金峰山〔表参道〕
日程:2022/05/03
概要:甲府市森林浴広場から表参道ルートを辿って金峰山に登り、反対側の廻り目平に下山。
⏿ PCやタブレットなど、より広角の画面で見ると、GPSログに基づく山行の軌跡がこの位置に表示されます。
山頂:金峰山 2599m
同行:---
山行寸描
ゴールデンウィーク中盤の三連休は久々に廻り目平でのんびりキャンプとボルダリングをして過ごそうと考え、山仲間のさとし&よっこ夫妻に「一緒にいかが?」とお声掛けして早々に快諾を得たのですが、名古屋から車でやってくる夫妻に対しこちらは公共交通機関をつないで川端下から歩くのも気が利かないので、甲府側から金峰山を越える男前なプランとすることにしました。
もっとも、このプランに含まれる「甲府側から金峰山」には先達があって、20年以上にわたり折々に拝見しているウェブサイト『やっぱり山が好き!』のsudoさんが昨年の秋にこの辺りを丹念に研究しておられる記録を読み、これに触発されたものです。そこでも言及されているように、『日本百名山』の著者・深田久弥は一高の生徒であった若き日に甲府駅から徒歩で昇仙峡を通り御岳の金櫻かなざくら神社で昼食、さらに歩いて黒平くろべらで1泊し、翌日の正午すぎに金峰山に登頂して快哉を叫んでから鉄山を目指したもののハイマツの深さに負けて川端下へ下降。途中で雨のビバークを余儀なくされて、3日目に梓山に下り着いています。そして『日本百名山』はこの金櫻神社から黒平・御室を経て金峰山に向かう道を金峰山登拝の表参道
としており、その裏付けとなる『甲斐国志』の金峰山に関する記述もこの道筋のことを詳しく説明しているのですが、実は金峰山への登路(御嶽道)は甲州側からだけでも九つあり、金櫻神社も複数存在(杣口・万力・歌田)した上に、この御岳金櫻神社からの表参道
は中世の修験道における峰入道ではなく江戸期に庶民が御師に導かれて詣でる道であった模様です(ちなみにsudoさんが下降で使った八幡尾根は峰入道のひとつ)。この辺りのことは調べだすとキリがなくなるので、適当なところで検討を打ち切って素直に表参道
を辿ることにしましたが、今回はワンデイで廻り目平まで達しなければならないので、山行の起点を金櫻神社ではなくさらに進んだ甲府市森林浴広場(かつての地名は「龍ノ平[1]」)としました。
2022/05/03
△08:50 甲府市森林浴広場 → △10:45 造林記念碑 → △11:50 水晶峠 → △12:10 KK分岐 → △12:20-35 御室小屋跡 → △13:10 片手廻し岩 → △14:55-15:00 金峰山 → △15:30 金峰山小屋 → △17:25 廻り目平
始発電車に乗って渋谷→新宿→高尾→甲府とJRを乗り継いでの列車の旅は約3時間。これはこれでなかなかつらいものがありました。
甲府駅北口でタクシーに乗って「甲府市森林浴広場へお願いします」と言っても運転手さんはその場所を知らず、最終的には私のiPhoneのナビに頼ることになりましたが、出がけに見た都心のビル群の景観が昇仙峡で花崗岩の岩塔の眺めに変わるのを見るとはるばる来たものだという実感が湧いてきます。車を走らせている途中で「金櫻神社まで1分」という看板を見掛け、1分で着くのであればひと目なりとも神社に立ち寄ってみてもよかったかもしれない……などと思っているうちにもタクシーはどんどん奥地に進んでいってしまいました。
甲府駅からタクシー代8,930円で着いた甲府市森林浴広場は文字通り林間の広場にちょっとした東屋が付属した施設で、驚いたことに数台の車が乗り入れてテントを張っていました。あたりを少し探索してみると「御岳昇仙峡水源の森」という案内板があり、そこにははっきりと金峰山への登山道も書かれています。よしよし、これを辿ればよいのだな。
しかし出だしに近いところから戸惑うことになったのは、広場から少し上がって林道の左手の尾根に上がるザレた急斜面で、ここはとても登山道の一部には見えません。後で『山と高原地図』を見るとルートを示す赤線はそのまま林道を奥へと進んでいるのですが、上記の案内板に従う限りこの尾根に乗らなければならないので、覚悟を決めてザレの斜面に取り付きました。すると、1段乗り上がったところから右に向かって登山道の痕跡があり、ピンクテープも残されています。この辺りは丹沢の廃道歩きに似た趣きがありますが、歩き通してみると道が荒れていると思える箇所はここだけでした。
やがて道は気持ちの良いカラ松林の中を穏やかに進むようになり、右前方から上がってきた広い道が折り返して右奥へと上がっていく地点でにぶつかりますが、この道は使わずに尾根の左(北)へ薄い踏み跡を辿るようになります。
すると北側の展望が開けたところで彼方に金峰山の五丈岩の姿が目に入りました。この日最初の金峰山との対面にテンションが上がり、歩くテンポも軽やかになってきます。
開けた尾根上を東に進むと先ほど離れた道が右から防火帯の中を上がってきて1,709.7mピークへ向かいますが、ここでもその道には入らずに左へ別れると、しっかりした登山道がほぼ水平にこのピークを西から巻いていきます。
1,709.7mピークとその北のピークとの間の鞍部に出たところで、地図には載っていない立派な林道が現れました。これはいかなこと?と少々戸惑ったものの、とにかくこの道を北へ向かえばよいことは間違いないので林道を進みます。
林道は北側のピークの先(北)で右に曲がりますが、その方向を変えるところに防火帯が分岐して直進しています。そちらへ進むと少し先で右側から先ほど分かれた林道が再び合流してきますが、登山道はここで林道を斜めに横切って右前方へと下っていきます。こう書くとルートファインディングが難しそうに聞こえますが、実際には要所要所にピンクテープがあるのでこれを地図と重ね合わせていけば判断は容易です。
小さい沢をひとつまたいで湿った道を進むと、またしても林道にぶつかるところに造林記念碑が出てきました。そこに彫られている文字はかすれ気味ですが、昭和39年にこの地での造林地が完成したこと、この森林が荒川の水源の涵養と共に将来の財源として市政に貢献するであろうという建立者の希望が書かれていることが読み取れました。この造林記念碑のところで林道を横断すると道は登りにかかることになりますが、ここでこの表参道のつくりがわかってきます。すなわち、金峰山から南西に伸びている顕著な尾根が上述の八幡尾根であるのに対し、この表参道はその南側を巻くように付けられており、このため八幡尾根から南へ派生する唐松嶺と水晶嶺の2本の尾根をまたいで荒川上流の御室川に入って、最後に御室小屋から金峰山頂へ突き上げる短い尾根を一気に急登するかたちになっているというわけです。なお、この唐松嶺の尾根を越える登り道の途中で反対側から来る単独のトレイルランナーとすれ違いましたが、この日出会った登山者は金峰山頂に着くまで彼だけでした。
唐松嶺を越えて神子ノ沢を渡り、水晶峠に向かう枝沢を詰めて行くと沢登ラー的には興味をそそられる多段のナメ滝が出てきましたが、もちろん道はその右を巻いています。
やがて植生が変わってシャクナゲやシラビソの類が目立つようになり、高さを上げて尾根を乗り越すところに「水晶峠」の標識が出てきました。
先ほどの水晶峠から少し下ったところにも「水晶峠」の標識がありましたが、さすがにここは峠と認識できる地形ではないので何かの間違いでしょう。それよりも「水晶盗掘禁止」の看板の方が驚きで、これがあるということは今でも水晶が採れるということなのだろうか?とついあたりを見回してしまいました。
地図上の登山道は御室川に入らないように書かれていますが、先ほどの「水晶盗掘禁止」の看板とピンクテープに導かれると涸れた河原に入っていくことになります。そして白い岩がごろごろして歩きにくい川の中を進むとケルンが現れ、その右(左岸)には「金峰山」の標識がありました。一見すると金峰山への道はここで左岸に入るのか?と思いがちですが、よく見るとその標識は矢印の形になって上流を指しているのでこのまま進めばよいことがわかり、同時にここがアコウ平からの道を合わせるKK分岐と呼ばれる場所であることも了解されますが、単なるショートカットに思えるアコウ平からここまでの道は、実はかつて塩山から金峰山を目指す際の東口参道の一部だったところです。
KK分岐からわずかに進むと、小広い御室小屋跡に出ました。各種記録を読むと2015-2016年の間のどこかで解体されたらしく廃材が整理された状態でしたが、かつてはここに宿坊があって御師が入山料を徴収していたそうです。また、先ほど通過した水晶峠には半鐘があり、そこを通る者は鐘を鳴らして小屋の者に来訪を知らせていたので半鐘峠とも呼ばれていたと伝わります[2]。ところで、この小屋跡の奥(金峰山寄り)に石段のようなものがあり、ここを通過したときは単に小屋の一部なのだろうと思っただけだったのですが、後で在りし日の小屋の見取り図を見たところ、それはここにあった御室神社の一部だったようです。そうだとわかっていればもう少し丹念に観察したのですが、惜しいことをしました。
御室小屋跡の先からは、金峰山に向かって一直線に突き上げる短い尾根の急登となります。岩がちになったと思ったら梯子が現れ、その上には鶏冠岩がごつごつと聳えていました。これは面白いぞ、というのはぬか喜びで、ルートは鶏冠を巻いていきます。
外傾したスラブのトラバースは高度感あり。岩のフリクションは良好ですが、濡れているときや下降の場合はやはり鎖頼みとならざるを得ません。大昔、慶応の学生が左の谷に滑落して亡くなったそうで、その谷には慶応谷という名前が付けられています。
鶏冠を回り込んで行くと前方に五丈岩がよく見える場所があり、その手前には平ヶ岳の卵石を大きくしたような奇岩が聳え立っていました。あれが片手廻し岩です。再び梯子を使いながら高度を上げていくと、遠くに思えた片手廻し岩に案外早く到着しました。
これが足元から見上げた片手廻し岩で、上述の『甲斐国志』には隻手囘ト云數丈ノ巌アリ
と書かれている存在です。観察してみたところその肩までは容易に上り下りできそうですが、てっぺんの卵の部分は取り付く島もない感じ。
それにしても片手廻しとはおかしな名前ですが、その足元には勝手明神の祠があったそうですから、勝手→片手と転訛したものだろうと思います。今も石碑と梵字が書かれた木札が祀られていますが、ここまで表参道という割には宗教的なモニュメントが見られないなと思っていたのでこれを見て少しほっとしました。しかし、実は御室小屋跡にも探せばそれらしいものが見つけられたであろうことは上述の通りですし、かつては金櫻神社からここを通って金峰山頂まで全部で10の鳥居が立っていたのだそうです。
その後もぐいぐいと高度を上げ、ところどころではザレたトラバースが出てくることもありますが、そうした場所にはロープが張られているので危険を感じることはありませんでした。
標高が2300mに近づいたあたりで登山道上にしっかり雪が付いた状態になってきたため、チェーンスパイクを装着しました。雪は適度に硬く、チェーンスパイクが良く利いてくれました。
いよいよ五丈岩を眼前に見上げる位置まで上がってきました。この角度で見る五丈岩というのはなかなか新鮮です。
山頂直下には石垣があり、その上の広場状の場所には明治の途中までは金櫻神社の本宮である蔵王権現の祠(修験道の根本道場である吉野の金峯山寺の本尊は金剛蔵王大権現であることに留意)があったということですが、今は小さな石祠と石燈籠2基が建っているだけです。そして「五丈岩は御神体なので登ることは厳禁」だという金櫻神社の注意が書かれた金属製の看板も立っていましたが、私がここに登り着く少し前に五丈岩を見上げたところ、その上には登山者が意気揚々と乗っていたのでした。
金峰山の山頂からぐるりと周囲を見回して山岳展望を楽しみましたが、ここから東に伸びる奥秩父主脈の山々のたおやかな姿は、いつ見ても懐かしい気持ちにさせられます。
思ったよりも時間がかかり、この時点で15時です。幸いdocomoの電波が通じているので廻り目平にいるはずのさとし&よっこ夫妻に下山予定時刻を連絡し、ここからは脇目も振らず下ることにしました。さらば五丈岩。
金峰山小屋の向こうに大きな山体を寝そべらせている小川山と、その右端にギザギザと花崗岩の突起を突き出している屋根岩ほかの岩塔群を目指して一目散に下ります。予定では3時間かかるはずでしたが、雪が残っている区間が短かったこともあり2時間半ほどで廻り目平に着くことができました。
そしてそこには、懐かしいさとし&よっこ夫妻と醸し人九平次が3人で私を待ってくれていました。
甲斐國金峰山金櫻神社御嶽山晩春之圖
この表参道を描いた絵図に、御岳金櫻神社から黒平を経て金峰山五丈岩までの道筋、沿道の社、山川、滝などを描いた「甲斐國金峰山金櫻神社御嶽山晩春之圖」があります。詳細に描かれた金櫻神社境内の様子からこの絵図は寛政4年(1792年)から文政3年(1820年)までの間に製作されたものだと推定されており[3]、その実物(掛軸)は笛吹市の山梨県立博物館に収蔵されています。
私は2024年5月に山梨県立博物館を訪れてこの掛軸の実物を見ましたが、ネット上で見られる画像のくすんだイメージとは異なり、鮮やかな色彩と緻密な筆致で描かれる絵図の出来栄えは素晴らしく、思わず足を止めてじっくり見入りました。
山梨県立博物館にはこの絵図の他にも甲斐の国の歴史を楽しく体系的に学べるさまざまな史料が展示されており、また博物館自体が公園風の広い敷地の中にモダンな外観の建物をひっそりと佇ませて雰囲気のよいところなので、金峰山登山を終えた後に時間のゆとりを作って足を運ぶことをお勧めします。(2024/05/20追記)
脚注
参考
- 金峰山表参道に関して
- sudoさん『やっぱり山が好き!』(2022/05/06閲覧)
- S.Tom.さん『樵路巡遊』(2022/05/06閲覧)
- 高野鷹藏「秋の金峰山」『山岳』第2年第1號(日本山岳会 1907年3月)p.41-60(本稿の存在は上記『樵路巡遊』の記事で知り、古書店で復刻版を購入して参照した)
- 原全教「金峰参道」『奥秩父 續篇』(木耳社 1977年(「朋文堂 1935年」の復刻版))p.330-354(国立国会図書館デジタルコレクションによりオンラインで読むことが可能)
◎「小川山の岩場」へ続く。
◎2024年に歩いた金峰山八幡尾根の記録は〔こちら〕。