塾長の山行記録

塾長の山行記録

私=juqchoの登山の記録集。基本は癒し系バリエーション、四季を通じて。

三ヶ瀬古道

日程:2020/12/06

概要:相州から甲州へ通じる三ヶ瀬古道を歩く。細川橋から二本杉峠に達し、屏風岩山南西の山腹の道を渡って地蔵平。信玄平を経て城ヶ尾山に登り、畔ヶ丸から西丹沢ビジターセンターへ下る。

⏿ PCやタブレットなど、より広角(横幅768px以上)の画面で見ると、GPSログに基づく山行の軌跡がこの位置に表示されます。

山頂:城ヶ尾山 1199m / 畔ヶ丸 1292m

同行:---

山行寸描

▲地蔵平の広場。かつてここに集落があり森林鉄道が通じていた。(2020/12/06撮影)
▲城ヶ尾峠。ここから道志へ下りたかったが、バスの便の都合で断念。(2020/12/06撮影)

◎ネット上の記録で目立つ「さかせ古道」の表記は元を辿れば『新編相模国風土記稿』(天保12年(1841年))中の表記「サカセ古道」に由来するものと思いますが、同書が引用している『甲斐国志』(文化11年(1814年))における表記は「サガゼノ古道」であり、現代の三ヶ瀬の読みも「サガゼ」「サガセ」と揺らぎがあるものの「サカセ」ではありません。よって本稿では「さかせ古道」とせず、漢字表記の「三ヶ瀬古道」を用いることにしました。

この週末は、先週歩いた山神径路に続き丹沢の古道歩きの第2弾として三ヶ瀬古道を歩くことにしました。道志側の地名「三ヶ瀬」に由来するこの道は甲斐の道志と相模の中川川流域とをつなぎ、江戸時代末期において既に「古道」と呼ばれていたほど歴史の長いルートですが、この山行後に入手した1972年発行の山と溪谷社のガイドブックでは一般ルート「二本杉峠・城ガ尾峠越え」として紹介されており、その時点でも普通に歩かれていたようです。一方、近年の記録をネット上で検索してみると屏風岩山南尾根の西面を二本杉峠から地蔵平へと水平につなぐ廃道区間(のみ)を歩くことを目的としてここを目指す人が少なくないようでしたが、地蔵平からせめて甲相国境稜線上の城ヶ尾峠までは登らないと三ヶ瀬古道を歩いたことにはならないと考え、日の短いこの時期にしては少々長丁場のプランニングにしました。

2020/12/06

△08:25 細川橋 → △09:25-35 二本杉峠 → △11:30-12:05 地蔵平 → △13:15-20 信玄平 → △14:00 城ヶ尾山 → △14:05-15 城ヶ尾峠 → △15:05 モロクボ沢の頭 → △15:30 畔ヶ丸 → △16:55 西丹沢ビジターセンター

小田急線新松田駅前からバスに乗って、丹沢湖の北にある上ノ原地区のバス停・細川橋で下車。ここでバスを降りたのは私だけでした。

バス停から少し北へ進んだところに小さな標識があり、ここを左に折れて道を登るとすぐに大室生神社の鳥居が現れます。この鳥居の前を左に通り過ぎたところに登山道の標識が見えていますが、神社にお参りしてから尾根筋を登ることにしました。小広い神社の境内から右に上がって尾根通しに植林の中の道とも言えない道を登り、途中で左の沢筋から上がってくる道を合わせる頃から傾斜がきつくなって、山道らしくなってきました。

しかし登山道はすぐに尾根の右側をトラバースするようになり、ほとんど苦労することなく二本杉峠に辿り着くことができました。かつての二本杉峠はカヤトの斜面を登り詰めた開けたところで富士山の展望にも恵まれ、その名の通り2本の杉の木が立っていたそう[1]。今の二本杉峠は植林に覆われてひっそりとした小平地にベンチが二つあり、北には屏風岩山へ、南には権現山へそれぞれ通じる登山道が伸びています。地図には西の大又沢へ下る道も書かれているのですが、峠からそちらへ通じる踏み跡の入り口には「この先 登山道ではありません」と記された注意書きが木にくくりつけられていて、どうやらかつての登山道が使えなくなっているようでした。

二本杉峠から屏風岩山方向へ進むとすぐに出てくる鞍部(旧二本杉峠?)が、目指す地蔵平へ通じる水平歩道の入り口です〔後掲ルート図 (1)〕。

廃道になってはいても道の痕跡は明瞭ですが、やはり外傾している場所が多く、そして左の斜面はそこそこ急で高度感があるため、のっけから緊張します。

この部分は道の形がほとんどなくなっており、壁際に際どく踏み跡が続いています。足元を一歩一歩確かめながらここを通過すると……〔後掲ルート図 (2)〕。

すぐに出てくる沢筋では、トラロープをつかんで沢に降り、対岸もトラロープを目印に登ることになります。ロープはしっかりしているので、ここは腕力頼みで渡りました〔後掲ルート図 (3)〕。ちなみに古い地形図(私が見たのは昭和44年(1969年)測量二万五千図「中川」)を見たところ、屏風岩山への登山道は先ほどの鞍部から直進せずこの沢筋を渡った先の尾根を右上するように付けられていました。

次の沢筋では木の根をつかんで沢筋に下ってから対岸に渡ります〔後掲ルート図 (4)〕。ここは容易。

ここは派手に崩落していますが、斜面の上の方を高巻いて向こうに見えている沢筋に降りてから、対岸に乗り上がりました〔後掲ルート図 (5)〕。高巻き中は足を滑らせないよう慎重に。

沢筋と沢筋の間はおおむね歩きやすく、このように石組みがはっきりと残っているところも少なくありません。

ガレ沢を渡った先に苔むした丸木橋が出てきましたが、この橋は現役であったとしても渡るのを遠慮したいラフな構造です。もちろん沢筋の上流側に降りて巻きました。

もはやこれといった難所はなく、最後に堰堤の石積みが崩壊してぶちまけられている沢筋〔後掲ルート図 (6)〕を簡単に通過したら後は地蔵平に向けて下るだけ。

▲二本杉峠から地蔵平までのルート

このように、この水平歩道は地蔵平近くを除きほぼ等高線に沿って続いていて、廃道とされてはいても荒れている箇所は限られており、山神径路と比較するとまだ歩きやすい状態でした。

やがて左下に林道が見えてきて、これでこの日の最初のイベントは終了。次のイベントは地蔵平探訪です。

地蔵平は武田信玄の小田原攻めのルートのひとつ(永禄12年(1569年)11月の再侵攻時に使用[2])と言われる三ヶ瀬古道の中間点にあり、武田家滅亡後にこの地に落ち延びた雁丸氏が住みついて昭和にまで続いていたという話が伝えられています[3]が、ここに本格的な集落が成立したのは明治の終わり頃のこと。国有林事業の一環として各地から集められた人々が住むこととなった大又集落がそれです。1920年の豪雨災害や1923年の関東大震災で大きな被害を受けながらもこの集落はその都度復旧し、1934年には南の浅瀬からここまで世附森林鉄道大又沢線が伸びて材木や炭を盛んに産出したのですが、やがて林業の中心は水ノ木に移り、1960年に大又は廃村とされて1923年から続いた分教場も1934年に開通した森林鉄道も共に同年に廃止。1964年までに全戸が移転して大又集落はその歴史を閉じました[4]

なお、ネット上の記録には「地蔵平に200戸が住んでいた」としているものが少なくありませんが、その典拠と思われる『山北町史』の記述[5]大又沢流域の戸数は一時二〇〇戸を超えるほど増加したというであり、大又沢流域の集落は地蔵平だけではないことに注意を要します。

ともあれ、昨年の泙川小田倉沢〜津室沢の遡下行でも林業集落の痕跡をかすめて歩きましたが、こうした集落をつなぐ山道が日本の山々の中に縦横に分布していた歴史を知ると、山々を眺める目が変わってくるような気がします。

水平歩道が林道に降り着いたところから、まずは川側の林の中を注視しながら下流方向へ歩きます。

ありました、山ノ神。もっと小さな峠の祠のようなものを想像していたのですが、予想外に大きく立派です。しかも、鳥居にはまだ新しい紙垂が掛けられていました。

上流側に戻ってトタンの建物を目印に林の中に入ると、そこかしこに見事な石垣が残されていました。治山事務所などがあったところでしょうか。

石碑が二つ。向かって左は「遭難者精魂碑」とあって1920年の豪雨災害で亡くなった方々を慰霊するもの、右は「大震災殉難者精霊碑」とあり1923年の関東大震災の遭難者を慰霊するもの。この周囲にも石垣がたくさん残されています。ちなみに、古地図の中で「文」の字で示される学校(分教場)はこの慰霊碑の北側にあったようです。

森林鉄道に使われていたと思われるレールや、大きな釜のようなものも残されていました。

キリンビールのビンやトムとジェリーの女の子向けサンダルも。

地蔵平の名の由来となった地蔵堂。ただしこの場所に地蔵堂が建ったのは1955年で、それまでは上流のセギノ沢の山の手に祀られていたそう。この地蔵は子育地蔵で、安産に御利益があったと伝えられています[6]

お地蔵様が身に着けている涎掛けや、平成8年(1996年)の地蔵堂新築時の寄進者名を刻んだ石碑には、上述の雁丸さん(表記は「鴈丸」)の名前もありました。大又集落がなくなって何十年もたっても、この土地に縁のある人々がこの御堂を守り続けているようです。

▲大又集落跡の現在 / 1972年発行のガイドブックの図

地蔵堂にお参りしてから東沢を橋で渡ると、そこはだだっ広い広場になっていました。ここにはかつて集落の人々の家が立ち並んでいたのですが、このあっけらかんと広い空間にそうしたものの痕跡は見つけられそうにありません。ましてや、はるか昔にこの辺りに火山があった〔後述〕と言われても俄には信じられません。

それよりも驚いたのは先客がいたことです。話を聞いてみると、浅瀬の方に車を置いてここまで歩き、さらに北にある林道を端まで確かめてきたところとのこと。そういう探検の仕方もあるのか……となかば驚きつつ広場で行動食をとったら、向こうに見えている尾根に乗って城ヶ尾峠を目指します。

飛び石に失敗して靴下を濡らしながら渡渉を終え、目の前の斜面を上がるとすぐに登山道が見つかりました。しばらく上流方向にトラバースしていた道は途中で切り返して尾根の上に上がります。

尾根の上に出るとやがて西の方が開けて菰釣山が見え、さらにしばらく登ると東の方に畔ヶ丸が見えてきました。この間、尾根の傾斜は一貫して緩やかで、確かにこれなら武田の軍勢が行き来したというのもうなずけます。

やがて尾根が平らになったところが武田勢が陣を敷いたと伝わる信玄平。本当にここで野営したとしたらこの尾根の上から沢筋へ水を汲みに行くのは重労働だっただろうなと想像し、下っ端の侍に同情しました。なお、かつてはここから東へ等高線に沿ってぐるりと大滝峠上まで東海自然歩道奥野歩道が通じていたのですが、そこにあった看板の説明によればたびたびの出水により荒廃し危険なため平成4年(1992年)度から東海自然歩道は城ヶ尾峠〜大界木山〜モロクボ沢の頭〜畦ヶ丸〜大滝峠上にルート変更されたそう。どんなものかと見下ろしてみましたが、分岐からしばらく行った先の斜面が崩れて桟道が落ちており、あまり歩きたくない雰囲気を漂わせていました。

信玄平の上の1084m標高点を左から巻き上がる途中に苔蒸し傾いた桟道が出てきて、これをおっかなびっくり渡って1段上の尾根に乗り上がると道筋が尾根の左下へ続いています。このトラップにつかまって少し時間を空費しましたが、これは違うと気付いて強引に尾根上に回帰。するとその先で、城ヶ尾峠へ通じる登山道(といっても落ち葉に覆われて斜面に同化しています)が城ヶ尾山の山頂の手前を右へ巻いていました。しかし、そちらの道は途中で崩れそこそこ危険だという情報を仕入れていたので、尾根通しに城ヶ尾山へ向かいます。この選択は正解で、緩やかに上を目指す尾根上には明瞭な踏み跡があり、難なく城ヶ尾山のてっぺんに到達できました。

3年前の西丹沢周回のときに通過した城ヶ尾山、そして少し下ったところにある城ヶ尾峠。ここを再訪することになるとは、そのときは夢にも思っていませんでした。

そして、この峠が何百年も昔からの歴史を持っているというのも、3年前には想像もしていなかったことです。

菰釣山と畔ヶ丸との間の鞍部にある城ヶ尾峠は、加入道山の南にある白石峠と共に、かつては甲州と相州とを結ぶ交易路でした。ただし『新編相模国風土記稿』に見えるように「城ヶ尾じょうがお」は相模側の呼称で、「じょう」のつく地名は容易に人を近づけない悪場を意味し、峠から南に伸びる尾根(=いま登ってきた尾根)に「城ヶ尾」の名を記した古地図もあるとのこと。甲州側ではこの峠を、急斜面であることを示す方言「さがしい」からサガセ(三ヶ背・三ヶ瀬)峠と呼んでいたようです。『甲斐国志』には「サガゼ峠」とあって永禄中小田原ニ攻入ル時信玄此道ヲ通行シ山中ニ宿陣アリトナンと記されており、さらに遡れば南北朝時代、武蔵野合戦で鎌倉を一時占領したもののこれを維持できずに追われた新田義興らが、今の山北町にあった河村城での籠城戦を経てこの峠を越え甲州へ逃れたとも伝わります[7]

三ヶ瀬古道歩きを完遂するなら城ヶ尾峠から道志に下りたいところですが、事前に調べたところでは道志側のバスの便が極度に少なく、この日はやむなく西丹沢ビジターセンターへと向かうことにしています。峠でそそくさと行動食をとったら、直ちに下山を開始しました。

モロクボ沢の頭からひと頑張りで畦ヶ丸避難小屋に達すると、真新しい避難小屋の中には単独行らしい登山者の姿あり。実は自分も土曜日に城ヶ尾峠に登るならその日はここに泊まろうかと考えていたのですが、あいにく土曜日は雨だったのでこの日ワンデイでの忙しい行程にしたという経緯がありました。避難小屋は本来計画的な宿泊に使うべきではないと承知してはいるものの、それでもこうした小屋のおかげで行程にゆとりを与えてもらえるのはありがたいことです。

畦ヶ丸には2009年に下棚沢を遡行したときに登り着いていますが、もはやまったく記憶なし。ここで時計を見れば15時半ちょうどで、登山地図のコースタイム通りだと西丹沢ビジターセンターに着くのは17時45分になりますが、最終バスは18時58分、その1本前が17時05分なので、頑張って後者に間に合わせるためにここから飛ばすことにします。

善六のタワから登山道はひたすらの下りになりますが、安全のためにヘルメットをかぶった上で走れるところは走り、そうでないところもそれなりのスピードで足を運び続けた結果、どうにかヘッドランプを使うこともなく、17時前に西丹沢ビジターセンターに降り着くことができました。

「丹沢」「古道」で検索して「さかせ古道」を見つけたところからスタートしたこの山行でしたが、実際に歩いてみての素朴な疑問は、二本杉峠から地蔵平へ向かう水平歩道は果たして三ヶ瀬古道の一部だったのだろうか?ということでした。上述の通り、三ヶ瀬古道は軍道としても用いられた道であったとされていますから、兵員はもとより馬や輜重もそこを運ばれたはず。城ヶ尾山から地蔵平へ下る尾根筋はその穏やかな地形のおかげでここを武田軍が通ったと言われても信じることができるのですが、そこから先は大又沢沿いに南に下って途中から東へと二本杉峠を越えるのが素直な発想のように思えます。もっとも、沢沿いの道が歩きやすいとは限りませんから、これも当てずっぽうの域を出ません。

一方、大正〜昭和期において地蔵平に発展した大又集落と中川を結ぶ生活道路としてのこの道の存在は古い地形図などの史料上に明らかで、この道を辿って地蔵平に達し集落の遺構のいくつかを目にすることができたのは貴重な経験でした。自分は歴史の専門家ではありませんが、明治以降のことであればこのように史料を漁ることでそれなりの見通しを持った探訪山行ができるかもしれません。いずれクライミングから足を洗った後には、そうした人文系の山旅をのんびりと重ねていくのも悪くなさそうです。

廃道区間の変遷

上記のように、山行を終えた直後は地蔵平・二本杉峠間の廃道区間が三ヶ瀬古道の一部であることについて懐疑的だったのですが、試みに古い地形図を入手してみた結果、その考えは覆ることになりました。

上の地形図(クリックすると拡大します)は明治21年(1888年)測量二万図「中川村」の一部ですが、そこには地蔵平から二本杉峠に向かって山腹をトラバースする道がはっきりと記されていました。こうしてみると、少なくとも大又集落の成立(明治30年代)よりずっと前からこの道が甲相間をつなぐ道として利用されていたことはどうやら間違いがないようです。また、この道が三ヶ瀬古道の一部であることを疑った理由のひとつは二本杉峠の先の鞍部から始まるトラバースがあまりに際どかったからなのですが、この地形図を見ると道筋はそこを通っていません。この時代の地形図の精度をどこまで信じるかという問題は残りますが、考えてみれば時代によって道筋が変遷することは当然あり得ることなので、自分の懐疑は短慮だったかもしれないと反省したところです。

火山

地蔵平付近には、かつて火山があったと言われています。

周知のように、南部フォッサマグナはユーラシアプレート(またはアムールプレート)と北アメリカプレート(またはオホーツクプレート)という二つの大陸プレートの下にフィリピン海プレートと太平洋プレートという二つの海洋プレートが重なりあって沈み込むという世界的にも稀な地殻構造になっていますが、丹沢山地はフィリピン海プレートに乗って北上してきた海底火山等が600万年前頃に大陸プレートに付加して沈み込むことができず、その後フィリピン海プレートの沈み込み境界が山地の南に移動して取り残されたものです(→ 詳しくは〔こちら〕を参照)。

一説によれば、この丹沢山地では海底火山の近くで堆積した火山性地層を主体とする丹沢層の中に1000万年前に貫入したマグマが数百万年をかけて冷え固まり地殻深部で石英閃緑岩(丹沢の沢でよく見られる白い石)のドームを形成し、付加と南からの圧迫による高さ数kmにも及ぶ隆起と侵食作用が重なって現在の同心円状の地層配置(大きな饅頭を水平に輪切りにしたような分布)を地表に出現させたとされています。しかるに、地蔵平周辺で見つかっている火山由来の岩石(地蔵平迸入岩)はこの石英閃緑岩の岩盤を破壊して爆発的に噴火した火山の火道が残ったものであるので、その噴火の時期は今から200万年前より新しい時代ということになるのだそうです[8]

200万年前というのは、丹沢山地が既に現在の位置に存在し、後に伊豆半島となる陸塊が南からぶつかり始めている時期です。もしそのとき丹沢の稜線を縦走していれば(!)、地蔵平火山の爆発を目の当たりにできたのかもしれません。

脚注

  1. ^植木知司『かながわの峠』(神奈川新聞社 1999年)p.120-121
  2. ^山北町『山北町史通史編』(山北町 2006年)p.223
  3. ^中野敬次郎「まぼろしの村、地蔵平(上)」『かながわ風土記』第49号(丸井図書出版 1981年8月)p.74-78
  4. ^山北町『山北町史別編 民俗』(山北町 2001年)p.394-403
  5. ^同上 p.395
  6. ^同上 p.399
  7. ^植木知司『かながわの山山名をたずねて』(神奈川合同出版 1979年)p.180-181
  8. ^松田時彦・神奈川県立博物館編「丹沢山地の地質と生い立ち」『南の海からきた丹沢-プレートテクトニクスの不思議』(有隣堂 1991年)p.67-93(このうち「(4) 地蔵平火山」はp.86-88)。ただし現在では丹沢の白い石は石英閃緑岩ではなくトーナル岩とされ、しかも近年の年代測定により500~400万年前にできたことが判明したため、丹沢が本州に衝突してからできた岩体と解釈されている。

参考

  • 地蔵平の歴史に関して