塾長の山行記録

塾長の山行記録

私=juqchoの登山の記録集。基本は癒し系バリエーション、四季を通じて。

地蔵平〜富士見峠〜織戸峠〜水ノ木

日程:2021/04/11

概要:西丹沢のかつての林業集落跡である地蔵平と水ノ木を結ぶ廃道歩き。浅瀬入口から浅瀬橋を経て大又沢沿いの林道を北上し地蔵平へ。地蔵平から西の山中に入り、富士見峠と織戸峠を経て水ノ木へ抜けた後、世附川沿いの道を浅瀬へと下る。

⏿ PCやタブレットなど、より広角(横幅768px以上)の画面で見ると、GPSログに基づく山行の軌跡がこの位置に表示されます。

山頂:---

同行:---

山行寸描

▲富士見峠。ここからの富士山を見ようと思っていたのに、別のことに気を取られて見逃してしまった。(2021/04/11撮影)
▲織戸峠。いずれは菰釣山からこの峠を越えて南へと縦走してみたい。(2021/04/11撮影)

鍋割峠越え・尊仏岩跡に続く次の丹沢古道歩きとして狙いをつけたのは、昨年三ヶ瀬古道を歩いた後から検討を重ねていた富士見峠・織戸峠越え。この二つの峠は、菰釣山から南南東に伸びた尾根が大栂ピークで分岐して分かれた2本の尾根をそれぞれ跨ぎ越すポイントで、これらを越えて東西に続く古道はかつて西丹沢の二大林業センターであった大又(地蔵平)と水ノ木(馬印)をつないでいた道です。

このうち大又の歴史については三ヶ瀬古道の記事の中で触れた通りですが、水ノ木も大正時代に国有林の払下げを受けた事業者が製材所を作り、人を雇って製材・製炭を行なっていたところ。最盛期には二十数世帯が住み着き、分教場が置かれた時期もあったそうです[1]。これは興味津々と冬の間に各種文献を調べていたのですが、ようやく身体を動かせるようになったのでプランを実行に移すことにしました。

2021/04/11

△08:15 浅瀬入口 → △09:15 浅瀬橋 → △10:20 千鳥橋 → △10:50-11:10 地蔵平 → △13:10-15 富士見峠 → △14:10 上法行沢 → △14:30-35 織戸峠 → △16:15-20 水ノ木 → △17:30 浅瀬橋 → △18:20 浅瀬入口

始発の電車に乗って小田急線・新松戸駅から西丹沢ビジターセンター行きのバスに乗り、浅瀬入口で下車。ここでバスを降りたのは私1人でした(寂)。

長い落合トンネルを抜けると、彼方には富士山。さらに少し歩くと寺沢橋の手前に石碑が並んでいる一角がありました。石碑は左から順に「供養塔」「水神様」「世附百万遍念佛発祥地」「望郷之碑」。なるほど、この辺りは1978年の三保ダム竣工により丹沢湖が生まれるまで世附集落があった場所なので、水没した村を偲んでの「望郷」なのでしょう。また、世附百万遍念佛は南北朝期から継承されてきた山北町の念仏行事で、県の無形民俗文化財。向原に移転した能安寺で今でも毎年2月中旬に、巨大な滑車に取り付けた大数珠を回転させながら念仏を唱える独特の行法(「数珠投げ」)が見られるそうです[2]。世附集落がこの地にあったことは知識としては知っていましたが、実際にその故地に立ってみるとひとしおの感慨があります。

うららかな陽気の中、さらに西に進んで浅瀬橋を渡り、ここから右に曲がって大又沢沿いの道を北上します。本当は起点を浅瀬入口ではなく細川橋にして二本杉峠を越えて大又沢に入った方が時間短縮になりそうなのですが、帰りに水ノ木からかつての世附森林鉄道浅瀬金山線の跡を歩くことになるので、どうせなら行きも同・大又沢線の跡を歩いてみようと考えた結果のコースどりです。しかし、正直に言えばこの林道歩きは退屈で、歩き出してしばらくすると峠越えにしなかったことを後悔し始めてしまいました。

それでも潤いというのはどこかしらにあるもので、予想外に立派な大又沢ダムの上流側には大又ブルー(?)、千鳥橋の先から左前方を見上げると「大又のトトロ」。そのたびに写真を撮ることに夢中になるのでなかなか足が捗りません。

歩き始めて2時間半ほどで、懐かしい地蔵平に到着しました。まずは山の神に立ち寄って今日の安全を祈願し、ついで地蔵堂の前を通って広場へ。前回ここに来たのは昨年の12月上旬でしたから冬に向かっていささか物寂しい雰囲気が漂っていましたが、今日の地蔵平周辺は新緑が芽吹きつつある明るい景色です。ここでこの日初めてリュックサックを下ろし、出掛けにコンビニで買ってきた昼食をとりました。

ここから廃道探しが始まりますが、現行の地図に載っていない道を歩くのにもちろん徒手空拳というわけではありません。丹沢歩きの先達各位の山行記録はもとより、この道が現役の登山道だった頃の古いガイド(たとえば『アルパインガイド 丹沢道志山塊・三ツ峠』(山と溪谷社 1972年改訂版)や『山と高原地図 丹沢』(昭文社 1972年版))も入手して参照しましたが、自分の中で決め手としたのは国土地理院から取り寄せた昭和20年代の地形図「中川」「御正体山」でした。

上の図(クリックすると拡大します)は二つの地形図をつなぎ黄色とオレンジ色の線を加えたもので、黄色は三ヶ瀬古道の一部、オレンジ色が大又・水ノ木間の道ですが、今回の山行の主題である後者はどうやら現代の林班図に「上法行歩道」として掲載されている道とほぼ一致している模様。こうして特定したルートをiPhoneに覚えさせておけば相当程度忠実に過去の道筋を辿ることができるだろうというのが自分のもくろみですが、もちろんただでさえ崩れやすい丹沢のこと、一筋縄では行かないだろうとはあらかじめ覚悟しています。

休憩を終えて振り返ると、南西の方にこんもりとした尾根が見えています。あれがこれから向かう富士見峠へ通じる尾根筋で、そこへの第一歩は地蔵堂の前から西に向かっての大又沢の渡渉から始まります。水量は少なめですが、かと言って飛び石で足を濡らさずに渡るのは少々難しく、ここは覚悟を決めて水の中にじゃぶじゃぶと足を踏み入れて渡りました。

大又沢を渡り、さらに西から合わさるイデン沢を渡って南にある尾根の斜面にかすかな踏み跡を見つけて乗り上がると、わずかな高さを登ったところではっきりした径路跡にぶつかりました。試みにこの道を下り方向に少し辿ってみると道は尾根の右(北)側を上流方向へ下っていましたから、先ほど取り付いた斜面よりもイデン沢をもう少し遡ったところに旧径路の登り口があったようです。そして人が歩くだけなら不要と思われるこの径路の道幅は、この道が物資を運搬するための道でもあったことを示しています。もしかするとその担い手は、人ではなく馬だったかもしれません。

荒れた沢筋を渡る箇所もあり、ここから斜面を上がってしまおうかとも考えたのですが、上掲の地形図でルートを確認すると径路は向こう側にある尾根までトラバースするはず。しょうがないなと崩れやすい斜面を慎重に渡って沢筋の奥の斜面をよじ登ると、そこには中途半端に包帯を巻かれたミイラのような木々が林立するシュールな光景が待ち構えていました。

そうした恐ろしい植林地を抜けると、明るく開けた斜面に見事なミツマタの木。そして背後には二本杉峠とその右の権現山がはっきり見えています。

878mピークからは高低差がほとんどない穏やかな尾根歩きになりました。この尾根の南側には富士見林道が走っているのですが、旧径路は尾根の上から北斜面に通じていたので林道は使いません。やがて尾根の先に道型が北斜面へ通じている箇所が現れ、そちらに踏み込むとところどころにブロックを積んだ擁壁が現れましたが、おおむねそうしたところは道型が失われて斜面の際どいトラバースになっていました。

それでもトラバースを続けてきたものの、富士見峠を目の前にしたこの沢筋で行き詰まってしまいました。富士見峠はこの写真で見切れている右側にあるのですが、沢を挟んでこちら側の斜面にも向こう側の斜面にも道の痕跡が見当たりません。下の沢筋に降りれば林班図に言うところの富士見歩道に出て富士見峠へ登り返せることはわかっているのですが、ここは安全第一で巻き上がることにしました。

わずかのアルバイトで尾根上に出て、無事に富士見峠に到着。すんなり到着していればここから富士山を眺めていたことでしょうが、このときは先ほどの渡り切れなかった部分が峠側からではどうなっているのか確かめることに頭がいっぱいで、ただちに峠から右後ろに続いている径路に足を踏み入れました。

しばらく歩くと、こちら側もザレた法面が露出していてかなり微妙な感じ。踏み跡はあるものの、ロープで確保されていなければ踏み込もうという気にはなれません。残念に思いながらGPSの軌跡を見てみると、この途切れた区間はほんのわずかであったこともわかりました。

しかし、この前日にこの「途切れた区間」を通り抜けている記録がヤマレコに載っていました。丹沢バリエーションハイカー、恐るべし……。

富士見峠に戻ってわずかの間は富士見林道を歩きます。このまま林道を歩いてしまう方がもちろん楽なのですが、旧径路はこの林道よりも低い位置を通っていたので、深い沢筋をひとつやり過ごしてから左の斜面に下りました。

右上に林道が見えているくらいの低さに獣道程度の踏み跡が続き、その先の沢筋へ微妙なトラバースで下っていくと、今回見つけたいと思っていた探し物がありました。

それがこれ、刻み目のある岩と斜面ににょっきり生えている鉄の棒です。一説には桟道の跡ではないかと言われるものの、正直に言えば見た限りでは私にはその正体が何であるかわからないのですが、少なくともここから先へ進めば径路が出てくることは間違いないので、これを見つけて「本線に乗れた」と安堵しました。

鉄の棒からすぐの斜面は踏み跡が薄く続いているだけですが、わずかの距離をトラバースすると植林の中に立派な径路が復活します。

もちろん現役の道ではないので、倒木に覆われていたり道型が崩れていたり鹿網が塞いでいたりしますが、歩行には支障ありませんでした。

最後は気分の良い山道歩きで上法行沢に出ました。ここは明るく開けた桃源郷のようなところ……と言うのはちょっと褒め過ぎですが、せせらぎの音と日当たりの良さを楽しみながら弁当を広げたくなる雰囲気でした。

対岸の赤テープにありがたく導かれての登り返しは、これも明瞭な径路跡から。ただし、この「径路跡」については実はちょっとしたいわくがありました〔後述〕。

ところによって薄い踏み跡のトラバースになるのはこれまで通りなので、もはや驚きません。

天然林に囲まれた慎ましやかな雰囲気が好ましい織戸峠に到着。地面には「界六」と読める境界標石が浮き上がり、近くの木には「織戸峠」と書かれた手製の木札が2枚ぶら下がっています。ここで地蔵平を発ってから初めてリュックサックを下ろし、行動食を口にしました。この峠は菰釣山から大栂を越えて南進する尾根の上にあり、そのまま南に進めば椿丸に達し、さらに西へ向かうと山神峠に出られます。玄倉の山神峠は昨年歩いていますが、こちらの山神峠にもいずれは菰釣山から尾根通しで行ってみたいものです。

織戸峠からの下りも一筋縄ではありませんでした。まずは峠から左に続くはっきりした径路を辿ったのですが、しばらく渡った先で道が消えており、仕方なく少し戻って顕著な尾根を確信のないままに下ってみました。

すると径路が左から右へと尾根をまたぐ場所に降り付き、尾根を下って正解だったかと喜びながらこの径路を下ったのですが、またまたザレた斜面の際どいトラバース。ロープが欲しくなるほどではありませんが、それでもここは一歩一歩慎重に。

無事に織戸沢に降り立って見上げると、トラバースした斜面はこんな感じです。

織戸沢の中は大きな段差がなくておおむね歩きやすく、やがていくつかの支流を集めて川幅が広がったところで左岸に旧径路らしき平坦な地形が見られ、さらに進むと右岸に林道が通っている場所に出ました。ここが最後の思案のしどころで、事前の地形図の精査では旧径路は今の林道より低いところを通っていたのだろうと考えていたのですが、この辺りから下流に向かう右岸の斜面はそこそこ傾斜があり径路探索には時間がかかりそう。しかるにこの時点で15時半近くになっており、最終バス(浅瀬入口19時18分)のことを考えるともう試行錯誤はできない状況です。

よって、ここは泣く泣く林道に乗り上がり時間を稼ぐことにしました。道すがらも左下の斜面が気になって仕方なく、見下ろすたびに「あぁ、あの平坦な地形は間違いなく旧径路だな」とがっかりしたり「それにしてもこのガレ場を渡るのは厳しいだろう」と胸をなで下ろしたりと一喜一憂。そうこうするうちに水ノ木に通じる尾根に達し、ここで林道を離れて尾根の左斜面を下っていきました。

予想した通り、この尾根の途中に左から十分な幅のある径路が入ってきており、この道を下ると織戸沢が水ノ木沢に合流する地点に出ることができました。穏やかな流れの水ノ木沢も靴を水に浸からせて渡り、ひと登りしたところが水ノ木で、ここがこの日の山行の事実上のゴールです。

冒頭に記したように水ノ木にもかつては林業集落があったと聞いているので、とりあえず目の前の階段を登って台地上の広場に出てみましたが、時間が押しているためざっと見渡しただけで踵を返すしかありませんでした。それに、実際には水ノ木といってもピンポイントでこの辺りに集落が存在したわけではなく、世附川の左岸や上流に人々の営みが広く分布していたようですから、その跡を探そうとすればそれだけで大ごとになりそう。そうした仕事は専門家に委ねることにして、今日のところはおとなしく帰路に就くことにします。

水ノ木橋から浅瀬への道はかつての世附森林鉄道浅瀬金山線の跡。よって基本的に平坦な歩きやすい道が続いており、部分的に荒れているところもありはしましたが、それでも快調に飛ばすことができました。

落合トンネルの手前から振り返り見る富士山の図。結局、最終バスの時刻まで十分なゆとりを残して浅瀬入口に帰り着くことができたのですが、ここでバスが来るのをじっと待つ暗く冷え込んだ1時間がこの日一番つらい時間でした。

最後に織戸沢沿いの林道を使わざるを得なかったことが残念でしたが、この手の山歩きにおいて一発で満点の結果を出そうというのは土台無理な話なのかもしれません。今回は、曲がりなりにも地蔵平から水ノ木まで歩き通せたことをもって、目標は達成できたということにしておこうと思います。

ちなみに、地蔵平から水ノ木までにかかった時間(富士見峠での径路確認と織戸峠での休憩を除く)を1972年版の『山と高原地図』に記されているコースタイムと比較すると、おおよそこんな感じでした。

区間 コースタイム 今回の実時間
地蔵平→富士見峠 60分 120分
富士見峠→織戸峠 30分 75分
織戸峠→水ノ木 40分 100分

ルートファインディングや悪場での逡巡などもあってやはり相当に時間がかかりましたが、初見としてはこんなものでしょうか。いや、ちょっとかかり過ぎかな?同ルートをもう一度歩けばそこそこ時間短縮できそうではありますが、その代わり水ノ木手前の林道区間で今回諦めた旧径路を探しながら歩いたらもっとかかりそうでもあります。

さて、昨年の山神径路に始まり三ヶ瀬古道鍋割峠越え・尊仏岩跡、そして今回と丹沢の古道・廃道歩きが続きましたが、それなりの満足は得られたのでこの路線はこれで一段落です。次に取り上げるとすれば大山・東丹沢の修験にまつわる行者道だろうと思いますが、なにしろそのエリアは「ヒルの楽園」なので、取り組むにしても次の冬。よって、これからの季節は自分にとっての本来の路線である「癒し系バリエーション」に回帰したいと考えています。

COVID-19の影響で行動制限が課されなければ、ですが……。

織戸峠

この記録を整理する過程で、上法行沢から織戸峠に上がる道について気が付いたことがありました。

この古色蒼然とした図は今回の山行にあたって主に参照した昭和29年(1954年)測量二万五千図「御正体山」のうち織戸峠周辺の抜粋で、そこに記されている径路(以下「旧径路」)に着色して参照しやすいようにしたものです。織戸峠の前後を歩いているときは道型が比較的明瞭だったのでこの地形図を参照することなく歩き続けたのですが、帰宅してからGPSログをヤマレコに取り込んで最新の地形図上に表示させ検証してみたところ、上法行沢から織戸峠に登った際のルートがこの旧径路と一致していませんでした。

違いが明らかなのは織戸峠の近くから東北東に伸びる短い尾根の北側を通るか南側を通るかで、旧径路(オレンジ色)はこの尾根の北側の沢筋を通っているのに対し、GPSログが示す今回の歩行ルート(赤紫色)は南側の斜面。そしてこの南ルートは林班図に記載されている上法行歩道と一致しているので、少なくともこの区間に関しては上法行歩道は、かつて地蔵平と水ノ木の間を人が往来した昭和前半の仕事道と一致していないということになりそうです。あるいは旧径路が崩落等で通れなくなって1955年以降に道が付け替えられたのかもしれませんが、事前の検討ではここまでは気付けていませんでした。考えてみるとそもそも自分は「上法行歩道」なるものがいつ設定されたのかということも知らずに歩いていたわけで、これは迂闊なことでした。

ちなみに、現在西と東で泣き別れになっている富士見林道は今の織戸峠のやや北でつながる計画があったようです。もしこの計画が実現していたら、そこが「織戸峠」と呼ばれることになり(今の織戸峠は「旧織戸峠」と呼ばれるようになり?)周辺の雰囲気もがらっと変わっていたことでしょう。登山者目線では、織戸峠の静かな佇まいが今に残されたことは幸いだったと思わないわけにはいきません。

大又と水ノ木

地蔵平にあった大又集落と山を越えて西の水ノ木集落の関係については、『山北町史別編 民俗』(山北町 2001年)の「大又沢の消長」の中に次のように書かれています(p.402)。

昭和16年(1941)になると艦船用材としてのケヤキ伐採と木炭の生産に力が入れられ、事業が大又沢から水の木沢流域へ移された。それによって、水の木沢流域でも集落が形成される。昭和22年(1947)になると、事業地が一時大又沢流域へ戻るが、昭和25年(1950)には再び水の木沢を中心とした各支流へ事業地が移動する。事業の移動とともに人も移動し、水の木沢流域の集落が隆盛した。大又沢流域の集落は大きな変換期を迎えることになった。

例えば、大又に住んでいたA家の場合は、小学生と中学生の子どもがいたため、分教場のあった大又と中学校のあった大仏、そして仕事場である水の木と、生活が三ヶ所に分かれてしまうことになった。

また、同書の同じ章の中に山中湖畔の平野から(おそらく切通峠〜水ノ木〜織戸峠〜富士見峠を経由して)大又まで商人が鮒を新聞紙に包んで売りに来ていたという記述(p.397)もありますから、大又と水ノ木の間には日常的に人の往来があったようです。

なお、水ノ木は馬印とも呼ばれますが、その由来については次のように言われています[3]

水ノ木とは、はつきりしないが何か桂に似た濶葉喬木の異名であるやうだ。この名稱は元來は現在の水ノ木澤全體の名で、金山澤出合の製材所があつた所は水ノ木落合と呼ばれてゐた。それが單に水の木となり、場所が少し移つて地圖の水ノ木となつたものである。今の水ノ木は、明治の中頃、川に面して炭釜が八ツ並んでゐたところから八ツ釜と呼ばれその後上州の佐藤馬太郎と云ふ炭焼がはいつて、馬の印をつけた炭俵を出したので馬印ウマジルシと變つた。

ではその炭俵はどこへどのようにして運ばれていったのかと言えば、昭和初期までは山中湖畔の平野村から多くの人が農閑期の現金収入を求めて水ノ木に入り製材・製炭に従事し、荷を馬の背に載せて南に峠越えをして駿河小山へ運んでいたそうです。ところが大正関東地震の影響もあってこの仕事はやがてなくなり[4]、1938年以降は大又と同じく水ノ木にも浅瀬との間をつなぐ世附森林鉄道浅瀬金山線が走ってこれが物流の幹線になりました。

しかし、この浅瀬金山線も1962年度に廃線となり[5]、1966年までに構造物が撤去されて[6]、今回の山行の帰路に歩いた林道に変わっています。したがって、その気になって探せば今でも軌道の石積みやレール、さらにはスイッチバックの跡を見出すことが可能なのですが、今回はとにかく帰路を急いだためそうした遺構に目を配ることはできませんでした。

脚注

  1. ^山中湖村史編集委員会『山中湖村史』第三巻(山中湖村役場 1978年)p.769
  2. ^山北町『山北町史別編 民俗』(山北町 2001年)p.346-360
  3. ^淸水長輝「丹澤・菰釣山附近」『山と溪谷』第64号(山と溪谷社 1940年11月)p.114-117
  4. ^山中湖村史編集委員会『山中湖村史』第三巻(山中湖村役場 1978年)p.774
  5. ^東京営林局百年史編纂委員会編『東京営林局百年史』(林野弘済会東京支部 1988年)p.566 に昭和35年から大又沢線の自動車道への改良工事が始まった。浅瀬金山線も昭和36年に自動車道への切替工事が進められ、昭和37年度をもって、世附森林鉄道は終わりを告げたのであるとの記述がある。
  6. ^奥野幸道『丹沢今昔』(有隣堂 2004年)p.98

参考

  • 地蔵平及び水ノ木の歴史に関して
  • 富士見峠〜織戸峠間の径路に関して