玄倉川鉄砲沢右岸尾根↓左岸尾根↑〔オガラ沢乗越跡探索⑤〕

日程:2024/04/11

概要:寄から太尾ノ丸を経由して鍋割山に登った後、鉄砲沢右岸尾根を下降して鉄砲沢出合に降り立ち、引き続き鉄砲沢左岸尾根を登り返して茅ノ木棚山稜に出て、寄へ下る。

⏿ PCやタブレットなど、より広角(横幅768px以上)の画面で見ると、GPSログに基づく山行の軌跡がこの位置に表示されます。

山頂:鍋割山 1272m

同行:---

山行寸描

▲中ツ峠。一連の鉄砲沢上流域の探索は、この峠への興味から始まった。(2024/04/11撮影)
▲P921のキレットを通過後に振り返って見たところ。左奥のルンゼを懸垂下降し、手前へ登り返した。(2024/04/11撮影)

2021年から何回かにわたって続けてきた丹沢・茅ノ木棚山稜北面の鉄砲沢流域通い(その意図は〔こちら〕)も、はっきりした成果は出ないながらも見るべきほどのものは見た感があるのでそろそろ店じまい。最後に流域をぐるっと囲む鉄砲沢右岸尾根・左岸尾根を歩く山行と鉄砲沢そのものの遡行とで締めくくることとし、まずはこの日、前者に取り組みました。

2024/04/11

△07:20 寄 → △08:15 登山口 → △09:05 太尾ノ丸 → △10:25-30 鍋割山 → △11:10 旧鍋割峠 → △12:05-15 中ツ峠 → △13:45-55 鉄砲沢出合 → △14:55 P921 → △16:20 登山道(茅ノ木棚山稜) → △18:00-05 登山口 → 18:40 寄

早朝の小田急線で睡眠を補いながらとことこと新松田駅に到着し、トイレに立ち寄る間もないほど出発時刻が密着しているバスに飛び乗って寄まで。この乗継時間はもう少し間を開けて設定してほしいと思うのは私だけでしょうか。

寄のバス停周辺は桜が満開ですが、既に盛りを過ぎようとしている感じ。中津川沿いに植えられている柳が芽吹き始めていますし、大橋方向へ進んでいくと山吹もあちこちで開花しています。山の中ではところどころでツツジの赤紫の花や蕾を見ることになりましたから、季節は確実に春から初夏へ向かっているようです。年年歳歳花相似たり、歳歳年年我が脚力は弱まる……。

この日のアプローチは寄から寄大橋を経て登山口まで歩き、そこから雨山峠に向かう登山道に別れを告げて太尾ノ丸(P762)を踏んで、後沢乗越から鍋割山へ向かう登山道の標高1000mあたりに出ようというものです。ここを歩くのは初めてでしたが、登山口から少し上がったところから「ボランティア林A」への径路に入って寄側へ戻り気味にトラバースし、途中に出てくるモノレールやベンチのあたりから尾根の上を目指す径路をジグザグに登っていけばOK。

登り着いた太尾ノ丸はなんの変哲もない平坦地で、ここからわずかに下った鞍部をはさんでさらに登っていきますが、引き続きよく整備された径路が続いており、脇道には親切に「進入禁止 作業径路です」という看板が立てられているために道に迷う心配もありません。最後にぐっと傾斜が強まった区間をがんばってこなすと登山道に出て、ここから上は歩き慣れた道です。

鍋割山の山頂で小休止。この日は多少雲はあるもののおおむね晴れており富士山の姿を拝むこともできましたが、空気は4月にしてはひんやりしており、先に山頂に着いていた何人かの登山者たちも防寒着を羽織っていました。こちらも行動食をそそくさと口にしたらすぐにリュックサックを背負って雨山峠方向に下り、北尾根の分岐点であらためてリュックサックを下ろしヘルメットやハーネス、チェーンスパイクなどを装着しました。

北尾根分岐点から登山道を外れて急坂を下り、すぐに到着するのが今年の1月にも訪れている旧鍋割峠です。冒頭に記したように、2021年に鍋割峠からここまでトラバースしたのが鉄砲沢流域への初見参であり、自分にとっては大事にしたい場所のひとつです。

緩く登り返してオガラ沢ノ頭から右方向へ下れば鍋割山北尾根ですが、赤ペンキで矢印や文字が書かれたブナの木を目印にまっすぐ急坂を下るのが鉄砲沢右岸尾根。ここは登り下りとも経験済みですが、丹沢特有の白ザレの下り斜面の通過はチェーンスパイクを履いていても慎重になってしまいます。

旧鍋割峠から1時間弱でこの尾根の最重要ポイントである中ツ峠に到着し、小休止をとりながら、もしかするともう来ることはないかもしれないこの峠の周りを眺め回しました。ここが「最重要」だというのは、地図上でふと見つけたこの峠への興味が一連の鉄砲沢上流域の探索の原点であり、かつて寄と玄倉川上流とを結んでいた仕事道であるオガラ沢乗越(径路)が通っていた場所だからです。そこで2022年12月に中ツ峠の周囲に残されている径路跡を集中的に探り、さらに2023年1月には中ツ峠から鉄砲沢に降りてもみたのですが、かつての径路がどのように通っていたのか、特に古い登山地図に描かれているようにこの峠から鉄砲沢上流方向へ進んで源流域を回り込むように道が付けられていたのかという点について確証が得られないどころか、少なくとも現在の地形を前提とする限りその痕跡を見出すことは不可能だと結論づけざるを得ませんでした。しかし、こうして中ツ峠から鉄砲沢上流方向に続いているバンド状の地形を見ると、これはやはり人為的に作られた径路の跡ではないのか?と思えてきます。

未練がましくいつまでも中ツ峠にとどまるわけにもいかないので、先を急ぎます。中ツ峠から先は未体験ゾーンとは言っても、自分の左に鉄砲沢を置くことさえ意識しておけば迷うはずはない……と思っていたのですが、実際に歩いてみるといくつか悩ましいポイントがあり一筋縄ではありません。

このため頻繁にGPSアプリ(Geographica)を確認して現在地と進むべき方向の把握に努めたのですが、その際には等高線以上に画面上の陰影の方が地形の理解に役立ちました。それでもカロト沢ノ頭を過ぎた先のP940からの下りで自然な地形のいたずらのために鉄砲沢の方へ引きずり込まれかけ、ふと「このままではまずいのでは?」とiPhoneを取り出したところ案の定!となって落ち葉とザレの急斜面を危なっかしくトラバースするといった場面もありました。

こうした人工物が出てくれば下界は間近。上流方向には導水管が埋め込まれていて、これはこの先に取水施設があったことを示していますが、目に見えている範囲内でも導水管が破れている箇所があり、もちろん水は流れていません。

玄倉治山運搬路への最後の10mほどは急傾斜になっており、ここは安全サイドに考えて懸垂下降しました。降り立ったところは、まさしく鉄砲沢出合です。

遠からず遡行するつもりの鉄砲沢を観察してみると、すぐそこに最初の堰堤が見えていますが、突破するのが厄介らしい2番目の堰堤は出合からでは見えていません。鉄砲沢を遡行する際には左岸尾根を下ってきてこれら二つの堰堤の上流に降りるショートカットを行いたいと考えているので、この機会に2番目の堰堤の位置も目視できないかと期待していたのですが、そうは問屋が卸してくれませんでした。

鉄砲沢出合からわずかに歩くと幅の広い緩やかな谷筋が左岸尾根の上へと続いており、ここから尾根上に乗り上がることができそうでしたが、慎重を期して先行するネット上の記録が示す尾根末端を目指しました。

左岸尾根を回り込んだ先の擁壁が切れたところにあるスロープが先行記録の示す登り口で、私もここから取り付いて左岸尾根の上に立ったのですが、そこで先ほどの幅広谷を見下ろしてみるとやはり問題なく上り下りできる地形になっています。なんだ、やはりそうだったかと少々がっかりしつつ先を急ぎました。

特に難所もなく登り続けて思いの外に早く着いたのは、これまたなんの変哲もないP921のてっぺんです。しかし堂々とした太い松の木があるので、吉田喜久治『丹澤記』に言う裸山かわいらしい白ザレのコブ[1]とはここのことかもしれません(同書に書かれている「840メートル」とは標高がまるで合わないけれど)。

鉄砲沢左岸尾根の中で唯一の難所となるのは、P921の茅ノ木棚山稜側(南)にあるキレットの通過です。やはり白ザレの下りに気をつかいながら高度を下げると前方にそのキレットが見えて、その手前の小尾根の右側(西)のルンゼにトラロープがフィックスされていました。

試みにこの小尾根の先端まで行ってみるとしっかりした灌木を支点に懸垂下降してダイレクトにキレットに降りることができそうですが、今回はトラロープを設置してくれた先人に敬意を表して、先ほどのルンゼを下ることにしました。とは言っても私は、残置ロープに命を預けることはしない主義。ここでも自前のロープで懸垂下降です(←どこが敬意?)。

持ってきているロープは8mm30mで、ルンゼを見下ろす太い木の幹にこれを回して下ったところ、ルンゼの下部からキレットへと続くバンドまでぴったりの長さ(つまり15m)でした。ちなみにトラロープの方も同じ長さで垂れていますが、上の方はそれなりの太さがあるのに下半分のトラロープは体重を預けるのが不安になるほど細く、ここを登る場合はこのトラロープはせいぜいバランスをとる程度の使い方にとどめた方が良さそうです。

キレットを過ぎてしまえば危険な箇所はなく、植林帯の中では気分よく歩けますが、植林帯よりもむしろアセビの密生の中を半ば藪漕ぎのようにして進まなければならない区間が多く、これには難儀しました。それでも左岸尾根は右岸尾根よりずっと短いので行程が捗り、かつて林業用径路としてこの尾根に通じていた鍋割歩道を見送って深い鞍部に下ったとき、ふと右後ろを振り返ると顕著なバンドが目に付きました。

実は、今回の山行ではオガラ沢乗越(径路)と並んで玄倉川上流に通じていたと言われている鉄砲沢乗越(径路)の痕跡の有無を確認することが目的の一つだったのですが、鉄砲沢左岸尾根上をここまで歩いてきたところでの実感としては、この尾根は登りがきつく両側が切れ落ちていて、少なくとも薪炭を運搬するルートとしては考えられませんでした。しからばこのバンドは鍋割歩道のものなのだろうか?しかしそれにしてはあまりに際どい位置につけられていますし、そもそも鍋割歩道はこちらへ下っていません。つまり、このバンドは自然にできたものである可能性が高いのですが、そうだとすると数時間前に中ツ峠で見た鉄砲沢上流方向へ伸びるバンドも人為的なものとは言い切れなくなってくるわけです。う〜ん……。

先ほどの鞍部からぐっと登ってわずかに下れば、そこは氏素性がはっきりしているオガラ沢乗越(径路)跡。これでめでたく未体験ゾーンは終了です。

目の前の斜面を右上気味に登り登山道に出たところで、ようやくチェーンスパイクを外すことができました。ここから先は安定した登山道を歩くだけ……と言いたいところですが、短いながらも登山道外の区間が残されています。

その前に、登山道に登り着いたところから雨山峠方向へ下った先に残されている径路跡から先ほど通ったばかりの鉄砲沢左岸尾根上の鞍部を眺めました。かつてはここから向こうまでしっかりした道が通っていて、そこを背に重い荷を載せた馬とこれを引く人とが行き来していたのですが、今は右側の斜面がごっそり崩れ落ちていて、とてもそうした道があったことが信じられないほどです。こうした地形の激変は主に関東大地震(大正12年)とその翌年の丹沢地震によるもの[2]ですが、ここでこうしてその影響の大きさを再確認すると、現在の地形を辿って明治・大正期の径路跡を探そうというのがそもそも無理な話だということが、諦めの気持ちと共に納得されてきます。

さて、登山道を使って下山しようと思えば雨山峠まで歩かなければなりませんが、その手前の鞍部から緩やかな短い谷を下れば大幅なショートカットが可能です。この谷もまたかつてのオガラ沢乗越(径路)の一部で、鞍部のすぐ下から水が湧き出し沢になってはいますが、靴底を濡らす程度で問題なく雨山峠から降りてくる登山道の空中道標の場所に降りられます。

今度こそ、後は歩き慣れた登山道を下るだけ。2日前の大雨のせいで寄沢が増水しているため渡渉ポイントで飛び石を探すのにやや時間を使いましたが、それでも無事に登山口に降り立つことができました。

今回は単に歩くだけでなくあれこれ観察しながらの山行だったために予定よりも時間がかかってしまい、寄のバス停に着いたのは最終バスの発車時刻の35分前でした。それでもバス停すぐ近くにある「みやま浜膳」さんに立ち寄って、まずは生ビール、ついでとんかつ定食で山行を〆めました。

鉄砲沢流域通いのラストは鉄砲沢遡行の予定。この日得られた知見も活用して、有終の美を飾りたいものです。

脚注

  1. ^吉田喜久治『丹澤記』(岳ヌプリ書房 1983年)p.153-155
  2. ^深田久弥『日本百名山』の「丹沢山」の項の中に、著者がかつて自著の中で丹沢の谷がいずれも立派な河原をそなえていることを「山が古いからだろう」 と書いたところ、武田久吉博士から「あれは大正12年と翌年1月の震災、またそれに続く雨で山が崩れてできたものだ」とハガキで注意されたというエピソードが書かれている。