金峰山〔八幡尾根〕

日程:2024/05/03-05

概要:御岳金櫻神社から猫坂経由八幡尾根を辿って金峰山に登り、富士見平に下る2泊3日行程。

⏿ PCやタブレットなど、より広角の画面で見ると、GPSログに基づく山行の軌跡がこの位置に表示されます。

山頂:黒富士 1633m / チョキ 1884m / 八幡山 2088m / 金峰山 2599m

同行:---

山行寸描

▲金櫻神社の金峰山遥拝所から望む金峰山。青空の下に金峰山が驚くほどはっきり見えた。(2024/05/03撮影)
▲八幡尾根終了点から振り返り見る八幡尾根。(2024/05/04撮影)

この時期は例年であれば名残りの雪山を目指すところで、その線に沿って東北地方の雪山なども視野に入れて検討してはみたのですが、先月中旬の宝剣岳中央稜で雪に関してはそこそこ満足した感もあったため、がらっと方向性を変えて2年前に歩いた金峰山の参拝道のバリエーションを歩くことにしました。すなわち、金櫻神社から黒平・御室を経て金峰山に向かういわゆる「表参道」が江戸期に庶民が御師に導かれる参詣路であったのに対し、その西側の八幡尾根の方こそ中世の修験道の峰入道であったと考えられているので、そちらを金櫻神社から金峰山まで歩き通す正統派参拝登山を果たそうというものです。

2024/05/03

△09:55 金櫻神社 → △11:25-30 猫坂峠 → △15:10-15 黒富士 → △18:05 木賊峠

世間的には連休後半の開始日とあって、この日の朝の中央本線特急は満席。よって各駅停車を乗り継いで3時間かけて甲府まで移動し、タクシーに乗って金櫻神社を目指しました。

途中で見られる昇仙峡の岩塔群の眺めは何度見ても面白く、屹立する覚円峰の姿に思わずカメラを構えると、タクシーの運転手さんはわざわざ車を停めてくれました。金櫻神社はここから直線距離で2km強の位置にあり、公共交通機関を使って行こうとすれば甲府駅からバスで昇仙峡滝上まで入って、そこから徒歩で1時間もかからないのですが、あえてタクシー代6,600円を支出したのはもちろんこの日の長丁場のためです。

神社の紹介は後述することにして、山旅を始める前に境内から標高にして70mほど登ったところにある遥拝所に登り、かたや富士山、かたやこれから向かう金峰山をそれぞれ拝みました。金峰山の方角には新しい石碑があり、そこには平成31年の歌会始の儀において皇太子殿下(今上陛下。まだ親王である昭和50年に金峰山に登られた)が詠まれた雲間よりさしたる光に導かれ われ登りゆく金峰の峰にという歌が彫られていました。今日は「雲間」という感じの天気ではありませんが、あやからせていただきます。

遥拝を終えたらまずは猫坂ねっこざかを目指します。実は事前の研究が十分でないこともあって、金櫻神社から八幡尾根に向かうのにどのルートをとるのがよいか直前まで悩んでおり、たとえば一連の尾根筋の末端にあたる太刀岡山から縦走を開始するのも面白いのではないかなどと考えていました(そしてこれが正解だったことが後日わかりました)。しかし猫坂への道は、2年前に表参道を歩いたときに不本意ながらはしょった道であり、また『日本百名山』の著者である深田久弥が金峰山登山の際に歩いた道でもあることが、このコースを選ぶ動機となりました。

神社の境内から参道の石段を下って鳥居の外に出て一礼したら、その右から奥に向かう道に入ります。道はすぐに御岳川の右(左岸)に移り、やがて車道が終わると山道に変わりますが、地形図では右岸に渡ってやや高いところを通るように書かれているのに、左岸にはずっと道が続いています。ここは目の前の道を信じてそのまま行ってみたのですが、すると……。

その道の行き着く先には某宗教法人の道場だという建物が建っていました。道はここで行き止まりになっているようなので右から回り込んで上流に進むと、ちょうどこの建物の横は小滝になっており、対岸の高いところに地形図に書かれている道が見えています。そこで落ち口の上で対岸に渡り、なおも沢筋を離れないように上流に進んでみると、地形図には記載のない立派な滝が前方に見えてきました。もしやこれが「行者滝[1]」?

なるほど、右岸の道が高いところを通っているのはあの滝を越えるためだったのかとここでようやく得心し、柔らかい土の斜面をずり上がってその道に乗りました。それなら最初から地形図が示す通り右岸を進めばよかったのかもしれませんが、最初の小滝の近くでその道は強度不明の橋を渡っていましたから、道場までは左岸の道を進み、小滝の落ち口の上で右岸に渡ってそちらの道に入る方が確実かもしれません。

このあたりの道は部分的に路肩が崩れていたり外傾していたりして慎重に進まなければなりませんし、滝の落ち口を越えたすぐ先には朽ち果てた吊り橋らしきものもあって前途多難だなと思わせましたが、しかしこの滝の両端に甲府市役所による真新しい「通行禁止」のバリケードが設置されていたので、まったく人の手が入っていない忘れられた道というわけでもなさそうです。

さらに進むとそれなりにしっかりした橋や石組みが現れ、道の形もしっかりしてきて歩きやすくなりました。かつては黒平との往来に使われていたというこの道は、林業のために今でも現役で使用されているのかもしれません。

途中で沢筋が分かれるところも地形図をよく見て正しい方角を選べばOK。林道を横切るところにはご丁寧に階段が設置してあり、ここから先に進むと部分的に倒木が道を塞いでいるところがありましたが難なく迂回可能です。やがて水が枯れた後の沢型を追うと峠の手前が急斜面になっていて、なるほどこれが「猫坂」の名前の由来(=根っこをつかんで登る急坂)かと思いましたが、そこにはジグザグの道がついていて問題なく峠に登り着きました。ここでまず目立つのは大きな造林完成記念碑ですが、目を峠道の反対側に転じると、檜の巨木の足元にこの道の歴史を物語るような石祠がひっそりと佇んでいました。

この手の石祠の通例として、その側面には寄進年や寄進者の名を記したものと思われる文字が彫られていましたが、この日の行程はまだまだ長いので、これをじっくり解読している時間わけにはいきません。きっと、民俗学的視点でこの道を探訪している人が調べをつけてくれていることでしょう(他力本願)。なお、かつて深田久弥はここから金峰山を見て快哉を叫んだと『日本百名山』に書いていますが、今は植林のために展望は得られません。

猫坂峠から先に続く窪地状の道を辿っていくと尾根筋の右下に道路が見えたのでそちらに下りましたが、実は尾根をまたいで左へ下っていけば多少時間の節約になった模様。黒平に向かう昔の道はこの車道を横断して谷筋を下っていくのに対し、こちらは車道を緩やかに下って燕岩岩脈つばくろいわがんみゃくを目指します。すると車道を歩き出してすぐに、前方高く起伏に富んだ岩壁が横に広がっているのが目に入りました。あれが燕岩か!とその迫力に驚きながら歩いていると、道路の脇に岩の露頭が覆い被さってくる場所に行き着きました。

「燕岩」の名前の由来には諸説(色だとかツバメの巣が作られたとか)あるようですが、岩脈の成因は100万年前に形成された黒富士火山群の火砕流堆積物の割れ目に後からマグマが貫入したもので、後で通ることになる黒富士峠の近くに位置する溶岩円頂丘から南南東へなんと30kmも伸びているのだそう。小川山や瑞牆山のような典型的な花崗岩塔を見せる昇仙峡とは異なりこの岩脈はデイサイトを主体とし、節理が発達していることがこの露頭からただちに見てとれます。オーバーハングしたその姿に見惚れてからここに設置されている解説を読んでみると、その枠外には次の注意書きがなされていました。

ここは国指定天然記念物です。クライミング等は禁止されています。

露頭の位置からすぐ先のカーブを回り込んだところに「保安林」の標識が立っており、そこに斜面を登る踏み跡がついていました。ここでリュックサックを下ろして一息つき、行動食を口にしてから斜面に取り付くと、最初は土の斜面に獣道を探しながらの急登になりますが、やがて岩が主体となって安定した歩きができるようになります。岩脈の上とは言っても樹木は豊富で、岩の起伏もそれほど顕著なものではなく、クライミング技術を要するような場所はありません。

人が歩いている様子は窺えませんが、岩脈の上の方では真新しいトラロープや標石が現れ、P1275から岩脈を離れて黒富士との鞍部に向け真西に下るとそちらには鹿柵らしきものも現れました。それよりもこの岩脈はかつての修験者がいかにも好みそうで興味をそそるのですが、それらしい遺構は一切見当たりません。

燕岩岩脈と黒富士との鞍部からの登りはさして難しくなく、自分の左手に降りてくる尾根筋を目掛けて2回乗り移ったらだらだらとした登りが続くだけですが、この頃からリュックサックの重さがこたえ始めてきました。今回は2泊3日の幕営装備で17kgほどを背負っており、これでも冬季アルパインクライミングの装備に比べれば軽い方ですが、昨夏の北アルプス以来重荷を担ぐ山行から遠ざかっていたツケがここにきて出た感じです。

やっとの思いで到着した黒富士は一方向に開けており、南アルプスの一部を眺めることができましたが、それよりもこの「黒富士」の名を冠する火山活動(100万年前〜)が太刀岡山のような溶岩円頂丘(50万年前)や寄生火山の茅ヶ岳(20万年前)を生んでいるという歴史的位置付けの方が重要です。

そして展望の方は、黒富士から30分ほどの歩きで達する小さいピークである枡形山で存分に堪能することができました。

この360度の眺めは大展望という言葉が当てはまるほどすばらしいもので、予想していなかっただけに嬉しい驚きでした。南南東方向には、彼方の白い富士の前に黒富士が本当にミニ富士山のような黒い姿を見せているのも面白い光景です。

枡形山からさらに稜線上を北北東へと向かいますが、どこまでも主稜線を忠実に辿ったのでは日が暮れてしまうので、黒富士峠の一つ先の鞍部から急斜面につけられた踏み跡を使って車道に下りました。

ほぼ水平の車道歩きのおかげで行程が捗り、その最後に緩やかに登って木賊峠に着いたところでこの日の行動を終了することにしました。計画ではさらに歩みを進めてチョキ登山口に幕営することにしていたのですが、峠の広場には東屋があってここに泊まっていけと誘っていますし、チョキ登山口までは車道歩きですから明朝の暗い内に歩き始めても支障はないはず……というのは言い訳で、重荷を担いでの車道歩きに飽きてしまったからというのが正直なところです。

夕日の中にぼんやりとした姿を見せる富士山を眺めてから、東屋のテーブルで今宵の宴。とは言うものの、なにぶん水分の補給に不自由するルートなのでアルコールは持参していません。さっさと湯を沸かしてさっさと食事を終えたら、広場の近くにある平坦な草地に張ったテントに潜り込んで早々に就寝しました。

2024/05/04

△04:55 木賊峠 → △05:55-06:05 チョキ登山口 → △07:00 チョキ → △09:05 P2035 → △10:05-15 八幡山 → △12:05 P2333 → △14:25-35 金峰山 → △17:25 富士見平

午前3時起床。ここで大失敗をしてしまいます。朝食作りは昨夕と同じく東屋のテーブルで行おうと思っていたのですが、寝ている間に寒い思いをしたことからつい億劫になってテントの中で湯を沸かし始めたところ、うっかりこれを倒してしまい貴重な水を300mlも失うと共にエアマットに穴を開けてしまいました。まったく、何十年も登山を続けているというのに……。

そんなドタバタのために出発は大幅に遅れ、歩き出したときにはすっかり明るくなっています。しかし金峰山の右から日が昇るこの眺めを見ることができたから、これはこれで儲け物だったかも。

木賊峠からクリスタルラインを20分歩いたら舗装路を離れてダートの道に入り、うねうねとした道を歩き続けて尾根筋をまたぎ越すところがチョキの登山口。赤テープ以外にそれらしい印はないので、ぼんやりしていたら通り過ぎてしまいそうなところです。

チョキの登りはなかなかの急登で、つい足が止まりがち。なんとか到達した山頂はかわいらしい小広場になっていて、そこに立つ木には手製山名標識がぶら下がっていました。それにしても「チョキ」というのはユニークな名前ですが、調べてみてもその由来を知ることはできませんでした。

チョキ登山口からチョキ山頂までは「山と高原地図」にも登山道が点線ながら示されていますが、ここから先はそうしたもののないバリエーションの世界。それでもしばらくは明るく開けて歩きやすい尾根になっており、ところどころにある境界見出標が道しるべにもなってくれています。したがってこの区間での道迷いの心配はなさそうなものですが、にもかかわらず先ほどから目につくのはピンクのテープです。これが仕事のために付けられたものなら仕方ありませんが、もし登山者が付けたものだったら、後から歩く者のルートファインディングの楽しみを奪う無粋な所業なのでやめてもらいたいものです。

……などとぷりぷりしているうちに道はちょっとした岩峰に突き当たりましたが、これは登らずに右にかわすのが正解。やがてシャクナゲも出てくる中をP2035に向かって登るとかなりの急登になってきて、行く手を遮る巨岩を右からかわすように踏み跡やテープがついていましたが、その後に左へトラバースしていたのでもしかすると左からかわすラインがあったのかもしれません(逆コースを来るとそちらが自然)。そしていったん鞍部になったところには「南の広場」と書かれた手製標識があり、ここは明るく開けた平坦地になっていて、水がないことに目をつぶればテントを張ってのんびり過ごしたくなるところです。

南の広場を過ぎると再び植生が密になり、P2035のピークと思しき場所にはきれいな苔に囲まれた小凹地の真ん中に標石が立っていますが、その向こうはシャクナゲの藪とツガ林が混じる下り斜面です。

下った鞍部は「八幡山のコル」とされ、そこに作業小屋の残骸と思われるトタン板やケーブル、缶詰の缶、陶器、瓶などが散乱していました。ここも泊まろうと思えば泊まれるところで、実際にこの山行のプランニングに際して記録を参考にさせていただいたsudoさんは逆コースの途上でここに泊まっていますが、快適さという点では先ほどの「南の広場」の方が上だろうと思います。

コルから踏み跡を頼りに高度を上げ、岩場の登りの最中にふと見上げると目の前にハイマツがあって「おっ?」と思ったら、その先に周囲をシャクナゲに囲まれて展望のない八幡山のピークがありました。この時点で既に10時だというのに、ここの標高は2088mで金峰山は2599mですからあと511m登らなければならない計算です。それでも登り一辺倒であればかえって気が楽なのですが、P2333の先には50m下ってから登り返す鞍部が控えているのが不安材料。ここに至ってはっきりと行程の遅れを自覚し、あわよくば午前中に金峰山に登頂しよう(そうすればこの日の内に下山できる)という目論見は捨ててとにかく今日中に富士見平に下れれば御の字だと考えを切り替えることにしました。しかし、ここから先は藪がますます濃くなってきます。そもそも発達した苔が踏み跡を隠している上に、野放図に伸びたシャクナゲの枝や倒木がルートどりを制約し、仕方なく藪に正面から戦いを挑むこと二度三度。そのたびに背中のリュックサックが引っかかって往生しました。

八幡尾根を歩いた記録を見るとたいてい出てくる水晶採掘場所が、八幡山の先の標高2120mあたりでやはり出てきました。白い石英の塊がごろごろ転がっている中にプラスチックの箕や鍬が置かれていたので、これはどうやら近年の仕事の跡である模様です(近年どころではないことはこの後すぐにわかります)。

水晶採掘場所からほんのわずか進んだところに、今度は石祠が現れました。八幡尾根が峰入道であったことを示す遺構らしきものは実はこれだけなのですが、よくよく見るとこの石祠は何やら不審です。というのもこの手の祠には普通側面に作られた年や寄進者の名前が彫られているものですが、そうしたものが見当たらない上に、なぜここに?という場所にあってその役割がわからないからです。私がヒルのいない季節によく足を運ぶ丹沢にも修験の道はありますが、そこでの経験に照らせば行者は単に目的地を目指すのではなく途上において遥拝などの行を行っているはず。そして行場は泊まり場でもあるので水の確保ができる安定した地形でなければならないのに、この石祠が立っているところは(遥拝はできそうであるにしても)そうした条件を満たしているようには思えませんでした。

石祠を見つけはしたものの頭の中に「?」マークを渦巻かせながらツガ林の中を急ぐと、石祠から標高を100mほど上げた頃に進行方向右下の方から何やら音が聞こえてきました。再び「?」と思ってそちらを眺めると、鍬を持って斜面を掘り返している人の姿が目に入りました。

水晶採掘が現に行われていると知ってちょっとびっくり。ここでの権利関係については知識がないので、これが適法なのか違法なのかはわかりませんが、わざわざこんな山の奥[2]までやってきて地道な作業に黙々と取り組んでいる彼の邪魔をしては申し訳ないような気がして、あえて声を掛けることはしませんでした。それでもおそらく彼の方は、私の存在を藪を漕ぐ音やボヤキ声やらで認識していたことでしょう。

P2333の手前に巨岩の積み重なりがあって、その上に出ると一気に展望が開け、目指す金峰山の五丈岩も指呼の間……とまではいかないものの、近づいてきたような気がします。ただし、こうした巨岩の積み重なりはこのルートの罠になっていて、つい喜んで岩の上に乗ってしまうとその先が断崖になっていて引き返さなければならなくなったりします。そして岩と岩の間には少なからぬ確率で深い空洞ができているので、そこに落ちないよう慎重な行動が必要です。このP2333の巨岩の積み重なりも、その上こそがP2333のてっぺんなのだろうと思って登ってみたもののこれは判断ミス。先に進もうとすると明らかにフリーソロはためらわれる難易度になってきて目が覚め、どうやら右下の樹林の中に道筋があるらしいと見通してそちらにずり降りた際に、これまで大事にかぶってきた帽子を空洞に吸い込まれてしまいました。

P2333からは北に向かって右斜面をトラバース気味に下りましたが、藪、倒木、残雪が入り混じる中に踏み跡があるようなないような不鮮明な下りとなり、鞍部に降り着くと標識代わりのスプレー缶が寂寥感を漂わせていました。そしてここからの登りも一筋縄ではいかず、ことに岩塊の連なりがそれを迂回するために頭を使わせます。そうこうしているうちにふと気づくと、今度はリュックサックのサイドに一時的にしまっていたストックの1本がなくなっていました。登山用品は基本的に消耗品だと思っているので失うこと自体は割り切れるのですが、土に還らないものを山に残してきたことには深い罪悪感を覚えます。せめて、後日ここを通る奇特な登山者が拾ってくれればいいのだが……といった落ち込んだ気分で歩き続けると、傾斜はぐんぐん急になっていきます。一応は踏み跡が続いていても、それを辿っているつもりなのにいつの間にか外していて、ままよと上を目指すと境界見出標や標石が視界に入ってきてほっとすることの繰り返し。気のせいかこれらの目印が登場する頻度が上がったように思っていると背の高い木が消えて視界が開け、岩の積み重なりの先で標高2460mの尾根分岐点に到着しました。

地形図からは読み取れませんがここも小ピークになっており、行く手の主稜線や背後の八幡尾根を遮るものなく見渡すことができます。ここに着くまで気がついていませんでしたが、空模様は下り坂で雲の底が黒く低くなってきており、剣呑な風情。それでも目の前の主稜線に達すれば登山道だと思うと落ち込んでいた気持ちが盛り返してきます。

しかし八幡尾根はそう甘くなく、小ピークからの登りもハイマツやシャクナゲやツガやで覆われていて歩きにくいこと夥しく、主稜線は思うように近づいてくれません。

我慢の30分間を乗り越えて、やっと主稜線に到着しました。やれやれ、疲れた。しかし向こうに見えている五丈岩の足元の奥宮に参拝するまでは八幡尾根を登り切ったとは言えません。リュックサックをデポし、最後のワンピッチの歩きにかかりました。

登山道は五丈岩の左(北側)を回っていますが、ここはあえて右(南側)に入ってみました。あいにくそちらには歩きやすい道はなく、ちょっとした岩下りをして表参道の最後の部分に合流してから登り返し、念願の奥宮参拝を果たすことができました。

せっかくなので金峰山最高点まで足を進めて、定番の構図で写真を一枚。登らせていただきありがとうございました。

反対側には朝日岳から国師ヶ岳、甲武信ヶ岳へと連なる奥秩父主脈が伸びており、36年前の奥秩父主脈縦走であそこからここまで歩いた日のことを懐かしく思い出しました。

これにてミッション終了。リュックサックを回収し、整備された登山道のありがたみに感謝しつつ、しかし山頂から2時間半という道のりの長さに辟易しつつ、断続的に降る小雨や霰を浴びながら富士見平へと下ります。

富士見平に着いたら真っ先にしたことは幕営の受付、そしてビールを買い求めることです。カップ焼きそばを作りながらまず1本、食べながらまた1本、至福の時。富士見平のテン場は一度泊まってみたいと思っていたところですが、この日は程よく空いていて登山者たちの表情も例外なく穏やか。林間の別天地で平和なひと時を過ごしたら、ぺちゃんこのエアマットの上にシュラフを広げました。

2024/05/05

△05:30 富士見平 → △06:05 瑞牆山荘

寒い一夜を過ごした後の最終日は雲一つない快晴。富士見平を早々に発って瑞牆山荘に下り、始発バスの出発時刻までの3時間、冷え冷えとした空気が日照によって温められるのを待ちながらクマのようにうろうろとバス停の近くを歩き回って過ごしました。

かくして金櫻神社(里宮)を起点とする八幡尾根からの金峰山(奥宮)登頂という目的は無事に果たすことができたのですが、脚力は不足しているわ、バーナーを倒してマットに穴を開けるわ、帽子とストックを失うわと、山行としては散々な出来でした。お恥ずかしい……。それにしてもかつての修験者は、本当にこの難路を登拝路として使ったのでしょうか。え、今さらそれを言うな?

金櫻神社

金櫻神社に正面から参詣しようとすると正面の266段の石段を登らなければなりませんが、タクシーが境内の高さまで通じている道路を上がってくれたおかげで本殿の横に咲き誇る御神木の鬱金桜(その名の通り花の色が黄色っぽい)の前から境内にダイレクトに入ることができ、ずいぶん楽をしました。

この金櫻神社の由緒は、公式サイトによれば次の通りです。

金桜神社の縁起は遠く崇神天皇の御代(約二千年前)に遡ります。当時各地に疫病が蔓延し悲惨を極めましたので、天皇はこれを深く憂慮せられ、諸国に神祗を祀り、悪疫退散萬民息災の祈願をするよう命ぜられました。この時甲斐の国では金峯山の頂に少彦名命を祀られましたのがこの神社の起こりでありまして、延喜式の神名帳にも「甲斐の国山梨郡 金桜神社」と載っているのであります。降って景行天皇の四十年、日本武尊が御東征の砌金峯山の上のこの社に詣でられ、須佐之男尊・大巳貴命の二神を合祀されましたので、御祭神は三柱となります。その後、天武天皇の二年に至り、大和国吉野郡金峯山の蔵王権現を合祀して、神仏兩部の祭祀を執り行うこととなりました。

ところが、この由緒正しい神社は昭和30年に失火によって社殿ことごとく灰燼に帰し、今ある社殿は拝殿の左右の柱に巻きついている昇竜降竜(伝左甚五郎作)も含め再建されたものです。

失火による文化財の喪失と言えば古くは法隆寺金堂壁画、近くは首里城正殿(復元)が思い浮かびますが、いずれにしても残念なことです。今の再建社殿の明るく開放的な雰囲気もすてきですが、金櫻神社の公式サイトに載っている古い写真(炎上中の写真も!)を見ると往時の境内は現在のフラットな構造とは異なり立体的で、そこにひしめき合う社殿の数々が参詣者に迫ってくるような独特の威容を誇っており、その姿で拝みたかったという気持ちにもさせられます。

残念と言えば、遥拝所で富士山と金峰山を拝んでから境内に戻ると拝殿の前の舞台上で高校生諸君が楽器類の設置中で、どうやらこれは「桜まつり」の一環としてこの日行われる「富士学苑中学・高等学校ジャズバンド部奉納演奏」の準備だったようですが、これも見ていくゆとりはありませんでした。そのかわり、昇り龍水晶守と足腰のおまもりをゲットして内心ほくほく。これで今年は金運・山運ともに安泰です。

峰入道

上記の通り、今回の山旅の検討過程では太刀岡山から登り始めることも選択肢の一つとしたのですが、どうやら峰入道は本当にそちらの稜線をつないで登るラインだったようです。さらに言えば、中世甲斐国においては甲府盆地を囲む金峰山、御坂山、鳳凰山のそれぞれに修験道が展開していた模様(下図[3])。

これらを見ても八幡尾根をもう一度登りなおそうとまではさすがに思いませんが(笑)、いずれ茅ヶ岳〜曲岳〜黒富士〜太刀岡山の線はつないでみたい気がします。

五丈岩

金峰山上の御神体である岩のことを、地図によっては「五丈」と記していますが、本稿では金櫻神社による「お知らせ」の表記に従い「五丈」としています。

ところで「五丈」というのが高さを示しているのであれば、1丈=10尺(約3m)なので5丈は約15m。当たらずと言えども遠からずという気がしますが、一説[4]によればこれは蔵王権現が踏みつける磐石からの連想で、吉野大峯山本堂の蔵王出現を伝える「蔵王大石」に擬して「蔵石」としたものが「御蔵石」…(中略)…今日の「五丈岩」に転訛したらしいのだそうです。もし本当にこういう変遷を経ているのであれば「五丈」の方が本来の姿かも?

水場

体質的に水の消費量が少ないことで仲間内では有名な私でも、尾根上を進むパートが長い3日間(しかも気温が高い予報)の山旅の中で初日から2日目にかけての水問題をどうするかについては少々悩みました。黒富士からチョキまでの間のいくつかの峠から標高にして100mほども下ればあるいは沢水を得ることができるのかもしれませんが、確実な情報が得られたのは木賊峠より先のコレイ坂南面の沢だけだったので、2日目の泊まり場までの分は最初から担ぐしかないだろうと割り切って、水2リットル・スポーツドリンク1リットル・麦茶1リットルを背負いました。

しかし実際に歩いてみると、初日の泊まり場となった木賊峠の手前の上図の場所に流水があって、これならコース(赤線)から「すぐそこ」と言える距離でした。もちろん日照り続きの後には涸れている可能性がありますし、仮に給水できたとしても煮沸して使用することが適当ではあるでしょうけれど、参考情報としてここに記録しておきます。

脚注

  1. ^原全教『奥秩父 續篇』(木耳社 1977年(「朋文堂 1935年」の復刻版))p.332(国立国会図書館デジタルコレクションによりオンラインで読むことが可能)
  2. ^おそらく八幡山の西北側にある枇杷窪沢沿いの林道を使ってアプローチしているものと思われる。
  3. ^山本義孝「深山田遺跡と中世修験道」『明野村文化財調査報告12 深山田遺跡付録』(明野村教育委員会 2003年)より引用。
  4. ^櫛原功一「甲斐金峰山と金桜神社」『山岳信仰と考古学II』(同成社 2010年)p.309

参考