塾長の山行記録

塾長の山行記録

大山〔南山稜〜北尾根〕

日程:2021/11/27

概要:秦野駅前からスタートして大山南山稜を辿り大山に登頂。北尾根を下り一ノ沢峠・物見峠・土山峠をつないで経ヶ岳から半僧坊前へ下山。

分類:関東周辺

山頂:弘法山235m / 高取山556m / 大山1,252m / 辺室山653m / 経ヶ岳633m

同行:---

山行寸描

▲高取山から見た大山。青空の下にピラミダルな三角形の姿を見せる。(2021/11/27撮影)
▲経ヶ岳から見た大山。山の端に日が隠れようとしている。(2021/11/27撮影)

沢登りの季節が終わりアイスクライミングのシーズンが始まるまでの端境期の近郊山行と言えば、やはり丹沢は外せません。気になるルートはいくつかありますが、今回は前々から目をつけていた大山の南山稜と北尾根を一度に歩いてしまおうと少々意欲的な計画を立ててみました。ちなみに、大山に登るのは2017年11月の大山川での沢登り以来、ちょうど4年ぶりです。

2021/11/27

△04:30 秦野駅前 △05:30 弘法山 △05:55 善波峠 △07:00-10 高取山 △08:10 蓑毛越 △09:25-40 大山 △11:40-45 一ノ沢峠 △12:55-13:00 物見峠 △13:40 辺室山 △14:30 土山峠 △15:40-45 半原越 △16:10-15 経ヶ岳 △17:15 半僧坊前

暗い時間帯になってから山道を歩くことには十分慣れていますが、帰宅するための交通機関がなくなるのは困ります。登山マップのコースタイムをもとに計算してみると、当日の朝に自宅を出発したのでは下山後のバスに間に合わないことが予想されたので、タクシー代を出すのもホテル代を出すのも同じだと割り切って秦野駅前に宿をとり、前泊をして未明の出発としました。

ホテルを午前4時過ぎに出て駅前の「松屋」でカレーの朝食の後、おもむろに出発。水無川沿いの道を東へずっと歩いて突き当たりを左に折れ金目川と葛葉川が合わさった川を渡ると、行く手に大山南山稜の末端がうっすらと姿を現していました。暗い中を町から里山に上がって長い縦走に進むこの感覚は、私の登山の原点である六甲全山縦走を思い出させるものがあります。

山道に入ってしばらくの急登から浅間山と名付けられた小ピーク(手前に石祠あり)を過ぎ、車道を横断してさらにひと登りで立派な展望台のあるだだっ広い権現山山頂。この時刻だというのに展望台の上から人の声が聞こえてきたのには驚きましたが、周囲の夜景の美しさを見て納得しました。

かつて権現堂が建っていたことから名付けられたという権現山から、馬場道と呼ぶ広い道を進んで弘法山。山頂には弘法大師像を祀った釈迦堂や鐘楼、井戸などがありましたが、この辺りで東の空が明るくなってきました。

弘法山から20分ほども歩くと文政10年(1827年)に建てられた御夜灯があり、その少し先が石仏数体が残る善波峠です。そこに立っていた案内板によれば、ここは東海道の脇往還として江戸から厚木、伊勢原、十日市場(秦野)、松田惣領などを通り足柄峠を越えて沼津宿まで通じていた矢倉沢往還が通っていた場所ですが、この道は江戸からの大山詣でにも用いられていたので大山街道とも呼ばれたそうです。こんな具合に、この辺りの山や峠はいろいろな歴史を背景に持っているので、いずれ時間をとってゆっくりと辿りなおしてみたいものです。

善波峠から歩きやすい道をひたすら北へ進んで1時間ほどで高取山に到着し、ここで初めて小休止。ここからは行く手に大山のピラミダルな姿を見通すことができました。

胸から上が修復されて新しいお不動様の石碑を見て、送電鉄塔の下の白いススキの穂に癒されて、そしていよいよ蓑毛越。ここには左・蓑毛から、右・下社からの道がそれぞれ上がってきていて、この先の道も傾斜が急になり、はっきりと大山の山体に取り付いたという感じがしてきます。

そのことを裏付けるように、蓑毛からの裏参道が合流した先には痛んだ石仏群が立つ一角(賽の河原)があり、さらに進むとひときわ大きな女人禁制碑も見られて、いずれも往時を偲ばせてくれました。

女人禁制碑から西の峠を越えて急坂をひと登りで下社からの道の16丁目に合流すると、やっと登山者の姿が目立つようになってきました。ここから先は今までにも登ったことがある区間ということになります。

しかし、特別料金を払えばこうしてモノレールで山頂近くまで運んでくれるサービスがあるということは今の今まで知りませんでした……というのは嘘で、これは業務用のようです。

スタートから約5時間で山頂に到着。ここがこの日の最高所となりますが、行程としてはまだ半分に達していません。

とはいえ、とりあえず眼下に輝く相模湾とそこに浮かぶ江ノ島のシルエットなどを愛でながらしばし休息をとることにしました。上の写真には写っていませんが、遠くには筑波山の姿も驚くほど大きく見えていて、まるで関東平野南部が筑波山と大山とに挟まれているかのようでした。

さすがに11月も末になれば山上は冷え込むらしく、水たまりが凍っている箇所や霜柱の連なりなどが見られます。

裏手の展望台からは富士山が眺められましたが、あいにくその山頂は部分的に雲に隠されていました。しかし表尾根から塔ノ岳、そして丹沢山へと続く丹沢主脈の山々はクリアに見えています。表尾根の左端に近い三ノ塔に右下から左上へと緩やかに登るヨモギ尾根は、年明けにでものんびり登ってみたいと思っているところです。

北面の展望を楽しんだら、少し戻ってFMヨコハマの送信施設の横から北尾根に通じる道に入りました。備え付けのアルミ脚立を使って鹿柵を乗り越えたら、凍てついた草付きの中の踏み跡を辿って下降を始めます。

北尾根は登山マップでは点線ルートになっているので歩きにくいのかと思いきや、最初のうちは概ね広く緩やかな尾根の上をモノレールに沿って歩く道で、落ち葉の上にはかすかな踏み跡も残され迷う気遣いはありませんでした。ところどころ尾根が痩せ、あるいは下降が急になるところもありますが、ほぼ通常の登山道歩きの範疇。そうした中で、肩にカメラの三脚を担いだ男性とすれ違い、さらにストックを突いた男性を追い越しました。

左手の木の間越しに常時丹沢山を眺めながら陽だまりハイクのような尾根歩きを40分ほど続けてミズヒノ頭を過ぎると、行く手が開けて宮ヶ瀬湖が見えてきました。今回の山行のゴールはあの湖の南側を通ってさらに東に進んだ先ですが、この時点で時刻は10時20分。時間は十分にあるはずです。

西の地獄沢橋へと下る道を分けてさらに北へ進むと、派手な倒木の向こうに2014年に越えた三峰山。そして見上げれば見事な紅葉が陽の光を浴びて鮮やかに輝いていました。この辺りは北尾根の中でもとりわけ紅葉が美しい一角で、その盛りの時期にここを歩けたことを嬉しく思いました。

一ノ沢峠の手前でさらに一人の男性とすれ違ってから、峠を右手に降りると唐沢林道。ここからしばらくは車道歩きになります。江戸時代には札掛を中心とする東丹沢の御用木をこの一ノ沢峠と東の物見峠を越えて煤ヶ谷に運び出していたと言います[1]から、共に歴史の長い峠です。

足にこたえる単調な車道歩きも対岸の斜面の暖色系のグラデーションがよい気分転換になりましたが、この頃からときどき太陽が雲に隠されるようになってきました。やがて思ったより早く物見隧道に到着し、その左から山道に戻りました。

なかなか味わいのある古い木の階段をぐいぐいと登って物見峠に着くと、彼方には横浜方面の市街地が広がっているのが見えていました。この物見峠、ずいぶんと物々しい名前ですが、江戸幕府の大事な御用木の盗伐を防ぐための巡視路でもあったことからこの名がついたもので、札掛という地名も山廻り役が目印の欅の大木に札を掛けて巡視の証としたことによるのだそう[2]

さて、大山の南山稜と北尾根をつなぐだけなら物見峠から煤ヶ谷へ下るのが簡便なのですが、2014年の丹沢全山縦走の際に最後の最後で物見峠の手前から煤ヶ谷へ下ってしまい、したがって大山から三峰山を越えるこの尾根の末端の辺室山をパスしたことが画竜点睛を欠く形になっていたことが気掛かりのままだったので、今回はこの欠けていたピースを埋めるべく物見峠から辺室山を目指すことにしています。

物見峠からほんの少し北へ登るとバリエーションハイカーに人気の鍋嵐への分岐で、そこには古びた祠がありました。この祠自体は明治時代に置かれたもののようですが、辺室山から物見峠、三峰山を経て唐沢峠に続く尾根道はかつての八菅修験の行者道であったと言います[3]。そして、この分岐点から広い谷筋を挟んで向こうに見えているのは相州アルプス(高取山〜仏果山〜経ヶ岳あたりを指すようです)の山々で、あちらは大山修験の抖擻とそうルートです[4]

しかし、さすがにこの頃になると足が重くなってきました。物見峠から辺室山へは地図上ではさしたる距離でもないように思っていましたが、実はコースタイムで1時間以上、実際にも40分ほどかかってしまいます。もともと辺山とされていたのがいつからか字が誤って辺山になったというかわいそうなこの山の頂は小広いスペースになっており、ベンチにザックを置いて小休止としてからだらだらと土山峠へ下りました。

さてさて、大山の南山稜と北尾根をつなぎ辺室山を加えるだけなら土山峠からバスに乗ればよく、それならわざわざ秦野駅前のホテルに前泊する必要はなかったのですが、ここからもうひと頑張りして経ヶ岳を越え半僧坊前へ向かうのが今回のプランのポイントです。その動機は、ひとつにはいずれ縦走しようと思っている相州アルプスの一角なりとも踏んでそのスケール感を体感しておきたいというものですが、一番単純な理由はせっかく丹沢の外(秦野駅前)からスタートしたのだからゴールも丹沢の外(相州アルプスの向こう側)にしたいという、半ば欲張りなこだわりです。

土山峠から車道に沿って煤ヶ谷方向へ少し下って、登山道を登り返し。よく整備されて歩きやすい道の途中からは再び宮ヶ瀬湖が見えました。仮にあと20mほども宮ヶ瀬湖の水位が上がったらあの湖水は土山峠を乗り越えて煤ヶ谷へと溢れ出すことになるはずですが、宮ヶ瀬ダム天端の標高(290m)は土山峠(300m)より低いのでそうなる心配はありません。

仏果山からの縦走路に合流して南東に進むと、アンテナを頂上に立てた大山のてっぺんが木の間越しに見えました。やがて道の左側に尖った経ヶ岳も見えてきて、そのすっきり高い姿に「あそこまで登り返すのか」と少々げんなりしながら先を急ぐと……。

半原越への下り道の途中にあったのは、この独立した扉。ここはナルニア国[5]か?

降り着いた峠=半原越は、昭和の初期まで養蚕が盛んだった煤ヶ谷から糸の町として栄えていた半原へと繭を背負って越えた峠だそう。

半原越からしばらく我慢の急登をこなせば、経石に到着します。そこにあった案内板には昔、弘法大師がこの岩(南側にある穴)に経文を納めたことから経石と、また経石のある山だから経ヶ岳と呼ばれるようになったと伝えられていますと書かれていましたが『新編相模国風土記稿』には「華嚴山」についての記述の中に往古役小角華嚴經ヲ此所ノ石櫃此石佛果山ト當山ノ界ニアリ経石ト呼フ按スルニ上荻野村松石寺ノ傳ヘニハ空海經ヲ納メシト云ニ納ム依テ山名トセリト云とあって由緒が異なります(かつてはこの辺りの広い山域を華厳山と呼んだそうです[6])。ともあれ石の裏側を覗いてみると、確かにそこに穴がありますが、そこに鎮座していたのはこけしのような可愛い石仏でした。

経石からはほんのわずかで経ヶ岳に到着しました。そこにはベンチもしつらえられて、のんびりできる雰囲気の場所です。

しかし、振り返ればちょうど太陽が山の端に隠れようとしているタイミング。斜光を浴びて荘厳な気配を四囲に振り撒いている大山に別れを告げたら、直ちに下山にかかりました。

どうにかヘッドランプのお世話にならずにすむかな?と思いながら急ぎましたがそうはいかず、最後の15分ほどをヘッドランプ点灯での有視界歩行として下界に降りました。


かくして半僧坊前のバス停に着いたのは17時15分ですから、休憩時間コミで12時間45分かかったことになります。仮に秦野駅前のホテルに宿泊せずこの日の朝に自宅の最寄駅から始発電車で秦野駅を目指していたなら秦野駅到着は6時40分、秦野駅前発が6時45分として半僧坊前到着は19時30分ですが、土曜日の最終バスはこのバス停到着が19時26分ですからまさにギリギリです。もちろん純粋ワンデイを目指していたなら途中の飛ばし方も違っただろうと思いますが、その代わり先を急ぐばかりでせっかくの景色を楽しむことはできなかったでしょうし、何より経ヶ岳から残照の大山を見ることもできなかったわけですので、秦野前泊は正解だったなと納得できたのでした。

脚注

  1. ^植木知司『かながわの峠』(神奈川新聞社 1999年)p.96-97
  2. ^同 p.98。『新編相模国風土記稿』にも物見峠が巡視路であったことが記されている。
  3. ^城川隆生『丹沢の行者道を歩く』(白山書房 2005年)p.87
  4. ^同 p.59-63
  5. ^C.S.ルイス『ナルニア国物語 さいごの戦い』(1956年)
  6. ^植木知司『かながわの山山名をたずねて』(神奈川合同出版 1979年)p.108

参考本文及び脚注に記載のないもの

  • 八菅修験及び大山修験の抖擻ルートに関して
    • 菅原信夫『続 丹沢山紀行』(白山書房 2016年)

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