白山 / 鐘ヶ嶽

日程:2024/03/04

概要:飯山観音から白山に登り、桜山を往復してから南進して順礼峠から下界に下り、引き続き鐘ヶ嶽に登る。

⏿ PCやタブレットなど、より広角の画面で見ると、GPSログに基づく山行の軌跡がこの位置に表示されます。

山頂:桜山 280m / 白山 284m / 鐘ヶ嶽 561m

同行:---

山行寸描

▲白山展望台から見た大山(中央の高い山)。その手前のもっこりした山が鐘ヶ嶽。(2024/03/04撮影)

先週木曜日に北海道から戻ってきて数日はレストとしていましたが、いつまでも引きこもっているわけにもいかないので、ここ数日続いている寒さを逆手にとり「寒い日が続く」→「あいつらが活動しない」と脳内変換して、ヒル害が多い東丹沢にハイキングに行くことにしました。

東丹沢といえば2022年に修験道の抖擻ルートをつなぎながら2泊3日でぐるっと一周する「東丹沢周回」(上図のエンジ色の線がそのとき歩いたコースの一部)を行っているのですが、そのときに検討はしたものの計画に組み入れられなかった鐘ヶ嶽と、計画に入れていたものの時間切れで割愛せざるをえなかった桜山とを今回の目的地としました。いわば「東丹沢周回の落穂拾い」というのがこの山行のコンセプトです。

2024/03/04

△08:15 飯山観音前 → △08:30-50 飯山観音 → △09:10 白山神社 → △09:20-25 桜山 → △09:35 白山神社 → △10:45 順礼峠 → △11:00-05 広沢寺温泉入口 → △11:20 鐘ヶ嶽登山口 → △12:35-45 浅間神社 → △12:50-55 鐘ヶ嶽 → △13:15 山ノ神峠 → △14:00 弁天岩 → △14:15 七沢病院入口

月曜日のこの日も昨日と同様にいい天気。放射冷却で寒い中での早出はつらいですが、あいつらの活動がその分鈍ることを考えれば文句は言えません。

本厚木から宮ヶ瀬行きのバスに乗って、飯山観音前で降りたところが山行の起点。ここから白山に登り、その北にある桜山を往復してから南進して順礼峠からいったん下界に下り、西にある鐘ヶ嶽に登って山ノ神峠から下山するというのがこの日の行程です。まずは丹塗りの橋を渡ってしばらく直進し、風情のある小さい門をくぐって石段を少し上がると前方に山門が見えてきます。

この飯山観音はたくさんの人を集める名刹であるだけに広い駐車場を備えており、そうした近代的な設えの中で山門は埋もれがち。それでも近づいて見上げてみると捨身飼虎の彫り物が立派ですが、ここで左右から威嚇してくるはずの金剛力士像は来年3月までご自身の御身を拭い、英気を養われるため、留守にしておりますだそうです。

手水舎や社務所がある一角を抜けてさらに一段上がると右手には鐘楼があって、そこに掛かっている銅鐘は嘉吉2年(1442年)の銘がある神奈川県指定重要文化財です。

そして正面に建つのが長谷寺観音堂で、こちらは江戸時代の建立だと推定されています。ここでこの寺の縁起をその公式サイトから引用すると、次の通りです。

飯山観音長谷寺は、丹沢山地からのびる尾根の白山中腹に位置する高野山真言宗の寺院です。坂東三十三観音霊場の第六番礼所として知られ、「飯山観音」の名称で地元の方々に親しまれて来ました。奈良時代の神亀2年(725年)に行基菩薩によって創建され、大同2年(807年)に弘法大師が教場したことから領主・飯山権太夫が信仰し伽藍を建立したと伝えられています。源頼朝公が秋田城介義景に命じて造営された観音堂には十一面観世音菩薩が安置され、行基自ら手彫りで施した胎内仏が納められています。坂東三十三ヶ所霊場の札所としてこの地に長年、時代と共に訪れる巡礼者をあたたかく見守って来たお寺です。

とまあ大変ありがたいお寺なのでお賽銭と共にこの日の山行の無事を祈り、あわせて御神籤を引いてみたところめでたく「大吉」でした。

登山道は観音堂の左手から裏へと続いており、その途中から女坂と男坂に分かれますが、男坂の入り口にはやはりヤマビルに注意してくださいの警告が立っています。ちょうどこの頃から気温が上がってきたところでもあったので「道中の安全は自力でなんとかしますから、観音様のお力はヒル対策にお使いください」と祈りながら坂道を登りました。

真摯な祈りが通じたかヒルの姿を見ることなく白山の山上に出ることができて、懐かしい白山神社の鳥居や祠に詣でることができました。東丹沢周回のときはここに辿り着いたところで照明のバッテリー問題を生じたためにこの先の桜山への往復を諦めて順礼峠へ向かっていましたから、ここから桜山までの道は初めて歩くことになります。

道は白山神社の祠の裏からいったん大きく下り、緩やかに登り返していきます。明るい尾根筋に付けられた明瞭な道を気持ちよく歩いていくと一つピークを越えたところに山頂標識を伴う桜山に、わずか10分ほどで着いてしまいました。

桜山の山頂にはベンチが設置されており、日当たりもよくてのんびり過ごしたい雰囲気です。ここで短時間の休憩をとり行動食を口にしてから往路を戻りましたが、この山頂とここまでの道との楽しさは真っ暗な中では味わえなかったでしょうから、前回ここに来ることを断念したのは結果的に正解だったと思いました。

桜山から白山神社に戻り、さらに進んで展望台に登りました。ここも前回広がっていた夜景の代わりにこの日は関東平野の広い展望を見ることができましたが、気温が上がっているために遠くが霞んでしまっており、展望としてはイマイチでした。しかし、大切な展望はこの反対側にありました。

それは展望台の西側から見通せる大山と、その下にもっこりと盛り上がっている鐘ヶ嶽の姿です。この白山は八菅修験の行者道の一部になっていましたが、それにはこの大山の展望が寄与していたかもしれません。

展望台を降りて順礼峠への道に入ろうとしましたが、その前にずいぶん新しい石碑が立っていることに気づきました。見れば「優勝決意の地」とあり、この石碑を立てた主は「TEAM ATSUGI」となっています。下山後に調べてみてこれがいかなる由緒のものであるかおおよそ見当がついたのですが、歴史ある山にはおよそ似つかわしくないその姿には感心できませんでした。この辺りはいろいろ考え方があるところでしょうが、そのことはいったん忘れて白山から順礼峠に向かう縦走路に入ることにしました。

ここも以前通ったときは真っ暗な状態でしたから、今回歩いてみてやっとどういうところを自分が歩いていたのかを正しく認識することができました。とは言ってもさほど変わり映えのする道ではなく、どこにでもある低山の尾根歩きと大差ありません。

明るく開けた順礼峠に到着。ここは鎌倉初期に選ばれた関八州三十三観音霊場のうち先ほど訪れた飯山観音と日向薬師とをつなぐ巡礼往来の道中の峠で、あるときここを通りかかった巡礼姿の老人と娘が木陰に潜んでいた悪者に斬殺されたことを悼んだ村人が地蔵尊を建てて供養したという言い伝えがあるのだそうです。

順礼峠から山道を下って舗装された道に出ると、正面には鐘ヶ嶽がきれいに見えていました。このまま道を進んで広沢寺温泉入口バス停付近で再び小休止とし、カロリーを補給したら後半戦です。

地図を見ただけでは鐘ヶ嶽への登り口をすんなり見つけられるかどうか自信がなかったのですが、実際に歩いてみると親切な案内図が複数あって道に迷う気遣いはありませんでした。ありがたいことです。

やがて鐘ヶ嶽の登山口に到着しました。ここは鐘ヶ嶽山頂直下にある浅間神社への参道の入口でもあり、そこに建てられていた案内板の説明によれば、山名の由来は「竜宮から上げた鐘」説と「七沢城への合図の鐘」説の二説があるそうです。そして浅間神社の由来は定かではないながら、上杉定正(『八犬伝』になじんでいる人には「扇谷定正」の方が通りがいいはず)が崇敬し社殿の造営を行ったとしています。

階段を登って植林帯の中をしばらく進み、鹿柵に設置された出入り口を通り抜けて高度を上げようとすると、いきなり仏像が出てきて驚きます。以下、虚空蔵菩薩、普賢菩薩、勢至菩薩、大日如来……と諸尊が丁目石になっていて、出会うたびにタテヨコで写真を撮りたくなるので足が捗りません。この丁目石は拾丁目から石仏ではなく石碑になっていて、どこの村の講中が建立したものかがわかるようになっています。

植林帯を抜けた先は気分のいい山道になっていて、拾三丁目から左に「上杉公内室の墓」と描かれた道標を持つ分岐が現れました。片道3分なら立ち寄ってみようかと横にそれて水平の道を歩いていくとやがて二つの石碑と一体の仏像が現れ、細長い方の石碑には延徳三辛亥年八月廿三日 長皎院孤月了圓大禅定尼 當所城主上杦定正公奥 廣沢寺廿四世大全代とありました。これはどうやら古そうですが、他の石碑や仏像は近代に入ってから設置されたものらしいことが、そこに彫られた日付から窺えました。

登高再開。明るく歩きやすい道を登っていくと定期的に丁目石が現れますが、中には武州多摩郡 八王子寺町なる町名が彫られたものもあって、大山を中心に据える修験道とは別体系の鐘ヶ嶽信仰の広がりを推し量ることができます。

おや、これはタマネギ石。典型的には凝灰岩が風化して生じるものらしく、東丹沢ではところどころで見られるものですが、この鐘ヶ嶽では廿一丁目あたりにたくさんかたまっていました。

大峰山の「覗き」を模したような開けた場所(古びて文字が判読できない三基の石碑と「覗きの松 二代目」なるマツの木あり)を通過し、そこだけ興醒めな鹿柵沿いの道を登り続けると、やがて長い石段が現れます。

これは昭和52年に地元の氏子と市川市の信者の方が協賛して作り直したものである旨が、階段の上の記念碑に彫られていました。

ゴールが近いことを確信しながらさらに進むと、さらなる石段の先に石鳥居が現れました。その向こうには浅間神社の社殿も見えています。

鳥居に向かって左側には出征兵士像、そしてこじんまりとした稲荷社が控えています。これらに挨拶をしてから、最後の石段を登りました。

正面に唐破風を持つ拝殿とその後ろに本殿を連結した本格的な社殿が小広い境内の奥にあって、この位置でのその立派さには驚きます。とにかくお賽銭を納めて二礼二拍手一礼してから、周囲の様子を見て回ることにしました。

社殿の右には七沢城にまつわる歴史解説があり、その向こうではピンクの桜がほぼ満開。奥には夫婦杉があり、境内の一角にはベンチも設置されていてのんびり過ごすこともできる、落ち着いた雰囲気が好ましい場所でした。

山頂に通じる道は境内の左側にあり、もはや丁目石がなくなった山道をわずかに登ると傾斜がどんどん緩んできました。

えっ、ここ?……と思うくらいなんの変哲もない広場が鐘ヶ嶽の山頂で、周囲の展望も得られない代わりにここにもベンチがあり、さらに奥に通じる道の前には不動尊像らしき二体の石像がありました。最後はちょっとあっけないフィナーレでしたが、しかしここに至るまでの山道はたいへん気持ちがよく、石仏や石碑もよく残されていて一つ一つ飽かず眺めることができましたから、今回の山行を「落穂拾い」と認識したのは少なくともこの山に対しては失礼だったなと反省しました。

山頂で最後の小休止をとった後、往路を戻るのではなくそのまま西へと続く道を下りました。出だしこそ植林帯でしたが、すぐに道はやや細い尾根の上をいくようになり、その自然な感じが楽しくなってきます。

山頂から20分ほどで山ノ神峠で、右に下れば不動尻方向ですし、直進すれば弁天御髪尾根に乗って大山へ登れます。ここから大山へと通じるコースを歩くのも一興ではありますが、それは別の機会に譲ることにしようと思います。

というわけで、左に折れて広沢寺温泉方面を目指しました。この道は少々急な勾配の斜面に付けられていて慎重に下らないとスリップしてしまいそうですが、要所に鎖が設置されているのが助かります。

かくして山神隧道の南側で車道に降り立ち、山行は事実上の終了です。ここからはバス通りまでちょっと長い舗装路歩きになりますが、途中でふと思いついて弁天岩へと寄り道をしました。相変わらず見た目にはきつい傾斜の弁天岩では今日も数人のクライマーが練習中でしたが、自分もまたここに通い込んで腕を磨いた日々を懐かしく思い出してから、踵を返して下界を目指しました。