北高尾山稜
日程:2023/12/03
概要:八王子城跡から北高尾山稜を縦走し、堂所山の手前から陣馬高原下へ下る。
⏿ PCやタブレットなど、より広角の画面で見ると、GPSログに基づく山行の軌跡がこの位置に表示されます。
山頂:---
同行:---
山行寸描
八ヶ岳方面からはすでにアイス情報も流れてきている昨今ですが、土曜日の午前中は所用で在宅を余儀なくされたため、日曜日のこの日は高尾山周辺の低山歩きで脚力を維持することにしました。と言っても定番の高尾山〜陣馬山(またはその逆)は紅葉狩りの客でごった返すことが予想されたので、一つ尾根を外して北高尾山稜を歩き、陣馬高原下に下山して「山下屋」さんの陣馬蕎麦をいただくプランにしました。北高尾山稜の登り口は八王子城跡で、図らずも2日前の石垣山城跡と共に豊臣秀吉の小田原攻めにまつわる城跡探訪となりました。
2023/12/03
△09:30 八王子城跡ガイダンス施設 → △09:45-10:00 八王子城御主殿跡 → △10:45 本丸跡 → △11:30 富士見台 → △12:40-45 黒ドッケ → △13:25 関場峠 → △13:45 堂所山手前(登山道から離れる) → △14:30 陣馬高原下
高尾駅北口を出てみると案の定、陣馬高原下のバス乗り場には長蛇の列。しかしタイミングよくそこに駐まっている八王子城跡行きのバスはがら空きです。これはラッキーとすぐに乗り込んで、ごく短い乗車時間で8時40分頃に八王子城跡まで移動することができました。
しかし、あまりにスムーズに移動できたのでバス停からすぐの八王子城跡ガイダンス施設が開いていません(午前9時開館)。しからばとバス停から徒歩10分ほどの「北条氏照及び家臣墓」に詣でました。北条氏照は豊臣秀吉の小田原攻めにより小田原城が開城した後に切腹し、その墓は小田原市内に今もあるのですが、こちらの墓所は氏照の家臣であった中山勘解由の孫・信治(水戸藩家老)が100年忌の追善供養に際して建てた供養塔です。
戻ったところでガイダンス施設に入ってみると、中には北条氏照や八王子城にまつわる充実した解説が掲示されており、ことに城の作りが実感できるジオラマが目を引きました。このジオラマや施設で配布しているリーフレットなどを見れば明らかなように、生活拠点としての御主殿などは麓の谷筋に設けられているのに対し防御拠点としての城の中核は山上の本丸を中心とした一角にあり、麓から山上へ向かう尾根は雛壇状に開鑿されて曲輪を連ねた堅固な山城になっています。もし本丸に配属されたとしたら通勤が大変だろうな、と変な感想を抱きつつジオラマの隣を見るとそこには平べったい滝山城(多摩川南岸)のジオラマ。もともと北条氏照はこちらを北関東攻略の拠点としていたものの、武田信玄との間に交わされた永禄12年(1569年)の滝山合戦で苦戦したため、より立体的な地形で寡兵でも守りやすく小仏峠越えの甲州道(後の甲州街道)を押さえられる位置に八王子城を築いて拠点を移したのだそうです。
八王子城跡から北高尾山稜に登るのはこれが初めてではなく、エベレスト街道トレッキングの前の靴慣らしとして2018年の春に歩いているのですが、そのときには時間がなくて見られなかったのが麓の御主殿跡です。ガイダンス施設から谷筋を奥に進み、城山川を右岸に渡ってさらに上流に進むと、対岸に御主殿跡の見事な石垣が見えてきました。当時、小田原城が堀と土塁の城であったように東国では石垣を使った城は珍しかったようですが、例外的にこの八王子城は安土城を参考にして石垣で固められています。コの字形の階段通路からなる虎口を抜けてきれいに整備された芝生の広場に出ると、城主の日常空間であった御主殿や枯山水の庭を伴う会所の礎石が並んでおり、往時を偲ばせます。しかし、だんだん本来の目的である登山の時間がなくなってきたので、駆け足で御主殿の滝(落城時の自刃の場所)に足を運び手を合わせたら、ただちに登山口に向かいました。
ここから先は2018年に登ったときに経験済みのパートですが、本丸まで標高差200mほどとは言っても重い鎧兜に身を固めていたら守る方も攻める方も大変だっただろうとあらためて当時の将兵の苦労が実感できます。
本丸直下の平坦地から一段上がったところには真新しく巨大な覆堂に守られた八王子神社の社殿があり、その右側の石段を登ると本丸跡です。
こじんまりとした広場になっている本丸跡にはぽつんと祠が一つ。先日の平泉旅行で松尾芭蕉が夏草や兵どもが夢の跡
のモチーフを得た高館を訪れましたが、こちらのもの寂しさもそれに負けてはいません。この本丸跡の近くには小宮曲輪や松木曲輪がありますが、小宮曲輪が荒れ果てた雰囲気だったのに対し、松木曲輪の方はよく整備されて居心地の良い場所で、もし八王子城跡を見て回ること自体を目的とするなら松木曲輪でお弁当を広げるのが楽しそうです。
松木曲輪からは関東平野を一望にすることができ、さらに右を見ると高尾山薬王院の一部らしき建物も目に入りました。しかし、この時点で午前11時。「山下屋」さんには「14時半に行く」と言ってあるので、当初予定していた陣馬山経由は絶望的です。途中なるべく走るにしても、どこかでショートカットを考えなくては。
そうは言ってもこの北高尾山稜は意外にアップダウンがきつく、甘く見ると痛い目を見るということは前回の経験からよくわかっています。したがって、登りはゆっくりでもなるべく足を止めず、下りはできるだけ飛ばすということを繰り返しながら距離を稼ぎ続けました。道は富士見台、杉沢ノ頭、高ドッケ、板当峠、狐塚峠、杉ノ丸とピークと鞍部を連ねながらひたすら西へ向かいます。
植林の中の黒ドッケで小休止をとりながら、地形図と時計を元に作戦検討。ここまででもある程度コースタイムを縮めてきてはいますが、このペースで行くと堂所山から底沢峠を経て陣馬高原下に向かったのでは約束の時間に間に合いそうにありません。しかし、堂所山の北に伸びる尾根がほぼまっすぐ陣馬高原下へと向かっており、傾斜も緩やかなのでこれを使って下れそう。一応の作戦が決まって歩き出すと、広葉樹の明るいトレイルを愛でる心のゆとりも出てきました。
引き続き大嵐山、三本松山、関場峠と歩き続けて堂所山に向かう登り道に差し掛かると、周囲は植林帯になっている模様。植林帯であれば、その中には必ず仕事道があるはずです。引き続き登り続けて目処をつけていた標高700mの分岐に達してみると、期待通りに北に降りてゆく尾根は植林で覆われており、緩やかな斜面の中には仕事道が通じていて安全に下界に下れそうな様子でした。しめしめ。
目論見通り尾根の上の仕事道はたいへん歩きやすく、ぐんぐん高度を下げることができます。ただし陣馬高原下に出るためには標高530mあたりで左へ分かれる支尾根に入らなければなりませんが、残念ながらこの分岐から先には道は続いていませんでした。
それでもこの支尾根上には赤やピンクのテープが続いているので人の往来はあるようですが、それまでに比べると斜度が急である上に足元が滑りやすく、こうなるとわかっていたらチェーンスパイクを持ってきたのにと少々後悔しながら慎重に足を運び続けました。
最後は荒れ果てた墓地に出て、そこから道の跡をつないで人気のない寺(福源寺)の横に出られて一安心。寂れた雰囲気ではあるものの瓦は葺き替えられてさほどたっていないようですし、本堂の向こう側の墓地はどうやら現役らしい風情だったのでこれで難なく下界に出られるだろうと思ったのですが、それは早計。後で調べたところ本堂の向こう側に行けば明瞭な道が下から上がってきていたのですが、そうとは知らずに寺の横の竹薮の中に付けられている道に入ったらその道は途中で薮に塞がれた一角に出て行き止まりになってしまいました。それでも眼下に駐車場が見えていたので木につかまりながらずり落ちるような感じで駐車場に降り立ったのですが、これでは私有地に踏み込んでしまっていただろうと思います。
そこからわずかの歩きで「山下屋」さんに到着してみると、着いた時刻は自分でもびっくりの14時半ぴったり。偶然にしてはでき過ぎです。ともあれ終わりよければすべてよしで、純米酒「八王子城」でまずは自分に乾杯してから、限られた時間の中でおいしい料理と蕎麦とを堪能した後、15時32分のバスに乗りました。