塔ノ岳〔大金沢から尊仏岩跡〕

日程:2024/01/15

概要:寄コシバ沢から鍋割峠・旧鍋割峠を経て玄倉川上流へ出た後、大金沢を遡行して尊仏岩跡を訪ねてから塔ノ岳に登頂し、尊仏山荘に宿泊。主眼は尊仏岩崩落百周年参詣。

⏿ PCやタブレットなど、より広角(横幅768px以上)の画面で見ると、GPSログに基づく山行の軌跡がこの位置に表示されます。

山頂:塔ノ岳 1491m

同行:---

山行寸描

▲鍋割峠を越えて、大金沢から尊仏岩へ崩落百周年参詣。(2024/01/15撮影)

塔ノ岳の尊仏岩[1]が崩落したのは、関東大地震の余震である丹沢地震(1924年1月15日)のときだと言われています[2]。したがって今年の1月15日は尊仏岩崩落からちょうど100年の節目の日となりますから、このタイミングで尊仏岩跡詣でをしようということはずいぶん前から決めていました。ただ、昨年も「黒尊佛山方之事」の行程を再現する山行の際に尊仏岩跡を訪れている以上、何か違ったルートで尊仏岩跡を訪ねることはできないかと検討した結果、尊仏岩が崩落したとされる大金沢を遡行して下からアプローチすることを思いつきました。いわば「尊仏岩裏参道」だなと一人で悦に入った(ただし歴史的にそうした登路があったわけではないのでこのネーミングを本記録のタイトルに用いることは却下した)ものの、調べてみると大金沢側から尊仏岩に達している記録はネット上にいくつも見つかります。そういう意味ではユニークさに乏しい山行になってしまったことに少しがっかりしたのですが、それでも百周年記念日に尊仏岩跡を訪ねることに意味があるのだと自分を納得させて当日を迎えました。

2024/01/15

△07:20 寄 → △09:15-45 釜場平 → △09:55 寄コシバ沢出合 → △10:45-50 鍋割峠 → △11:25 旧鍋割峠 → △12:25 鍋割沢 → △13:00-10 金沢出合 → △15:35-40 尊仏岩跡 → △15:50 塔ノ岳(尊仏山荘)

この日の計画は、寄を起点にコシバ沢から鍋割峠・旧鍋割峠を経て玄倉川上流へ出た後、大金沢を遡行して尊仏岩跡を訪ねてから塔ノ岳に登頂するというもの。そこそこの長丁場である上に宿泊を予定している尊仏山荘には16時までに入るようにと言われているのでできる限り早出をしたいのですが、自宅から公共交通機関を使って最も早く寄に着ける時刻は7時15分。寄のバス停に降り立ったのは私を含めて2人でしたが、彼の方はシダンゴ山方面に向かったために、雨山峠へ向かう道を歩き始めたのは私だけでした。

寄から雨山峠へ向かう道は何度も歩いているので、地図を見るまでもなく淡々と歩けます。この道はかつて玄倉側上流域との間で薪炭を背に乗せた馬が行き来した道でもあり、その茅ノ木棚山稜北側の径路の探索は近年の自分のテーマになっているのですが、この点については明日の記録の中で詳述します。

釜場平のベンチで大休止をとり、ここでヘルメットやハーネスを装着している内に単独の登山者が通過していきました。そしてこの後、塔ノ岳の山頂に着くまで人の姿を見ることはありませんでした。ともあれ、フル装備の状態になってさらに登山道を登り、コシバ沢に達したところで登山道を離れます。コシバ沢を使って鍋割峠へ上がる道は「危険」とされていますが、2021年に歩いたときと同じく沢筋の中も途中から取り付く右岸の斜面の道もおおむね安定しており、不安なく高度を上げることができました。

なお、私の手元にある『丹沢の山と谷』(山と溪谷社 1959年)はこの沢を鍋割コシッパ沢と呼び、『アルパインガイド 丹沢道志山塊・三ツ峠』(山と溪谷社 1972年改訂版)も鍋割越場ノ沢(乗越沢ともいう)と記しています。このネーミングは山稜の向こう側にある鍋割に通じる峠道、すなわち「鍋割への越場(コシッパ)」であることに由来するのだろうと思いますが、近年では北面のコシバ沢(鍋割沢の支流でもあります)を鍋割コシバ沢、南面のコシバ沢(こちらは寄沢の支流になります)を寄コシバ沢と区別して呼ぶことが一般的になってきているようです。

鍋割峠の馬頭観音にこの日の安全を祈願してから旧鍋割峠を目指して北面に入ると、予想通りこちら側は2日前に降った雪が残っていましたが、道型ははっきりしておりルートどりには困りません。かつてこのルートが現役であったときには水平にトラバースする道が付いていたはずですが、今では斜面の崩壊により道は寸断されており、旧鍋割峠に渡るためにはいったん斜面を下降して安定した位置で短くトラバースしてから旧鍋割峠に向かって登り返さなければなりません。この少々ややこしいコース自体は経験済みなのですが、履いているチェーンスパイクはもともと新雪に弱い(ダンゴになりやすい)上に落ち葉が雪と混じって靴底に付着してくるので、今までになく慎重な下降を強いられました。

トラバースできるところまで高度を下げてから旧鍋割峠方向へ水平移動し、適当なところで登り返し。その上で旧鍋割峠の下で山肌を削っているガレ沢を横断しなければなりません。前回ここを通ったときはこちら側からガレ沢へフィックスロープが垂れていることを知らずにそこよりずいぶん下の方からヒヤヒヤもののガレ登りを行ったのですが、今回は予習万全なので迷うことなくフィックスロープの位置に達することができました。

フィックスロープは旧鍋割峠の鞍部を真横に見る位置にあるしっかりした木の幹にセットされていましたが、安全管理の観点からは少なくとも下降に際しては自前のロープを使いたいもの。今回も持参した30mロープをセットしたところ、ガレ沢の対岸に垂れている登り返し用のフィックスロープまでは届かないもののガレ沢の底には十分届いており、これを懸垂下降して慎重な下降と水平移動の後にフィックスロープをつかみ、旧鍋割峠に登り着くことができました。

旧鍋割峠から目指す大金沢の本流である箒杉沢に入るためには、鍋割山北尾根を下るか鍋割側のコシバ沢を下るかのいずれかであり、どちらも経験済みなのですが、今回は鍋割山北尾根の末端にあるP942に立ち寄りたかったので前者を採用しました。なぜP942に立ち寄りたかったかというと、そこに馬頭観音?山の神?がおわすという話を以前どこかで読んだ記憶があり、この目で確かめたかったからです。しかし実際に足を運んで見ると、そこは植林に囲まれた中で箒杉沢側が開けた気持ちの良い場所ではあったものの、それらしい石仏も石碑も見当たらず、少々落胆しつつP942手前の鞍部に引き返すしかありませんでした。

後日調べてみると、奥多摩の大岳山の近くにある鍋割山の北尾根に山の神の祠があるという記録が見つかったので、もしかするとこの鍋割山と丹沢の鍋割山とを混同していたのかもしれません。

P942手前の鞍部から鍋割沢側に降りる明瞭な仕事道を下り、下流へ少し移動して箒杉沢に入ればそこから大金沢・小金沢の出合(本稿では「金沢出合」と表記します)まではやはり2021年に歩いています。金沢出合を目の前にする場所で小休止をとって行動食を口に入れてから、箒杉沢の細い水流を飛び石で渡って金沢に入りました。

最初の堰堤を左(右岸)から簡単に越えて、すぐに左に曲がる沢筋=大金沢の堰堤は驚くほどの大きさ・高さがありますが、その右(左岸)の尾根に取り付いて少し登ると前回小金沢側からこの尾根に登ったときにも見たプラスチックケースの群があり、そこから左にトラバースすればぴったり堰堤の上に出られます。

大金沢の中はやはりうっすらと雪に覆われていますが、歩行には支障のないレベル。最初の二俣を右に入って少し進むと出てくるF1は直登不可能なので左から巻きにかかりましたが、雪で状態がわからないために斜面のトラバースを避けてしっかり尾根の上に出て高さを稼いだところ、いつの間にかずいぶん追い上げられてしまっていました。見通しがきくところから沢の中を見下ろしてみると想像以上に谷が深く切れ込んでいて、このままでは沢筋に回帰することができなくなると気づいて尾根を下り、適当なところからクライムダウンしてF1の上に戻りました。

F1を過ぎた後にもいくつかの小滝が出てきますが、容易に直登できるものや巻けるものばかり。さすがに凍りついている滝もありますが、防寒テムレスのおかげで難なく遡行を続けられます。

二俣が出てくればすべて右を選んで登り続け、標高1200mで水涸れを迎えた先に門のような段差が現れました。ここもそのまま沢を詰めようと思えば右からさほど困らずに小さく巻き上がることができそうでしたが、地形図上にプロットしてある尊仏岩跡の位置を考えるとそろそろ左(右岸)の尾根に乗るべき頃合いです。

上記の門の手前に都合よく左の尾根へ通じるルンゼがあったので、不安定な足元をだましながらこれを詰めて草付きとまばらな林に覆われた尾根上に乗り上がりました。この尾根の右下には先ほどの「門」の上流が比較的近いところに見えており、どうやら門を巻き上がって引き続き沢筋を登っても支障はなかったようです。しかも……。

あの大きな岩塊はなんだ?1905年の武田久吉一行の尊仏岩訪問の記録[3]によれば、尊仏岩は高さ三丈ばかりの大きな石だったそうですが、三丈=約10mはないまでもこれだけ立派な岩がぽつんとあるのはいかにも思わせぶりです。もし時間にゆとりがあれば、尊仏岩に刻まれていたという梵字「アーンク」(胎蔵界大日如来の種字)がそこにないかどうか確かめに行くところですが、この時点で時刻は15時を回っていますからちょっと無理。今後の楽しみができたと割り切って、先を急ぐことにしました。

登るにつれて尾根は細くなり、また斜度も徐々にきつくなって、やがて目の前に尊仏岩跡の背面が現れました。やれやれ、ここまで来れば塔ノ岳は目と鼻の先ですから、16時に尊仏山荘到着という約束も果たせそうです。

ここに足を運ぶのはこれが三度目ですが、こうして下から近づいてみたところ尊仏岩跡の(下側から見て)左の根本がずいぶんえぐれていることに初めて気づきました。この危なっかしい立ち方も含めて、下から見る尊仏岩跡の岩の姿は北岳バットレスの岩塔「マッチ箱」(右の写真)を連想させるものがあります。

それはともかく、この岩の上に乗っている石仏や石碑の向きから推測しても尊仏岩本体はやはりこちら側に接して立っていたと思われますから、素直に考えれば尊仏岩が落ちた方向は先ほどの石塊が横たわっている沢筋ではなく、この尾根をはさんで反対側(山に向かって左側)だということになりそうです。もちろん地震のような自然の猛威の中で何が起こるかは人智の及ぶところではないので、先ほどの岩塊のある方向に尊仏岩が落ちる確率もゼロとは言いきれませんが、過大な期待はかけない方が良さそうです。

ここから塔ノ岳の山頂までは勝手のわかっている道です。尊仏岩跡の首のない石仏に手を合わせ、雪の上にかすかに残った踏み跡を辿って目印のトンガリ岩を経由して、笹原の中を道を少し登るとそこが尊仏山荘の裏手の登山道でした。

塔ノ岳山頂に到着したのは15時50分。予定のコースを歩き通せたことよりも、ほぼ計画通りの時刻にゴールできたことの方が嬉しく、山頂の狗留尊佛やその向こうの富士山の御加護に御礼を申し上げてから、尊仏山荘に入りました。

この日の尊仏山荘は、他の予約のキャンセルがあったとかで宿泊客は私一人でした。にもかかわらずがんがん焚いてくれる暖かいストーブの火と、小屋番のお二人の温かいもてなしと、おかわり自由のおいしいカレーとですっかり寛いだ後、このところの寝不足を解消すべく早々に就寝しました。

脚注

  1. ^尊仏岩についての蘊蓄は、以前まとめた〔こちら〕を参照。
  2. ^山岸猛男『丹沢 尊仏山荘物語』(山と溪谷社 1999年)p.66
  3. ^高野鷹藏「塔ヶ嶽」『山岳』第1年第1號(日本山岳会 1906年4月)p.58-78