丹沢横断③

No. 994

日程:2026/03/23-25

概要:2泊3日で西丹沢から東丹沢へつなぐ丹沢横断コースの第三弾。山中湖畔の旭日丘を起点として、初日は籠坂峠まで登り大洞山、三国山、不老山をつないで丹沢湖畔に宿泊。2日目は丹沢湖畔から丹沢湖南側の稜線に上がり、檜岳山稜・茅ノ木棚山稜を歩いて鍋割山を越え、塔ノ岳の尊仏山荘に宿泊。3日目は丹沢山から丹沢三峰を宮ヶ瀬へ下る。

◎PCやタブレットなど、より広角の画面で見ると、GPSログに基づく山行の軌跡がこの位置に表示されます。

◎GPSログのダウンロードは「ヤマレコ」から(要ログイン)。

山頂:大洞山 1383m / 三国山 1343m / 不老山 928m / 日影山 876m / 檜岳 1167m / 鍋割山 1272m / 塔ノ岳 1491m / 丹沢山 1567m

同行:---

山行寸描

▲1日目。大洞山の季節外れの雪景色。(2026/03/23撮影)
▲2日目。檜岳山稜の明るいブナの道。(2026/03/24撮影)
▲3日目。霧にけむる丹沢三峰のブナ林。(2026/03/25撮影)

丹沢の西端から東端までを日数をかけて歩く「丹沢横断シリーズ」もこれが3回目。丹沢での長尺山行の端緒となった2014年の丹沢全山縦走と過去2回の丹沢横断のルートを地図上に示すと次の通りです。

▲丹沢全山縦走2014(オレンジ) / 丹沢横断①2023(パープル) / 丹沢横断②2025(マゼンタ)。

このうち丹沢横断の1回目2回目はいずれもバリエーションルートを組み込んでのアイデア勝負を仕掛けてきましたが、今回は奇を衒わずになるべく登山道を使って「長距離を歩く」ことにフォーカスしました。よってヘルメットなし、ハーネスなし、ロープなし。西端は同じ山中湖畔ながらこれまでの平野ではなく旭日丘として籠坂峠から稜線を目指し、東端も従来の県道64号(伊勢原津久井線)で終わりにせず相州アルプス縦走で掉尾を飾るプランを立案しました(しかし後述のとおり3日目が天候に恵まれず、相州アルプスは割愛せざるを得ませんでした)。

昼頃に自宅を出て最寄駅の渋谷に向かうと、渋谷マークシティの出口の桜(道玄桜)が開花していました。いよいよ春たけなわ、つまりあいつら(ヒル)の季節が近いということか……などと考えながらバスタ新宿から高速バスに乗って、山中湖旭日丘まで2時間あまり。宿の近くにはセブンイレブンがありますが、ここは名前の通りに7時から23時までしか営業していないので、先に翌日の朝食や行動食を調達してから投宿しました。早めにとった夕食は具だくさんの富士山カレーで、お味もなかなか。霊峰の神通力を借りて、明日からがんばろう。

2026/03/23

△05:00 山中湖旭日丘 → △05:30 籠坂峠 → △06:35 立山 → △06:45 畑尾山 → △07:35 大洞山 → △08:35 三国山 → △09:30 明神峠 → △11:50 世附峠 → △12:25-35 不老山 → △13:05 番ヶ平 → △13:40 六郎小屋山 → △15:05 三保ダム → △15:15 落合館

まだ真っ暗な午前5時に宿を出て、暗い車道をトラックが行き来するのに巻き込まれないように気をつけながら籠坂峠を目指します。

うっすら明るくなってきた頃に登山道の入り口に着き、そこから道標に従いなぜか墓地の中を抜けた先から山道が始まりました。地形図上の等高線の間隔が示すとおり、道は緩やかに高度を上げていきますが、先ほどからちらほらと白いものが降っているのが気になります。

「気になります」どころか、主稜線上に達する頃にははっきりと雪が降っており、あたり一面真っ白。さすがにこれは予想していませんでしたが、幸いうっすら積もっている程度で歩行には支障なく、いったん西へ数分の立山のピークを確認してから反転して畑尾山、大洞山、楢木山と続く山々を越えて歩きました。この「丹沢のしっぽ」とでも言えそうな籠坂峠から三国山までの区間=三国山稜はこれまで歩いたことがなく、したがって今回の山行の目玉でもあるのですが、アップダウンが少なくて歩きやすく、しかも優しいブナ林が広がっていて、これなら新緑や紅葉の季節にもう一度歩いてみてもいいと思えるほど快適な道でした。

やがて三国山に達して少し進むと、北東方向に幽玄な丹沢の山々の眺めが広がりました。それにしても、三国山の山頂を境にして東側は雪がほとんど見られないのが不思議です。

車道沿いの山道をしばらく歩いて水ノ木へ通じる道が分かれているところが明神峠ですが、この車道を横切ってさらに進むと稜線上に石祠が建っていました。地形図を見るとそこは南に伸びる尾根を分岐させている場所なので、もしかしたらここがかつての明神峠だったのかもしれません。

2021年に悪沢峠・世附山神峠越えを行った際に調べたところによれば、山中湖周辺は土地が痩せていて農業だけでは暮らしていけないため、ここに住む人々は農閑期には駄馬を使った運送業(駄賃附け)で現金収入を得ていたそう。このうち平野部落の場合は、水ノ木に半年ほど定住してそこから積み出した薪炭を駿河小山へ運び、帰路には生活必需品を持ち帰ることが中心でしたが、中には平野部落を早朝に出て水ノ木に降り、馬の背に荷を積んで駿河小山に運び、帰りは空荷で明神峠・三国峠を越えてその日のうちに平野部落に戻る場合もあったということです。この仕事は娘や子供がやらされたそうで、帰りが暗くなるために明神峠で馬が言うことをきかなくなり思案に暮れて家の方に向って大声で呼んでみたという話が伝わっています[1]から、この祠の場所で涙にくれた子もいたのかもしれません。

ちなみに、この日の事実上のスタート地点である籠坂峠は駿州と甲州を結ぶ物流ルートですが、その運搬を担ったのはやはり山中湖畔の山中部落の馬だったそうです[2]

それはさておき、明神峠からさらに東へと歩いていくと、湯船山やいくつかの峠を過ぎてサンショウバラの丘(樹下の二人)に達し、前方に不老山の姿が見えてきました。この場所のゆったりと寛ぎやすい雰囲気もさることながら、この稜線上や世附峠、不老山への登山道にはかつて岩田㵎泉氏手製の標識が並んでいて壮観だったのですが、もはや跡形もありません。

世附峠からひと頑張りで不老山に到着。この山もヒルが多いことで有名ですが、どうやらまだ活動期には入っていない様子です。やれやれ。

今宵の宿は丹沢湖畔にあるので、不老山から丹沢湖へ下る道をどうするかが思案のしどころです。きちんとした登山道を使うなら、東へ向かって山市場あたりに下り車道を淡々と北上すればいいのですが、それではさすがに芸がなさすぎます。そこで番ヶ平から登山道を離れて太郎小屋山(本来は木地師が使う轆轤ろくろに由来する「六郎小屋山」)から適当な尾根を選んで下ることにしたのですが、三保ダムへダイレクトに下る東北東尾根は下降に使うには等高線が詰まり過ぎているように思えたので、より緩やかな世附大橋へ下る北尾根を採用しました。かくして明るく開けた太郎小屋山から方向を見定めて下っていくと、案の定そこにはピンクテープが続いており、やがて歩きやすい(しかし折り返しばかりでなかなか高度を下げてくれない)仕事道が出てきて、ほぼ危険なく丹沢湖まで下っていくことができました。

噂には聞いていましたが、確かに丹沢湖の湖面がずいぶん下がっていて、沿岸の地肌がむき出しです。湖底に沈んだ世附村の遺構の一部が姿を現したという話も聞きましたが、気が付かなかったのはもっと上流なのか、それとも水位が多少なりとも上がったのか?なお、ここではそうした遺構を見ませんでしたが、2日後の帰り道に、土山峠近くでいつもは宮ヶ瀬湖の水面下にあるはずの道路が露出しているのをバスの中から目撃しました。

時間にゆとりがあるので、世附大橋を渡らずに湖岸を歩いて三保ダム見学。初めて見る三保ダムはいかにも立派な構造物でしたが、この水位ではダムがダムの役割を果たしていません。


今日の宿は、去年もお世話になった「落合館」です。

熱い風呂に入ってさっぱりして、例によっておいしい夕食にお酒もつけて、まずは第一日の終了です。

2026/03/24

△07:25 落合館 → △09:00 秦野峠分岐点 → △09:50 日影山 → △11:20 秦野峠 → △12:10 伊勢沢ノ頭 → △12:35 檜岳 → △12:55 雨山 → △13:25 雨山峠 → △14:15 鍋割峠 → △14:40 鍋割山 → △15:50 塔ノ岳(尊仏山荘)

今日の行程はさして長くないので、しっかり朝食をとってから出発しました。お世話になりました。

山登りのスタートにあるまじき高さのお日様を見上げてから車道を少し歩いて、三保ダムの近くから尾根に取り付きました。こんなところに登山口があるということも、今回のコースの検討過程で初めて気付いたことです。「丹沢横断」のような長尺歩きは、もちろん歩く過程も楽しいのですが、その前にコースを設計していく中で新しい知見を得られることの方が醍醐味で、実際の歩行はそうした知見も活かしながら自分が立てたプランの妥当性を自分で検証する作業だと言うことができます。

尾根につけられた階段を上がると、そこには馬頭観音やら山神碑やらが並んでおり、その裏には神社がありました。当然これに立ち寄って今日一日の無事を祈願したのですが、狛犬の代わりに砲弾のようなものが立てられているのがなんとも不思議。由緒書きが見当たらずその由来は不明ですが、出発が遅かったのでこれは宿題にして先を急ぐことにします。

大野山と日影山をつなぐ稜線に丹沢湖畔から上がるこの道は、部分的に際どいところもあるものの、ある程度登ると見通しの良いブナ地帯になり気持ちが晴れてきます。

尾根の途中からは北北東に遠く檜洞丸が聳えており、その前景として大ノ山の斜面にミツマタの黄色い花が満開になっている様子を見ることもできました。あれがいわゆる「ミツマタヒルズ」です。

地図上に「秦野峠分岐点」とある場所に到着。秦野峠ははるか彼方なのでどうしてそういう地名にしたのか不明ですが、ここは懐かしい。2017年の西丹沢周回のときに日没と競争しながら逆方向から達した場所で、その先(2017年は「その手前」)の竹藪地帯も見覚えがあるものです。

小広く開けた日影山山頂は別名「ブッツェ平」。このあたりは南北朝の落武者伝説が残されている土地柄ですが、このブッツェ平もその一つで、漢字にすると「武士平」です。

そんなことよりも、問題はこの日影山から東の鞍部への急降下です。等高線が詰まっている上にザレて滑りやすいこの斜面は過去に2回登っていますが、下りとなればまた向き合い方が違うというもの。ここだけのために持参したチェーンスパイクを足に装着して、一歩一歩確かめながら慎重に下りました。

日影山の東で秦野峠林道が横断している箇所で小休止として行動食をとり、引き続き登山道のない区間の縦走を継続します。

さらに若干のアップダウンをこなして、ふと見上げるとそこに道標あり。ようやく正規の登山道に合流しました。そこから少し下ると鞍部があり、ここから正面の尾根を直登するのかと思いきや、右に若干下って沢沿いのとても「峠」とは言えない場所が現在の秦野峠で、伊勢沢ノ頭へはここから登ることになります。かつては先ほどの鞍部を越えて玄倉と寄を結ぶ道がつけられており、さらに伊勢沢ノ頭の西斜面を横断して山神峠へ通じる道もあったのですが、今はこの場所は峠としての役割を果たしていないので、名前を変えた方がいいのでは?などとお節介なことを考えてしまいました。

その「秦野峠」から伊勢沢ノ頭に向けては一直線の鉄砲登り。真っ青な空に向かってひたすら足を上げ続けます。

伊勢沢ノ頭から先は水平に近い檜岳山稜となり、明るいブナの尾根道を歩いて檜岳・雨山を越えていきます。この区間を歩く1時間ほどが、今回の山行の中で最も気持ちのいい時間帯だったかもしれません。

やがて、これまた懐かしい雨山峠に到着しました。かつての岳人たちが谷川岳などの本番に挑むための前哨戦として、渋沢からの道を夜通し歩いてこの峠を越え玄倉川上流の沢に向かった由緒ある峠ですが、見たところでは特に玄倉川側の道が落ち葉と土砂に覆われて廃道に近い状態です。確かにこれでは危険ですし、通行禁止措置もやむを得ません。残念なことです。

雨山峠から鍋割峠までの間の茅ノ木棚山稜には、かつて寄から玄倉川上流へ通じる道が通っていました。上の写真はその径路のひとつの痕跡を示すもので、寄方面から雨山峠へ通じる登山道(現在は通行止め)の最後の登りの手前に掛かっている空中標識の沢筋を詰めると山稜の途中に詰め上がり、その位置で登山道をまたぎ越すところに旧径路の跡が残っています。この道(私の見立てでは「オガラ沢乗越」)は斜面をトラバースして鉄砲沢右岸尾根の途中にある中ツ峠からオガラ沢に入り、玄倉川上流に通じていたのですが、今は斜面の崩壊により寸断されて正確にどう道が付けられていたかがわからなくなっています。どういうわけかこの「オガラ沢乗越」に興味を持った私は、このあたりに何度か通って道の跡を探し(下図参照)、部分的には跡づけることもできたのですが、昔の地図に載っているように等高線に沿って鉄砲沢上流を迂回する道筋を見つけることはできませんでした。

▲2022年から2024年にかけて茅ノ木棚山稜北面を歩いた軌跡。

そうした点を抜きにしても、この茅ノ木棚山稜はアセビの木の中を貫く白ザレと緑の苔に覆われた細い道が気持ちよく、多少危なっかしいところはありますが、歩いていて楽しいところです。

山稜の途中には「茅ノ木棚ノ頭」の標識が立っていますが、ここが本来の茅ノ木棚ノ頭ではないらしいということについては〔こちら〕を参照してください。

腕力を要する鎖場を登り切って、鍋割峠に到着しました。自分の丹沢バリエーションルート事始めは2020年の山神径路、ついで三ヶ瀬古道でしたが、翌年の鍋割峠越えこそが丹沢での廃道探しに本腰を入れ始めるきっかけでした。そういう意味で、ここは個人的に深い思い入れのある峠です。

相変わらず一見セクシーポーズの馬頭観音や、旧鍋割峠へ向かう径路跡も健在。これらを横目で見てから鍋割山への階段道を上がりましたが、さすがにそろそろ足が上がりにくくなってきました。しかし、今日の泊まり場である尊仏山荘には16時までに着かなければなりません。ここが頑張りどころです。

やっと尊仏山荘が視界に入ってきました。

最後は天国への階段(?)を一段一段登って、なんとか16時前に塔ノ岳の山頂に到着できました。やれやれ、疲れた。


尊仏山荘の今日の宿泊者は、私を含めて3組4人。各組ひと部屋ずつをあてがってもらってのゆったり宿泊です。

山荘の横では作業員さんたちが整地中。夕食のおいしいカレーをいただきながら小屋番さんから聞いたところによれば、これは旧尊仏小屋の跡地に尊仏山荘の建物を増築するもので、そのことにより将来の現尊仏山荘の老朽化に備えるのだそうです。

2026/03/25

△06:50 塔ノ岳(尊仏山荘) → △08:05 丹沢山 → △08:55 太礼ノ頭 → △09:20 円山木ノ頭 → △09:50-10:00 本間ノ頭 → △11:50 高畑山 → △13:15 宮の平バス停

朝食は午前6時からで、これは日の出見物が一段落したタイミングを見計らってのものですが、あいにく塔ノ岳の山頂はガスの中。日の出の「ひ」の字もありませんでした。しかも悪いことに、山行開始前の天気予報では雨が降り出すのはこの日の夕方からということだったのに、今朝の天気予報ではそれが早まって11時頃から降雨が始まるということです。それは困るなぁ。

ともあれ小屋番さんに御礼を言って、ガスの中に飛び出しました。上述の工事のために丹沢山方面の登山道は短く付け替えられていますが、山荘の建物のすぐ裏で従来の登山道に復帰します。

丹沢山への道はずっとガスガス、そしてところどころドロドロ。

丹沢山では足を止めることなく、ただちに宮ヶ瀬へ下る道に向かいました。この道=丹沢三峰を歩くのは1984年以来、実に42年ぶりです。

出だしは半分氷化した雪が残り、また倒木が道を塞いでいる場所もあって歩きにくく感じましたが、やがてブナの林の中に入ると道が落ち着いて、足がはかどるようになりました。

アップダウンを繰り返しながら太礼ノ頭・円山木ノ頭を越え、三峰最後の本間ノ頭にベンチがあることを見つけて少し早いながら弁当タイムとしました。ふたを開けてみると、なんという豪華版!山小屋によってはおにぎり2個+漬物だけというところもある中で、この弁当のすばらしさには感激しました。尊仏山荘さん、ありがとう。

歩行再開。このあたりでは、道の左はブナの森、右はツガとアセビが目立ちます。何が原因でこういう非対称な植生が生じるのか、知りたいものです。

ずっと尾根通しだった道が、松小屋ノ頭の手前から側面をトラバースするようになり、それと共にワイルドな作りになってきました。手すりもなく恐ろしい桟道や妙に鎖の位置が低い鎖場の下り、外傾した岩のトラバース、雨でつるつる滑る木道と崩壊地の狭い踏み跡。42年前の登山初心者だった自分も、こんなところを歩いたのだろうか?

予報より少し早く10時半頃から本降りの雨になりましたが、高畑山に登り着いたらもう危険を感じるところはありません。ところどころに鮮やかな色の椿の花がぽとぽとと落ちているのを見下ろしながら歩き続け、御殿森ノ頭の石祠と下山直前の尾根上にある山神社に無事下山の御礼を申し上げて、そこからひと下りで車道に降り立ちました。

降りたところから最寄りのバス停は三叉路バス停ですが、もう一つ先の宮の平バス停には屋根つきの待合スペースがあって、ここで落ち着いて濡れ物を着替えパッキングをし直すことができました。当初の計画ではさらに足を進めて相州アルプスに登り返し、高取山・仏果山・経ヶ岳の山頂を踏んで半僧坊方面へ下ることにしていたのですが、この雨での山行継続はただの苦行です。よって山行をここで打ち切ることにし、のんびり本厚木行きのバスを待ちました。

最後が尻切れトンボになったのは残念でしたが、泣く子と天気には勝てぬと言いますから、これはこれで受け入れるしかありません。そこで過去2回の丹沢横断と今回とを比較してみると、次のようになりました。

▲丹沢横断①2023(オレンジ) / 丹沢横断②2025(パープル) / 丹沢横断③2026(マゼンタ)。

ヤマレコにGPSログを読み込ませて測ったところでは、丹沢横断の①が総距離58.7km・累積標高差(登り)4,909m、②が66.5km・4,871mに対し、今回の③は53.2km・3,787mなので、率直に言って小粒感は否めません。しかし、一度歩いてみたいと思っていた三国山稜を辿ることができ、我が愛する茅ノ木棚山稜に再訪し、42年ぶりの丹沢三峰も歩けた上に、日替わりでころころ変わる天候の中でさまざまな丹沢の表情を見ることができたので、これらを収穫としてこの山行を前向きに評価したいと思います。

渋谷に帰ってみると、道玄桜の開花状況はさらに進んで三分咲きくらいになっていました。丹沢を歩くなら急がなくては。

脚注

  1. ^山中湖村史編集委員会「平野部落の駄賃附け」『山中湖村史』第三巻(山中湖村役場 1978年)p.773
  2. ^山中湖村史編集委員会「山中部落の駄賃附け」『山中湖村史』第三巻(山中湖村役場 1978年)p.730