鍋割山〔オガラ沢乗越跡探索④〕

日程:2024/01/16

概要:塔ノ岳から鍋割山へと下り、茅ノ木棚山稜北面の鉄砲沢右俣を下降して二俣周辺を探索。鉄砲沢右岸尾根上に登り返して、鍋割山から大倉へと下る。

⏿ PCやタブレットなど、より広角(横幅768px以上)の画面で見ると、GPSログに基づく山行の軌跡がこの位置に表示されます。

山頂:鍋割山 1272m

同行:---

山行寸描

▲二俣から見た鉄砲沢下流。(2024/01/16撮影)
▲二俣から見た鉄砲沢上流。(2024/01/16撮影)

◎「塔ノ岳〔大金沢から尊仏岩跡〕」からの続き。

2021年に行った「鍋割峠越え」の際に、この茅ノ木棚山稜北面にかつてあった径路(仕事道)のことを深掘りして調べたことがあります。手掛かりは、1994年に『丹沢だより』[1]に掲載された小木満氏の次の文章です。

寄村から玄倉川上流に通じる峠径は、鍋割峠と雨山峠の間にオガラ沢乗越と鉄砲沢乗越があって計四つ、それぞれの峠径の先に製板所や休泊所があって、これらの峠径が拓かれた所以を物語っている。この峠径は生産点と生活点を結ぶ径路であった。

この「○○乗越」は解釈が難しい名称で、その語感から鍋割峠と雨山峠の間にさらに二つ峠があったのだろうと考えて同定に取り組んだ記録も見られますが、文章をそのままに読めばこれは峠径の名前だということがわかります。雨山峠越えの径路は今も閉鎖されてはいるものの登山道として形を残していますが、残る三つはどのように付けられていたのかを探るべく、上記の山行の後に過去の地形図を取り寄せて眺めました。

古い地形図に描かれた径路の変遷を一つにまとめると、上の図(クリックすると拡大します)のようになります。このうち右端の線が昨日も歩いた鍋割峠越えの径路で、いわゆる旧鍋割峠からは最初は鍋割山北尾根を辿ってオガラ沢出合に下る線が描かれていたものが、後に鍋割沢流域へ通じる沢筋を下る道に変更されています。一方、寄から雨山峠を目指して高度を上げた後に雨山峠のわずか手前で右に折れて茅ノ木棚山稜を乗り越え、その北面にある鉄砲沢源流域をぐるっと回り込んで中ツ峠からオガラ沢出合へ下る道もある時期の地形図には描かれているのですが、この道は後に地形図から消えてしまいました。その原因は(おそらく)関東大地震およびその余震で尊仏岩を崩落させた丹沢地震による斜面の崩壊です。ところが2022年2月(1回目2回目)、2023年1月(3回目)と繰り返し現地に足を運んで中ツ峠周辺の様子を見てみたところ、オガラ沢出合を起点に寄を目指して中ツ峠へ上がってきた道は、実際には鉄砲沢の上流方向へ水平に向かうのではなく下流方向に向かって鉄砲沢に下り、二俣から右俣を緩やかに登って茅ノ木棚山稜へと達していました。そして、実はこのコース設定は吉田喜久治氏の著書『丹澤記』における「オガラ沢打越」の説明[2]と見事に合致しています。これはどう考えればいいのか?

それを探ろうと言うのがこの山行の目的ですが、探索の前提となる自分なりの仮説は、鉄砲沢右俣を使っている道は上記引用文に言う鉄砲沢乗越の一部で、もともとオガラ沢乗越は(南から北へ向かう場合)その上流で早くに分岐して等高線に沿って鉄砲沢上流を通って中ツ峠を目指していたのが地震によって使えなくなり、中ツ峠から鉄砲沢に下る道を新たに付けて鉄砲沢乗越につなげたのではないかというものです。この仮説に基づいて、鉄砲沢右俣を下りながらオガラ沢乗越の分岐の痕跡を探り(=A作戦)、二俣から鉄砲沢下流を覗くことで鉄砲沢乗越の痕跡を探り(=B作戦)、最後に巡視路である鍋割歩道が通っていた尾根上の途中で再びオガラ沢乗越の痕跡を探ろう(=C作戦)という計画を立てて鉄砲沢を目指しました。しかし……。

2024/01/16

△07:15 塔ノ岳(尊仏山荘) → △08:25 鍋割山 → △08:45 鍋割峠 → △09:15-35 無名沢ノ頭 → △09:50 無名沢ノ頭北の鞍部 → △10:40-55 鉄砲沢二俣 → △11:35-50 鉄砲沢右岸尾根上 → △12:20 旧鍋割峠 → △12:50-13:00 鍋割山 → △13:45 後沢乗越 → △15:30 大倉

前置きが長くなりましたが、この日の起点は前夜投宿した尊仏山荘です。19時頃に就寝し、その後何度か目を覚ますことはあったものの、たっぷり10時間ほども眠って頭すっきり。午前6時前からの朝食をとった後も、すぐに出発することはせず山頂で日の出のタイミングを待ちました。

この日は快晴ではあるものの東の地平線に雲の層があったために完全な日の出にはなりませんでしたが、それでも刻々と色合いを変える夜明けの空の美しさや雲の上端から姿を見せた太陽の輝きには魅了されました。もっともiPhoneを操作するためにグローブを脱いでいた両手は気温マイナス2桁の寒風の中で痛いほどに冷え切ってしまい、写真や動画を撮り終えたあとはダッシュで尊仏山荘に戻ってストーブに手をかざさなければなりませんでした。この日の出発をのんびりしていたのも、多少なりとも気温が上がってから行動を開始したかったからです。

7時を回ったところで身繕いを行い、小屋番のお二人に心からの御礼を申し上げてから出発。金冷シで大倉尾根を離れ、明るい尾根道を辿って鍋割山に着いた頃には太陽が十分な日照と温度とをあたりに供給していました。

鍋割山から西に進めば茅ノ木棚山稜で、その北面の複雑怪奇な地形は迷宮にたとえられることもありますが、実はこの山稜自体も一筋縄ではありません。

まずは鍋割山北尾根の分岐をスルーしてまっすぐ下ると昨日通過した鍋割峠で、登山の安全を神仏の加護に依存している私は峠に立つ馬頭観音にしっかり手を合わせました。そこから1108ピークを越えた先で丹沢の一般登山道の中では一二を争う(と思われる)厳しさを持つ急な鎖場の下降があり、ここを下りきったところから少し登ったピークには「茅ノ木棚沢ノ頭」の道標が立っています。

この「茅ノ木棚沢ノ頭」の道標の位置にまつわる百家争鳴については〔こちら〕で整理したことがありますが、私見を書くと本来の茅ノ木棚沢ノ頭は先ほど通過してきた1080ピークであり、この道標の立つ小ピークの西に隣接する小広い1050ピークが無名沢ノ頭であろうと認識しています。その当否はともかく、陽だまりのようになった1050ピークに着いたところでザックを下ろし、ヘルメット・ハーネスなどのバリエーション装備を身につけながらこれからの行動に備えてカロリーを補給しました。

私見無名沢ノ頭から北に向かって少々急な斜面を下ると尾根上の鞍部に明瞭な径路跡が残っており、ここから右下に向かって鉄砲沢右俣の沢筋が幅広く、かつ緩やかに下っています。昨日の鍋割峠と同じくこちらの斜面も雪が目立ちますが、やはり歩行に支障はありません。

尾根上の鞍部からは、どこかに右へ分岐できる地形がないかと目を凝らしながらの下りになります。その前に、尾根上の分岐から沢筋に入らずにただちに右へトラバースする可能性をかつては考えていましたが、2022年12月の探索で実際の地形を見てそれはなさそうだと感じ、さらに今回も茅ノ木棚山稜を鍋割山から無名沢ノ頭まで歩く途中で北斜面のきつさと稜線直下まで深く切れ込んでくる沢筋を見てその可能性を捨てていました。したがって残された可能性はこの沢筋の「途中」からの分岐ですが、右岸の斜面は意外に傾斜がきつく、しかもところどころに深く切れ込んだ沢筋が入ってきていてなかなかそれらしい場所に行き当たりません。そうこうする内に標高950mあたりで鉄砲沢右俣と左俣の界尾根の手前に突き当たる位置にまで降り着いてしまいました。そこに右から入ってくる沢筋を少し上がって界尾根を見上げてみたのですが……。

うーん、この見上げるばかりに切り立った尾根をここから越えるという選択肢はないな。かくして、この沢筋から右に分岐する道筋を見つけるA作戦は実現できそうにないという結論に至りました。

引き続き沢を下っていくと小さな釜が二つ出てきましたが、いずれも難なく回り込んでかわせます。そして右岸に現れた踏み跡を登るとそこが二俣の広場で、この先で鉄砲沢本流に降り立つことができました。

続いて鉄砲沢の下流を探るB作戦ですが、これもあっという間に頓挫しました。二俣からわずかに下流に下ると緩やかな小滝があり、これが沢登りのシーズンであれば何の苦労もなく降りたり登り返したりできる様相なのですが、今はスラブ状の岩に薄く広く氷がついていて、前爪のあるアイゼンでも履いているならまだしも、この日の自分の足回りではこの地形に太刀打ちできそうにありません。昨日の大金沢もところどころ凍っていたことからある程度の氷は予測していたのですが、まさかこんなに早く弾き返されることになるとは思ってもいませんでした。

仕方ない、かくなる上は潔く退却しようと鉄砲沢右岸尾根を目指すことにしました。冒頭に記したようにここには鍋割歩道の跡があるはずですが、ぱっと見ではそれらしい径路跡は認識できず、鉄砲沢左俣の上流方向に少し進んだところに降りてきているランペ状の地形から斜面に取り付きました。しかしこのランペは獣道だったらしく、斜面を一段上がったところからしばらくの間は崩れやすい急斜面をシビアなバランスでずり上がるアドレナリン登攀になってしまいました。

A作戦が未達に終わった時点でこちらの斜面に径路跡を探るC作戦も諦めてはいますが、それでもこうして「径路だと思えば径路に見える」地形が出てくると、ついその先を見たくなって寄り道をしてしまいます。現在登っている尾根道から左はすなわち中ツ峠の方向ですが、試みにそちらへ進んで行くと鉄砲沢から中ツ峠へ上がる沢筋に面した崖のような場所で行く手を遮られてしまい、やはりこの線はなさそう。人間が歩くだけならいかような地形でも何とか道を通せるものですが、オガラ沢乗越ほかの径路は荷を背負った馬が通れるほどに安定した地形でなければならないはずです。

最後は緩やかな斜面をのんびり歩いて鉄砲沢右岸尾根の上に達すると、上空には真っ青な空が広がっていました。ここは中ツ峠のわずかに鍋割山寄りの位置になりますが、中ツ峠と鍋割山との間は過去にも歩いているので、ここからの帰り道は自分にとっては限りなく安全地帯です。

鉄砲沢右岸尾根を淡々と歩き、これまた昨日通った旧鍋割峠を横目に見てから最後の斜面を登り詰めると登山道、そしてその先にあるのが鍋割山の山頂です。これで、この日の登りはほぼ終了です。

鍋割山荘前のベンチですべてのバリエーション装備を解除し、相模湾の広闊な展望に癒されてから下山にかかりました。そして最後の分岐点は後沢乗越で、この山行の目的が寄と玄倉川上流とを結ぶ径路の探索だった以上、山旅の起点と同じく終点も寄にすべきではないかという思いが一瞬よぎりましたが、寄に下ってもバスで運ばれる新松田駅前の焼肉「大松園」は昨年秋に営業を終了していますから、ここは当初の計画通り大倉に下って「手打そばさか間」のお酒と蕎麦とに下山後の潤いを求めた方がいいのではないかと考えて左に曲がりました。しかし……。

うきうき気分で大倉に着いてみると、そこで待っていたのは固く閉ざされた「さか間」の入口に貼り出された三月中旬までリニューアル工事の為休業させて頂きますとの告知でした。

この日の山行は純粋に山歩きとしては楽しいものでしたが、ABC全作戦が頓挫したことで混迷は深まるばかり。あらかじめ立てていた仮説が否定されたことを踏まえてもう一度情報を整理すると、過去の地形図に描かれたオガラ沢乗越のルートと現実の地形との折合いをつけられる解釈は次の二つになりそうです。

  1. 茅ノ木棚山稜北面の地形が地震による崩壊とその後の侵食によって根本的に変化したため、鉄砲沢上流を迂回する径路の跡を見つけることはできなくなっている。
  2. 過去の地形図に描かれた径路のつき方は間違っており、元からオガラ沢乗越は冒頭の図の赤線を辿っていた。

どちらもあり得る話ではあるものの安易に「地形図は間違っていた」と片付けたくない気もしますが、いずれを採るにしても、こと(径路の名称としての)オガラ沢乗越については現地探査によってこれ以上の成果を得ることは難しそうです。残る課題はオガラ沢乗越と共にこの山域に通じていたとされる鉄砲沢乗越のルート同定ですが、これは私が知る限りその実在を示す史料が一切存在しないことから、オガラ沢乗越以上の難題と言わざるを得ません。とはいえ一連の探索を通じて茅ノ木棚沢北面の地理的概念(鉄砲沢上流域に限りますが)を把握できたことは財産として生かしたいので、今後どこかのタイミングで「鉄砲沢右岸尾根↓左岸尾根↑」の周回と沢登りとしての「鉄砲沢遡行」の2本を実現した上で、この山域研究にピリオドを打ちたいと考えているところです。

脚注

  1. ^小木満「ユウシン地名考あれこれ」丹沢自然保護協会会報『丹沢だより』第295-300号(1994年)。後に加筆整理されて「西丹沢拾い話」『足柄乃文化』第28号(山北町地方史研究会 2001年3月)p.75-88。
  2. ^吉田喜久治『丹澤記』(岳ヌプリ書房 1983年)p.155