塔ノ岳〔オガラ沢乗越跡探索①〕

日程:2022/12/04-05

概要:寄から雨山峠へ向かう道を辿り無名沢ノ頭の西の鞍部に出てオガラ沢乗越の痕跡を確認した後、鍋割山経由塔ノ岳に達して1泊。翌日はコシバ沢を下りオガラ沢を登り返して中ツ峠へ上がる予定だったが、雨模様のため小丸尾根から大倉へ下山。

⏿ PCやタブレットなど、より広角(横幅768px以上)の画面で見ると、GPSログに基づく山行の軌跡がこの位置に表示されます。

山頂:鍋割山 1272m / 塔ノ岳 1491m

同行:---

山行寸描

▲無名沢ノ頭北西面のザレ。かつてはここを径路が横断していた。(2022/12/04撮影)
▲無名沢ノ頭北の尾根上の鞍部。径路跡がはっきり残っている。(2022/12/04撮影)

昨年4月に鍋割峠を横断した後、その記録を整理する過程でかつてオガラ沢乗越(オガラ沢ブッコシ)と呼ばれた径路のことを知り、その探求結果を自分なりの「思考実験」として山行記録に付記しました。その内容をかいつまんで説明すると次の通りです。

  • 雨山峠と鍋割峠の間にあって玄倉川上流地域と寄とを結んでいたと言われる「オガラ沢乗越」とは、峠の名前ではなく径路の名前である。
  • その径路は、大正11年(1922年)修正測量五万図「秦野」に書かれている、雨山峠手前から北上して茅ノ木棚山稜北面を通り中ツ峠を越えてオガラ沢を下る道そのものである。
▲大正11年(1922年)修正測量五万図「秦野」〔部分〕。

ただ、ここで「思考実験」としていたのは自分がオガラ沢乗越だと言っている径路の跡を自分の目で見ていなかったからなので、いつか機会を作って実際に径路跡を見てみようと考えていました。今回の山行は、この課題意識に基づき、まずは径路跡の存在が先人のブログ記事で確認できている無名沢ノ頭の北の尾根と鍋割山の北にある中ツ峠を訪れて、そこから径路探索の対象を広げる可能性があるかどうかを検討することを目的としたものです。

◎本稿では、上記の仮説に基づき「オガラ沢乗越」を峠の名称ではなく径路の名称として使用しています。

2022/12/04

△10:10 寄 → △12:40-55 無名沢ノ頭西の鞍部 → △13:20-35 無名沢ノ頭北の鞍部 → △14:35-40 鍋割山 → △15:45 塔ノ岳(尊仏山荘)

今回の山行の目的を果たすだけなら頑張れば日帰りでも行けそうですが、つい2日前に八ヶ岳に行ってきたばかりなのでせわしない山行にはしたくなかったことから尊仏山荘泊まりの1泊2日行程を組み、少しゆっくりめの出発にしました。天気予報では初日は晴れ、2日目は下り坂です。

寄のバス停から出発。今回の探索はこの地と玄倉川上流地域とを結ぶ径路の探訪であり、この山の眺めも途中の馬頭観音も、かつてその径路を辿った人々が親しんだものだろうと思います。

懐かしい寄コシバ沢は鍋割峠への登路で、昨年4月はもちろんここから沢筋を登ったのですが、今回はここをスルーして雨山峠へと向かいます。登山道はここから左の寄沢に対してかなり高いところをトラバースするようになりますが、外傾した箇所には鎖が設置されているなどおおむねよく整備されています。ところが、この道が沢筋に向かって降りていく手前のまだ高度があるところで下の方から人の声がすると思ったら、眼下の沢を下流に向かって歩いていく男女の登山者の姿が目に入りました。向こうもこちらに気付いた様子だったので「登山道はこっちですよ」と声を掛けると、この先(上流側)で橋が落ちていたので巻いているところだという返事が返ってきました。しかし、ここから先で登山道が沢筋に近づく場所は先ほどの寄コシバ沢までなく、そこまでの間に下れない滝に行く手を阻まれる可能性がなきにしもあらずです。

そこで斜面を上がってきた男性と一緒にくだんの「落ちている橋」まで行ってみると、確かに橋が斜めに落ちているもののそこにはしっかりしたロープが設置されていて、これを慎重に使えば上り下り可能です。私がロープを使って下った後に沢筋を戻ってきた女性もこのロープを使って登山道に戻れてひと安心。実は寄から雨山峠までの道は「通行止」とされていて、それは玄倉林道が閉鎖されているための措置だとばかり思っていたのですが、この道自体にも危険箇所があったというわけです。

二人と別れてさらに進み寄沢と枝沢とを分つ尾根を一つまたぎ越すと、なぜか五色のタルチョに迎えられて寄沢に降り立ちました。かすかに水が流れている沢底の岩は滑りやすいものですが、登りであれば何ら不安なく上流に進むことができます。

雨山峠手前の最後の二俣が、雨山峠径路とオガラ沢乗越との分岐点。オガラ沢乗越はここから右に進み、茅ノ木棚山稜上の無名沢ノ頭の西の鞍部に出ています。そちらにはロープが張られて「←雨山峠0.1km|寄バス停6.5km→」と白ペンキで書かれた道標がぶら下がっており、現在は利用されていませんが、戦前のガイドブックには登山道として明記されています。

実際にこの沢筋を歩いてみると、多少荒れてはいるものの勾配は極めて緩やかである上にほぼまっすぐで歩きやすく、そのまま自然に無名沢ノ頭の西の鞍部へと導かれます。この鞍部は、上述の戦前のガイドのひとつでは「寄峠」と呼ばれているところでもあります。

その鞍部直前で沢筋は大きく右カーブを描いて傾斜の緩やかさを維持しており、その絶妙の造型には驚くばかり。ある程度は人の手も入っているものと思いますが、それにしても見事と言うほかありません。

そして沢筋の延長線が尾根をまたいだところには、ごくわずかの長さ(数メートル)ながら径路跡が残っていましたが、その先はあらかじめ予習してきた通りザレの急斜面に寸断されていました。かつてはこの斜面にしっかり土がついており、そこを径路が横断していたはずです。そして次に確認したいのは、このザレ斜面の向こう側に残っている径路跡です。

腹ごしらえをしてからヘルメット・ハーネス・チェーンスパイクの三種の神器を装着し、長い鎖が設置された登山道を登って途中の斜面をトラバース。GPSで確認しつつ進んで北に伸びる尾根筋に達したと思われるあたりから下り始めると、人か鹿かはわからないもののなんとなく踏み跡のようなものが斜めに下っていました。

これが無名沢ノ頭(実際はその西寄りのピーク)から北に伸びる尾根上の鞍部に残っている径路跡です。西の方に進んでみるとやはりザレの斜面に行く手を阻まれますが、木の間越しに先ほど確認した短い径路跡らしきものが見えており、タイミングよく鍋割山方向から熊鈴を鳴らしながらやって来た登山者がここに入りかけて引き返したのを遠目に見て、そこがくだんの径路跡であることを確認できました。

ここまでは予想通りだったのですが、問題は反対の東側です。冒頭に掲載した古い地形図が正しければ、径路はこの鞍部から等高線に沿ってほぼ水平に鉄砲沢源頭部を横断しているはずですが、実際に地形を目にすると真横へ道をつけるのは不自然で、むしろ鉄砲沢へ下る方が自然に思えてしまいます。とは言うものの、今いるこの鞍部の標高はほぼ1000mで中ツ峠の標高は950m強ですから、径路はこのわずか50m未満の標高差を(馬が薪炭を背負って歩ける程度に)緩やかに下りながら続いていたはずなので、鉄砲沢を下るにしてもあまり余裕はありません。もちろん、この辺りの侵食されやすい地質のために地形はこの100年ほどの間でも大きく変わっているはずですが、それにしてもこの鞍部から東で径路の手掛かりを見つけるのは容易ではなさそうだということは実感できました。

今回は径路探索の可能性を探るためのいわば下見のようなものなので、以上のことを確認できたら目的達成です。山稜上に戻って装備を解除し、遠くに塔ノ岳山頂の尊仏山荘の姿を認めたら、鍋割峠方向へ登山道を進みました。

途中から振り返ると、雨山峠の向こうに富士山の姿が見えています。寄沢沿いの道を歩いていた午前中は晴れて汗ばむほどに暑く長袖Tシャツ1枚の姿で歩いていたのですが、徐々に雲が広がってこの頃になると肌寒くなってきました。

懐かしの鍋割峠のセクシーポーズ(本当はたぶん違います)の馬頭観音様にご挨拶。

鍋割山を越えてブナの雰囲気がすてきな道を進み、小丸手前の後ろが開けたところで振り返ると富士山の上にフタをしたように雲が広がっており、その下の空はまだ15時前だというのに夕焼け色に染まっていました。

金冷シからのひと頑張りで、塔ノ岳に登頂。空が広い!もういい時刻になっているだけに山頂の人の姿はまばらで、そのことがますますあたりを広々と見せています。

GoProで撮影した塔ノ岳からの夕景色。これが撮りたかったことも、尊仏山荘泊まりにした理由の一つです。本当はもうあと30分早く撮り始めていたら、富士山の上を覆う雲の中から太陽が降りてきて一気に光が広がる様子をとらえることができたのですが、こればかりは巡り合わせですから仕方ありません。

この日の宿泊客は、年季もののガソリンストーブ(たぶんOptimus)を使う常連らしいベテラン1名と私を含む一般ピープル4名だけ。おかげで寝床は一部屋まるまるを与えられました。夕食はカレーとサラダですが、シンプル・イズ・ベスト。おいしくいただき、おかわりもしてしまいました。

食後に外に出てみると見事な夜景が東京方面に広がり、半世紀前なら「百万弗の夜景」などと賞賛されただろうと思いながらしばし見とれました。

2022/12/05

△07:05 塔ノ岳(尊仏山荘) → △07:45 小丸尾根分岐 → △09:30 二俣 → △10:35 大倉

5時半からの朝食の前にまだ真っ暗な屋外に出てみると、ヘッドランプの光を受けて霧の粒が飛んでいるのがわかりました。どうやら、思ったより早く天気が崩れてきているようです。

朝食のおでん(ご飯にふりかけと海苔がこれまた美味)をいただいて外がしっかり明るくなるのを待って出発しましたが、天気は相変わらず。この日は北側のコシバ沢を尊仏ノ土平に下り、オガラ沢を登り返して中ツ峠に達する予定でしたが、濡れること自体は我慢できるにしても廃道探索という目的に照らすと見通しがきかなくては困ります。

小丸あたりまで行ってその場の状況で考えようと思いつつ、親しみやすく寛げた尊仏山荘の小屋番さんに別れを告げて塔ノ岳から鍋割山方向へと下りましたが、小丸尾根分岐まで達しても天候に変更はなく、ここで今回の山行を打ち切ることを決断しました。

小丸尾根への下り口の看板には「遭難が多い」などと書かれていましたが、実際に下ってみるとよく整備されていて、問題になるようなところはありません。あの看板は何だったんだ?と思いつつ、途中の紅葉なども愛でながらのんびり下って大倉に着いた頃にパラパラと雨が降ってきました。幸い、折りよくバスが待ってくれていたので、そのまま車中の人となって渋沢駅に向かいました。

下の図の薄い黄色線が私が考えるオガラ沢乗越で、今回は赤丸の中の様子を確認することができましたが、2日目に予定していたオレンジ色の丸の中は持ち越しとなってしまいました。また、これら二つの丸の間の区間はいわばミッシングリンクですが、次回に中ツ峠周辺の径路の残り具合を見た上で、このミッシングリンクに踏み込むかどうかを考えたいと思っています。

▲大正11年(1922年)修正測量五万図「秦野」〔部分〕に書かれた径路と調査対象エリア。

なお、そのことに何か価値があるのかと問われれば、そんなものは特になく、これは単に自分の道楽のようなものだと答えるしかありません。

参考