本山岳会 1919年10月)p.324-335。この中(p.328)に熊木といふ所は、玄倉村との交渉は極めて稀で、却つて寄村との關係が深く、製板所の駄馬は直接に毎日午後二時此處を出て、村へ薪炭を運ぶと云ふことであるとの記述がある。
  9. ^ab小木満「西丹沢拾い話」『足柄乃文化』第28号(山北町地方史研究会 2001年3月)p.75-88。本稿は丹沢自然保護協会会報『丹沢だより』第295-300号(1994年)に「ユウシン地名考あれこれ」と題して連載された論考をまとめて加筆したもの。
  10. ^村田孝次「寄澤を繞る山と峠」『山と高原』第32號(朋文堂 1941年12月)p.45-47。なお、上掲『日本山岳案内』にはこの鞍部への言及はない。
  11. ^たとえば上掲「寄澤を繞る山と峠」の地図では「後沢乗越」は鞍部そのものの名称として記されている。
  12. ^菊池武「山岳修験と巨石信仰-特に狗留孫仏を中心に」『山岳修験』9号(日本山岳修験学会 1992年1月)p.17-31。本稿は深山幽谷に屹立する巨大な立石(メンヒル)に「狗留孫仏(石)」と名付けて信仰の対象としている事例を九州2例、中国5例、近畿4例、愛媛・丹沢・出羽各1例の合計14例取り上げて、庶民信仰の様子や山岳修験(熊野信仰)の行場としての役割、曹洞宗が狗留孫仏信仰の伝播に寄与していることを論じている。
  13. ^武田久吉「四十年前の丹澤を語る」『山と溪谷』第143号(山と溪谷社 1951年4月)p.19-27
  14. ^武田久吉「丹澤山」『山岳』第8年第3號(日本山岳会 1913年12月)p.552-562
  15. ^城川隆生『丹沢・大山・相模の村里と山伏〜歴史資料を読みとく』(夢工房 2020年)p.117
  16. ^峯中記略扣 常蓮坊』(文政6年(1823年))(城川隆生『中世の丹沢山地 史料集』において2021年4月4日閲覧)
  17. ^添田町歴史的風致維持向上計画 第2章 添田町の維持向上すべき歴史的風致』(2021年3月改訂版)p.52 - 添田町ウェブサイト「添田町歴史的風致維持向上計画について」(2021年5月15日閲覧)
  18. ^半井忠見(碧梧庵)『愛媛面影』巻一(1869年)
  19. ^山岸猛男『丹沢 尊仏山荘物語』(山と溪谷社 1999年)p.66
  20. ^高野鷹藏「塔ヶ嶽」『山岳』第1年第1號(日本山岳会 1906年4月)p.58-78
  21. ^時間が押しているために尊仏岩の写真撮影や測量を諦めた一行は、塔ノ岳の山頂で暫時休憩してから案内人が持つ提灯の明かりを頼りに夜の大倉尾根を下る。午後10時を回った頃に麓の村に降り着き、その後、松田に向かう途中で案内人と別れた一行が停車場前の「富士見屋」に投宿したのは日付が変わった午前3時すぎ。この抱腹絶倒の山行記は最後に案内にも御苦勞を謝するとユーモアを湛えて締めくくられている。
  22. ^植木知司『かながわの峠』(神奈川新聞社 1999年)p.135(「鍋割峠」の項)にそのころ尊仏詣でには二つの道があった。一つは峠からコシッパ沢に下り、鍋割沢から塔ノ岳へ。もう一つが、峠から鍋割山を越えて塔ノ岳に登ったといわれるとの記述がある。

注:『山岳』のページは国立国会図書館オンラインでの表記に従い当該年次の通巻ページを示しています。