三増峠〜津久井城山

日程:2024/03/11

概要:三増合戦の古戦場跡から三増峠に登り、いったん志田峠に下って車道を北進し尾根上に登り返して雨乞山。関東ふれあいの道を津久井城山まで歩き、津久井湖を渡って峯の薬師から草戸山を越えて高尾山口駅まで。

⏿ PCやタブレットなど、より広角(横幅768px以上)の画面で見ると、GPSログに基づく山行の軌跡がこの位置に表示されます。

山頂:雨乞山 429m / 津久井城山 375m / 草戸山 364m

同行:---

山行寸描

▲津久井城山中腹の展望広場から見た丹沢。中央右寄りの高いピークが蛭ヶ岳、左寄りの突起は仏果山。(2024/03/11撮影)

当初このタイミングは西丹沢でミツマタ探しの山歩きをする予定だったのですが、ここ半月ほどの寒さや雪のせいで山の上ではミツマタは咲いていないだろうと言う助言を得たことから、手元の「いつか行く」リストから津久井城山を引っ張り出しました。この津久井城は、昨年12月に北高尾山稜を歩いたときに八王子城の遺構を見物した際にその存在も知り、いずれこちらも見ようと思っていたものです。

また、どうせ行くならと三増合戦の古戦場を起点にして、三増峠と志田峠を経てから津久井城山に登ることにしました。さらに、時間次第では高尾まで歩こうと欲張ったプランにもしていたのですが、津久井城探訪に時間がかかったために高尾山口へエスケープしました。

2024/03/11

△07:20 上志田バス停 → △07:30 三増合戦場碑 → △08:40 三増峠 → △09:30 志田峠 → △10:35-45 雨乞山 → △12:05-35 パークセンター → △13:20-25 津久井城山 → △14:45 峯の薬師 → △15:25 草戸山 → △16:20 高尾山口駅

山旅の起点を三増合戦場碑あたりとすると最寄りのバス停は上志田というところになるのですが、ここに朝に着けるバスの便というのは平日の1本しかありません。このためあえて選んだ月曜日のほぼ始発電車で、バスの起点となる本厚木に向かいました。

本厚木バスセンターからバスに揺られて約50分、降り立った上志田バス停周辺はだだっ広い平地になっており民家らしいものも見当たりません。ここからまず西に少し歩いたところにある胴塚と首塚〔後述〕を見に行ってから、東に戻って三増合戦場碑を訪ねました。

このあたりは大まかに言うと南東へ下る中津川と相模川との間で北西と北東を山で囲まれた台地状の地形で、川の流れに沿って緩やかに南東へ傾斜しており、何本かの小川がところどころで台地を縦に分断していることが地形図からも読み取れます。そしてここは信濃や甲斐から鎌倉への街道が通っていたところであり、この平坦地や北西の山岳地帯で永禄12年(1569年)に武田・北条両軍の間で繰り広げられたのが「三増合戦」または「三増峠の戦い」と呼ばれる戦いです。ここに直接的に往時を偲ばせる遺構が残っているわけではありませんが、「史跡 三増合戦場」と彫られた石碑を中心にこじんまりとまとめられた一角には戦の背景や経過を詳しく説明する案内板や供養塔、東屋などがあり、趣きが感じられます〔後述〕。

三増合戦場碑から「三増合戦みち」を東北東に歩いた先に諏訪神社が出てきたので、ここに立ち寄ってこの日の山行の無事を祈願しましたが、境内を探索してみるとここには飯能などでおなじみの三頭獅子舞が伝わっているほか、字はほとんど読めないながら三増合戦を振り返る内容の碑文が刻み込まれた石碑が立っていました。この諏訪神社だけでなく周辺の他の神社や寺院にも、もしかすると三増合戦にまつわる見どころが残されているのかもしれませんが、それらを丹念に探して歩く時間のゆとりは今日のところはありません。

諏訪神社の少し先で厚木愛川津久井線(県道65号)に入りこれを北西へと緩やかに登っていくと、行く手に三増峠の鞍部を持つ山並みが見えてきます。想像していた以上に低いその山並みを眺めながらさらに進むと峠の下のトンネルの手前右側に三増峠に通じるハイキング道の入口がありました。

ハイキング道はしばらくは舗装路、その後普通の山道になりますが、よく整備されていて歩きやすく、あっという間に三増峠の上に着きました。人馬や輜重からなる大部隊の軍勢が通行できるようには見えないほどこじんまりとした峠でちょっと拍子抜けですが、それもそのはず、実際には武田軍はこの後に訪ねる志田峠やその手前の中峠など複数の峠道を使って山越えをしていました。ともあれここはこの日の主要目的地の一つ。そして峠の向こう側には林道が上がってきていましたが、向かう先はそちらではなく左の尾根上です。

その前に、峠のお地蔵様にご挨拶。ハイキングコースの入口にあった解説によればこのお地蔵様は明和5年(1768年)に作られたもので、卍の漢訳である「吉祥海雲」と彫られた台座を含めた頂部までの高さは190cm。麓の町にある「下ノ原の地蔵尊」とほぼ同じ大きさで相互の距離が1里であることから一里塚的な性格を持つという話もあるそうです。

お地蔵様に手を合わせたらその左手から尾根筋に乗って地形通りに南西に向かい、志田山を越えました。この前後は整備された登山道というわけではないものの道形は明瞭で、ピークには看板もあり、多くの人に歩かれているらしいことがわかります。そしてこの日の最初の判断分岐は地形図上のP417手前の分かれ道で、そこから北に進めば素直に尾根を辿って次のピークである雨乞山に達することができますが、今回の山行のコンセプトである「三増合戦故地探訪」に照らせば志田峠も踏んでおきたいところ。どうやら同じことを考える人は少なくないようで、雨乞山方向を示す印ばかりでなく志田峠方向を示すテープが木の幹に巻きつけられていたのには驚きました。

ここから先はしばらくは尾根上の平坦な踏み跡を追うだけですが、そのまま地形なりに進むと志田峠の南に向かってしまうので、峠へぴったり降りるためには傾斜が変わる手前あたりから読図が必要になってきます。そうなると(懸念していた通りに)姿を見せるのが例の紫のスズランテープ。後から歩く者のバリエーション歩きの楽しみを奪うこの無粋なテープをある人が「丹沢汚し」と名付けていましたが私も同感で、この日たまたまナイフを持ってきていなかったことを後悔しました。ただ、このテープに背を向けてあえて違う方向にしばらく進んでみても、途中から軌道修正して本線に戻ってみるとスズランテープが待っているということが繰り返されたので、テープの主のルートファインディング能力が確かであることは認めざるを得ません。

チェーンスパイクのお世話になることもなく無事に志田峠に降り着いてみると、そこには立派な車道が通っていました。後で記すように、当初北条軍有利に進んでいた合戦の帰趨をひっくり返したのはこの峠を越えて戦場に合流した武田方の山県隊だったそうです。

峠の南側は何かの工事が行われているらしく工事関係者以外立入禁止になっていましたが、ちょっとだけお邪魔させてもらって南東方向を見下ろせる場所に立ってみると、相模平野の見事な展望が広がっていました。写真ではわかりにくいですが、肉眼でははっきりと海が見えており、その向こうの陸地は方角からして三浦半島であるようです。

志田峠からは元来た道を戻ってP417から北に向かう道に回帰するのもありですが、それでは軌跡が美しくありません。そこで西北西へ車道をしばらく下り、地形図上に「東京農工大農場」と書かれている箇所の南側で車道から分岐して沢筋に踏み込む破線ルートを歩いて尾根へ乗り返すことにしました。

ところがこれは大失敗。確かに最初のうちこそ沢沿いに踏み跡がしっかり付いていたのですが、やがて倒木が行く手を阻んだり斜面が崩れて沢の中を歩かなければならなくなったり。どうやらこの破線ルートは完全に廃道と化しているようです。

悪戦苦闘の末にやっと登山道に乗り上がるとこれが「関東ふれあいの道」(韮尾根〜雨乞山間)で、先ほどまでの悪路が嘘のようによく整備された道になっていました。そしてこの道を少し右へ進んだところから左へ鋭く切り返す方向が雨乞山ですが、この屈曲点からそのまま右奥へ続いている道は先ほど志田峠へ降りる前に通過した分岐点に通じているはずですから、志田山から西進してP417の手前で(志田峠に向かわずに)右に折れていれば、おそらく正規の登山道並みの歩きやすさを享受できたはずです。

金属製のミニ鳥居以外にこれといった特徴のない雨乞山の山頂でこの日初めての小休止をとり、行動食を口に入れてから縦走を継続。「関東ふれあいの道」の整備具合はその先も素晴らしく、道迷いの心配もなくすいすい歩くことができました。

山道を抜けて開けた場所に出ると、目の前に津久井城山が聳えていてびっくり。実際には「聳える」という言葉を使えるほど高い山ではありませんが、それでも堂々たるその威容からしばらく目が離せませんでした。

雨乞山から降りたところからは市街地や畑の中を通り抜け、相模灘の久保田酒造の前で橋を渡り、目についた祠にお参りしたり道端の道祖神に挨拶したりしながら街中を進んで津久井城山を目指します。

津久井城山の麓にある県立津久井城山公園のパークセンターには史跡としての津久井城にまつわる歴史や城山の自然の紹介展示が充実しており、屋外でのアイスクリーム休憩も含めて30分ほどもここで使いましたが、それでもざっと駆け足での見学に終わってしまいました。

パークセンターの前から幅広い道が緩やかに山腹を巻いていますが、山頂に向かう道はその途中から始まる細い山道(城坂)です。しかしこうした分岐には必ず丁寧な案内板や道標があり、現在地や向かう方角に迷う気遣いはありません。

山腹に開けた展望広場に立ち寄ってみると、そこからは左にこの日踏んできた三増峠や雨乞山、正面から右寄りには丹沢の山々がきれいに見えています。特に蛭ヶ岳や丹沢山といった丹沢主脈の山々は残雪で白く輝いており、今年の丹沢の雪の多さを実感しました。

再び山道(車坂(男坂))に戻ってそこそこの急坂を登っていくと山上の四辻に出ます。津久井城山は東西二つのピークを持っており、ここから右(東)に登ると飯縄曲輪、左(西)に登ると本城曲輪のある山頂で、まずは飯縄曲輪を目指しました。

飯縄曲輪には今は飯縄神社があり、ここでもお賽銭を納めて安全祈願。このピークの近くには烽火台の跡らしき広場や宝ヶ池と名付けられた小池、そして2013年に落雷によって焼け落ちた樹齢900年の大杉が点在しています。

宝ヶ池の水はお米の研ぎ汁のような白さを持っており、城兵が刀を研いだとも言われているそう。水質はともかく、山城にとって貴重な水源だったに違いありません。

四辻に戻って今度は山頂に向かうと、途中には家老屋敷や太鼓曲輪と名付けられた曲輪があり、尾根上には堀切の跡も残っていて、この城が多大な労力を掛けて造成されたものであることがわかります。麓の居住設備の実態はわかりませんが、こと山上の縄張りに関して言えばこの津久井城は八王子城に勝るとも劣らない立派な構えだと思えました。

山頂の本城曲輪は二段の広場になっており、一番高いところには「築井古城記碑」という見事な石碑が立っていました。これは津久井城の城主・内藤氏の家臣だった島崎氏の末裔で麓の根小屋村の名主である島崎律直により文化13年(1816年)頃に建立されたもので、津久井城の落城(1590年)から200年以上もたってこうした石碑が建てられるところにも津久井城の歴史の重みが窺えます。

山頂から津久井湖を見下ろして、これでこの日の二つ目の主要目的地である津久井城山の探訪は終了です。気分的にはこの日の目的は二つとも達成したので下山したらバスに乗って帰路についてもいいところですが、この時点でまだ13時半頃なのでもう少し足を伸ばすことにしました。なお、ここから後はいわば付け足しの行程なので、記録の方もさらっと流します。

まずは再び四辻に戻って北斜面の「女坂」という名前の割には少々際どい道を下り、途中からジグザグ道の小網登山道に入って下界に降ったら三井大橋で津久井湖を渡り、途中で江戸時代の浄土宗の高僧・徳本を記念する「徳本碑」なる巨石を横目に見ながら峯の薬師を目指します。

その名の通り山上にある峯の薬師までは明るい山道の登り返しが緩やかに続き、やがて到着した境内の奥にモダンな白い薬師堂が建っていました。ここは寺伝によれば明応元年(1492年)創建の古刹で、新井薬師、薬王院(高尾)、日向薬師(大山)と共に武相四大薬師の一つに数えられてきたそうですが、それにしてはなんだかありがたみが薄い造りなのはたぶん明治の神仏分離でいったん廃堂となった後、昭和になってから再興されたものだからでしょう。ともあれここでもお賽銭を納めて、お堂の右に奥へと続く通天橋から関東平野を眺めたら、さらに高度を上げていくことになります。

山道の途中からは津久井湖越しに津久井城山を眺めることができましたが、山上に建っている奥の院は鉄筋コンクリート造と思われる二階建ての建物で、本当にこれが奥の院か?と疑ってしまいました。しかし左に回り込んでみると確かに「峯ノ薬師奥の院」と書かれていましたから、この風情に乏しい建物の中には弥勒仏が祀られているはずです。

少々がっかりしながら奥の院の左手に伸びる山道を進み、途中で峯の薬師を守護する金毘羅様にお参りしながら先を急げば、榎窪山の手前からショートカットして昨年歩いた「南高尾セブンサミッツ」の道に入ります。この道を前回とは逆向きに辿って、草戸山から高尾山口までは意識して小走りになりながら下り続けました。

三増合戦

甲相駿三国の複雑な政治力学の中で永禄12年(1569年)10月に武田信玄が小田原城を包囲した後に囲みを解いて甲斐へ戻る途中、これを武蔵方面から南下した北条氏照・氏邦率いる北条軍が三増峠で迎えうち、両軍の間で繰り広げられた激戦が「三増合戦」または「三増峠の戦い」と呼ばれる合戦です。戦いは当初北条軍有利に進んだものの、背後の津久井城守備隊が武田軍の一隊に抑えられて参戦できなかった上に、北条氏政が率いる本隊が小田原から戦場に到着する前に志田峠から戻ってきた武田軍の別働隊が北条軍を高所から突いたことで戦況が逆転し、北条軍は総崩れになったと伝わっています。

あらかじめ三増合戦場碑が立つ場所を地図で見てみると、近くに「胴塚案内板」と「首塚」があると書かれており、三増峠を目指す前にまずそちらを見てみようと足を運びました。

ところが、胴塚の方は本当に「案内板」だけで「塚」は影も形もありませんでした。そういうことだったのか……と愕然としながら首塚の方に回ってみると、こちらには不動堂と供養塔があり、そこまで登ると中津川の対岸の仏果山から経ヶ岳にかけての山々を眺めることもできてそれなりの風情がありました。

三増合戦場碑がある一帯はこんな雰囲気ですが、芭蕉が「冬草や……」などと一句詠んでもおかしくなさそうな空虚感が漂っています。

この一角の中心をなす石碑(1969年建立)の左には1998年に近くで渡来銭と共に出土した人骨を埋葬した供養塔があり、また三増合戦陣立図を見るとこの周辺の地形を両軍がどのように認識して活用したかがわかります。なお、今は三増峠と言えば上述の厚木愛川津久井線の三増トンネルの上ですが、その西の志田山とP417の間の鞍部には中峠があって合戦時に武田信玄は中峠近くに本陣旗を立てたとされており、戦国時代には現・三増峠と中峠、それに志田峠を合わせた三つの峠道を総称して「三増峠」と呼んでいたそうです。

三増合戦場碑と道路をはさんで反対側にも1999年に建てられた素朴な供養塔があり、またしばらく歩いたところにある諏訪神社にも石碑があることは上述した通り。この一帯はいつまでも三増合戦の戦没者のための鎮魂の空間であり続けるようです。

津久井城

相模湖南岸にあって今は津久井湖を見下ろしている津久井城(筑井城)は、鎌倉時代に三浦氏の一族である津久井氏によって築城され、後北条氏の時代には内藤氏が城主となって後北条氏の有力支城としての役割を果たしていたものの、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐の際に徳川勢に囲まれて開城したと伝えられています。その後、徳川時代には麓に陣屋が置かれて代官が政務を執ったものの、寛文4年(1664年)にはこれも廃止され、津久井城山は地域統括拠点としての機能を終えています。

県立津久井城山公園のパークセンターは上述の通り充実した展示が興味深く、とりわけジオラマの類には目がない自分にとってはいくらいても飽きることがない施設でした。ここはいずれ、縦走の途中での立ち寄りではなく、城山だけを目的地として再び訪問してみたいものです。

山の中の案内板も充実しています。特に山頂直下にあったこの案内板には津久井城の縄張りや歴史、遺構についての解説が掲示されており、縦走の途中だというのについ足が停まってしまいました。

参考