鍋割山〔オガラ沢乗越跡探索③〕

日程:2023/01/11

概要:大倉から鍋割山に登り、旧鍋割峠を経て中ツ峠へ下り鉄砲沢下流側の径路跡を探索。その後、鉄砲沢右俣を遡行して茅ノ木棚山稜に達し、寄へ下山。

⏿ PCやタブレットなど、より広角(横幅768px以上)の画面で見ると、GPSログに基づく山行の軌跡がこの位置に表示されます。

山頂:鍋割山 1272m

同行:---

山行寸描

▲中ツ峠から鉄砲沢に下る。百聞は一見に如かずとはよく言ったもので、実際に現地を歩いてみるといろいろ気付きがあった。(2023/01/11撮影)

一昨年4月の鍋割峠越え以来、茅ノ木棚山稜北面(鍋割山の北西地域)は自分の中で気になるエリアとなっています。関心の中心はかつて玄倉川上流(熊木)から寄へと薪炭を馬の背に乗せて運んでいた仕事道「オガラ沢乗越」で、各種文献や地形図を元にその存在を研究してきたのですが、やはりリアルな地形を自分の目で確かめなければと初めて現地に足を運んだのが昨年12月のことでした。

▲大正11年(1922年)修正測量五万図「秦野」〔部分〕に書かれた径路と調査対象エリア。

大正11年(1922年)修正測量五万図「秦野」には、寄から雨山峠へ向かう道の途中で右に折れて茅ノ木棚山稜の西寄りで鞍部を越え(上図赤丸)、東に向かって等高線沿いに鉄砲沢源流域をぐるっと回り込んだ後に中ツ峠を越えてオガラ沢を下り(オレンジ丸)熊木に至る道(黄線)がはっきり記されており、まずはこれらの痕跡を見てみようと赤丸の場所に足を運んだのが前々回=昨年12月4日、オレンジ色の丸の中を見に行ったのが前回=同年12月9日でした。その結果、前者にも後者にも径路跡が残っていることは確認できたのですが、前者に関しては東に向かう水平方向の道筋が見出せず、後者も鉄砲沢上流方向には薄っすらした踏み跡が残っているだけ。これは考え方を変えなければならないかもしれないと思いつつ、今回は中ツ峠から鉄砲沢下流方向に続いている径路跡のその先を実見することにしました。

◎本稿では、前回の記事と同じく「オガラ沢乗越」を峠の名称ではなく径路の名称として使用しています。

2023/01/11

△07:25 大倉 → △09:15 後沢乗越 → △10:15-30 鍋割山 → △10:55-11:00 旧鍋割峠 → △12:00-10 中ツ峠 → △12:30-45 鉄砲沢二俣 → △13:10 無名沢ノ頭北の鞍部 → △13:20 無名沢ノ頭 → △13:30 無名沢ノ頭西の鞍部 → △13:40 雨山峠から下りてくる登山道 → △15:45 寄

本当は前日に尊仏山荘に泊まり、翌朝の御来光を塔ノ岳山頂で拝んでから鍋割山に向かうプランがリッチでゴージャスなのですが、諸般の事情からそうもいかず、この日の朝一番の電車とバスを乗り継いで大倉を目指しました。

冷たい空気の中をひたすら歩いて二俣に着く頃には多少暖かくなり、ここで上衣を1枚脱いでいると犬連れの2人の登山者がやってきました。お互いにこやかに挨拶を交わしたのですが、見れば犬はリードなし。自分自身は犬好きですしその犬はおとなしく賢そうな犬でしたが、それでもノーリードはルール違反なのでは?まぁ、そう思うのだったらその場で会話し確認すべきところですが、そこまで思い切れずに先に進んでしまいました。

後日調べたところ、少なくとも法律的には特別保護地区(丹沢であれば塔ノ岳から丹沢山・蛭ヶ岳を経て檜洞丸にかけての稜線周辺)はリード必須、それ以外は特に規制がない模様[1]。勉強になりました。

鍋割山のてっぺんから眺める富士山は今日も素晴らしい。ここで行動食をとり、ハーネスとショートスパッツを装着しました。

さらに登山道を離れる手前でヘルメットをかぶり、チェーンスパイクを履きストックを伸ばして旧鍋割峠へ向かう尾根に入りました。ところが、少し下ったところで背後に人の気配を感じ、振り返ってみると大きなリュックサックを背負った女性登山者が1人ついてきます。最初は私につられて道を間違えたのかと思ったのですが、悪場での足捌きが見事なのでこれは素人ではあるまいと旧鍋割峠に着いたところで待って声を掛けたところ、先方はこちらを追いかける形になったことを詫びた上で、尊仏ノ土平から塔ノ岳へ登り返すつもりだと説明してくれました。なるほど。

互いの安全登山を祈って彼女と別れたら、目の前のオガラ沢の頭に登ってすっかり薄れてしまった赤ペンキ(「←→ ユーシン 沢通 キケン」と読めました)を目印に左(北西方向)の尾根へ踏み込みました。

部分的に痩せ尾根になったりザレて滑りやすい斜面になるこのルートも前回逆方向から登っているので迷うことはないだろうとたかをくくっていましたが、1箇所こちら側から見て左に巻き降りるところはわかりにくく、迷って時間を費やすくらいならとロープを出して懸垂下降しました。

やがて中ツ峠のわずかに手前で、尾根が直進方向と左とに分かれる箇所に到着しました。ここは鉄砲沢左岸尾根を登ってきた「鍋割歩道」が鉄砲沢を渡ってこちらの右岸尾根へ乗り上がる場所として過去の林班図[2]に書かれている地点です。

この尾根を下っている記録を複数見ています〔参考〕が、いずれも下部では「本当にここに道があったのか?」と疑問を持った模様です。「○○歩道」とは言っても林班図に書かれているそれは、登山者用ではなく森林整備のための径路なので必ずしも容易な道ではないとは思いますが、それにしても丹沢登山のベテランたちが地形に違和感を持ったというのは不思議なことです。

やがて1カ月ぶりの中ツ峠に到着しました。ここでも軽く行動食をとってから、正面左側=鉄砲沢下流方向に向かって径路跡に踏み込みました(以下、冒頭に掲載した動画を適宜参照のこと)。

明瞭な径路跡はまず直進し、アセビの若木をかきわけてコーナーに差し掛かったら右折、ついで左折して谷筋の中を高度を下げていきます。この途中までは前回足を運んでいますが、今回は右方向(鉄砲沢右岸尾根の左斜面)に径路跡を探りながら鉄砲沢まで下りきる計画です。

谷筋に沿って短く直進したところで右手に斜面が広がり、そこにははっきりと踏み跡が続いています。このまま鉄砲沢に向かって谷筋を進むのか右に折れて斜面をトラバースするのか少し迷いましたが、今回は先人の踏み跡を信じて右に向かうことにしました。しかし、この斜面を横断する踏み跡はすぐに崩れやすい白ザレの斜面の微妙なトラバースとなり、これをもって径路跡とは言い難い感じです。

こうした厄介なトラバースを2ピッチ分続けて眼下に鉄砲沢二俣を見下ろすようになり、さらに先の斜面を見てそちらに径路跡発見の可能性が感じられないことを確認してから鉄砲沢へ下ろうと準備をしているとき、突然下から突き上げるようなズン!という鳴動があって周囲に小さな落石の音が響きました。後の報道によればこの日12時19分頃に神奈川県西部で最大震度3(M4.1)を記録する地震があったそうで、幸い最初に感じた一発だけでその後の揺れはなかったので助かりましたが、仮に地震が長く続いたり、あるいはトラバースの途中で身動きが不自由なときに揺れをくらっていたら厳しい局面に立たされていたかもしれません。

ともあれ斜面の途中の小尾根を少し下り、そこから沢床まで懸垂下降して安定した地面に足を着けることができてから見回してみても、どこからこの沢床へ降りるのが正解だったのかは判然としません。また、先ほどトラバースした鉄砲沢右岸の斜面の先を見やるとやはり下流に向かってずっときつい斜度が続いており、この斜面を横切るように径路がついていたとは考えにくそうだという気がしました。

降り立ったところからわずかに下流に進むと鉄砲沢の二俣になっており、その出合の台地上には先行する各種の記録に書かれていたとおり平らな広場がありました。とても広い平坦地であるだけにかえって人工の広場だとは思いにくいのですが、それでも既存の地形を径路として利用する中でこの平らな広場が生まれたとするのは無理のない考えですし、上述の鍋割歩道もここを通過しています。また、中ツ峠から鉄砲沢下流方向に向かっていた径路がもし鉄砲沢右岸尾根に沿って鉄砲沢出合を目指しているのではないのであれば、その径路は早めに沢床に降りてここを通っていたのかもしれません。ではその径路の向かう先はどこかと言えば、一つの可能性は鉄砲沢左岸の斜面を使って鉄砲沢下流、もう一つの可能性は鉄砲沢右俣を遡って前々回実地に確認した無名沢ノ頭北の鞍部(標高1000m)です。

まず二俣の広場の端から鉄砲沢下流方向を遠く見やってみると、沢筋は狭くその両岸は切り立った感じで、その途中に径路を設けるのは一筋縄ではいかなさそう。ただしここで可能性を切り捨てるのは早計なので、いずれ実際に鉄砲沢を遡行しながら流域の地形を検分しようと思います。

ついで鉄砲沢右俣に入りました。基本的にはガレ沢で、途中には凍りかけた小さい釜もありはするものの、斜度は緩くおおむね普通に(荷を背負った馬でも)歩いて遡行できそうです。

鉄砲沢右俣の途中にはこうした河岸段丘があり、ここも径路として用いられていたと言われればそうかもしれないと思われるものの、先日のオガラ沢側の探索時と同様にそれらしい証拠は得られません。

やがて驚くほど早く、行く手に無名沢ノ頭北の鞍部が見えてきました。あの鞍部と鉄砲沢二俣、そして中ツ峠が互いにこれほど近い距離にあるとは、実際に歩いて実感してみなければわからない事柄です。そして無名沢ノ頭北の鞍部に乗り上がる直前ではその鞍部から鉄砲沢に向かって下る径路跡も見ることができましたが、これは前々回の探索時には認識できていなかったものです。

無名沢ノ頭北の鞍部から無名沢ノ頭北西面の崩壊した斜面を眺め、ついでもう一度鉄砲沢方向を見下ろしてから、この日の探索を終えて無名沢ノ頭に登りました。

下山の道は前々回の登路の逆コースで無名沢ノ頭西の鞍部から緩やかな沢筋に入り、わずか10分の下りで雨山峠から下ってくる登山道に合流して、そのままスムーズに寄へと下ることができました。

今回の山行の目的は、中ツ峠から鉄砲沢下流方面に向かっている径路跡の行先を確認することでした。それというのも、本稿の冒頭でも言及した大正11年(1922年)修正測量五万図「秦野」では寄から上がってきた道が雨山峠の手前で分岐して茅ノ木棚山稜を越えたら東進し、ほぼ等高線に沿って鉄砲沢源流域をぐるっと迂回して中ツ峠に達していると記されているため、それならば中ツ峠から鉄砲沢下流方向に向かう径路跡(その存在は先行するいくつかの記録で見ていました)はそのまま鉄砲沢の出口まで通じているのではないかと考えていた(下図)のに、前々回、実際に無名沢ノ頭北の鞍部に立ってみると東へ水平方向に道がついていたようには見えない地形であり、また前回、中ツ峠にオガラ沢から登り着いて鉄砲沢上流方向を見てもオガラ沢方向や鉄砲沢下流方向の径路跡とは比較にならないほど径路の痕跡が希薄であったことから、自分で立てたこの仮説に疑問を生じていたためです。

▲「寄村から玄倉川上流に通じる峠径」(2021年に立てた仮説)

今回の山行での確認の結果は上述の通りで、径路跡の方向や現在の地形を突き合わせると、オガラ沢出合からオガラ沢に沿って上がってきた径路は中ツ峠を越えていったん鉄砲沢下流方向に下った後、二俣から鉄砲沢右俣に入って無名沢ノ頭北の鞍部を目指していたとするのが自然であるように思えます。

ここで想起されるのは吉田喜久治『丹澤記』の中の「オガラ沢打越」の解説[3]で、そこには次のように記されています。

みちは鍋割峠とほぼ同方向に走っている。くわしく説明すると、オガラ沢に入り、右股をつめ、テッポー沢界尾根を越え(九八〇メートルのタワ。こういうところを中っ峠という。名ではない普通名詞)、テッポー沢をよぎり、対岸下手のクボをつめ、無名沢界尾根を越し、ヒラをトラバース、さらに主尾根をまたいで雨山峠みちに合流するのである。

この記述を分解して今回の山行のGPSログに当てはめてみると、次のようになりました。

▲『丹澤記』の記述のGPSログへの当てはめ。

こうしてみると、鍵になりそうなテッポー沢をよぎり、対岸下手のクボをつめというくだりもぴたりと符号しています。しかし、それでは大正11年(1922年)修正測量五万図「秦野」に書かれた「等高線に沿って回り込む道筋」は誤りなのか?実は『丹澤記』の上記引用部分の前に昭和十六年頃は寄の炭やきが繁く通っていたのでみちが立っていたとあり、上記の描写はその頃の径路を念頭に置いていると考えられます。だとすると、大正11年時点では五万図にある通り鉄砲沢源流域を迂回していたこの径路が関東大地震(大正12年)によるあたり一帯の崩壊[4]により寸断され、その後、鉄砲沢二俣を経由するルートに付け替えられていたとしたなら矛盾がありません。

試みに地形図上の変遷を見てみると、確かに大正11年測量地形図と昭和4年測量地形図とでこのあたりの道の付き方が変わっていることは事実ですが、中ツ峠から鉄砲沢二俣にじかに下って鉄砲沢右俣を登り返す道(今回歩いたルート)が記された地図の類は今のところ見つけられていません[5]。このように確実な史料の裏付けがない中で上記のように推測に推測を重ねて現実との整合を図ろうとするのは御都合主義の謗りを免れませんし、これでは「鉄砲沢乗越」と呼ばれた鉄砲沢出合へ出る径路の道筋が不明なままです。どうやら、一連の山行で得られた知見を整理し、理にかなった結論を導き出すための調査方針を組み立て直す必要がありそうです。

脚注

  1. ^自然公園法(昭和32年法律第161号)第21条第3項第4号
  2. ^神奈川県森林計画区第2次国有林野施業実施計画図(平成14年度樹立)全4片の内第3片。ちなみにこの図面の中では鉄砲沢を「萱ノ木棚ノ沢」としているが、この点に関しては〔こちら〕を参照。
  3. ^吉田喜久治『丹澤記』(岳ヌプリ書房 1983年)p.155
  4. ^小木満「西丹沢拾い話」『足柄乃文化』第28号(山北町地方史研究会 2001年3月)p.82。大正12年9月1日正午ちかく、相模湾を震源とする巨大地震が南関東を襲って、丹沢全山を丸裸かにした。あらゆる山肌がすべり落ち、崩れ落ちた岩石は深い谷をつぎつぎに埋めていった。『富士山の右側に見えるあの山は、あんなに低いのにいつも雪をかぶって真白だと子供の頃に話し合っていたよ。』と千葉の一老人は昔の思い出を語っていたが、露出した岩が雪のように輝き、狭い山頂や稜線部だけがわずかに樹木を残していた。関東大震災の被害はそれほどにすさまじいものだった
  5. ^精度を度外視すれば『日本山岳案内』第一輯(1940年)に掲載されている「丹澤山山稜概念圖」に書かれた破線が、今回歩いたルートに近いかもしれない(特に鉄砲沢二俣あたり)。

参考