屏風岩山〜菰釣山
日程:2025/01/15-16
概要:大滝橋から東尾根を登って屏風岩山に登り、西尾根を下って地蔵平着。引き続きシキリ尾根を登って菰釣山に登頂し、その日は菰釣避難小屋泊。翌日、城ヶ尾峠から三ヶ瀬川方向へ下り「道の駅どうし」に至る。
⏿ PCやタブレットなど、より広角の画面で見ると、GPSログに基づく山行の軌跡がこの位置に表示されます。
山頂:屏風岩山 1051m / 菰釣山 1379m
同行:---
山行寸描


戦国時代から甲斐と相模とをつなぐ道として使われていた三ヶ瀬古道のうち、中川から二本杉峠、地蔵平を経て城ヶ尾峠までの区間(下図ブルー)は2020年に歩いているものの、肝心の「三ヶ瀬」がある北側、つまり道志側(同ピンク)は未踏になっていました。
その後、いつかはこの区間を歩きたいと思っていたのですが、昨年末にFacebookの丹沢関連グループに地蔵平〜城ヶ尾峠間を歩いて三ヶ瀬古道を完歩したという報告が上がったことに触発されて、いよいよ宿題を片付けることにしました。ただしここを歩く場合の問題は、公共交通機関利用では道志側のバスの便が(特に冬は)極端に少ないことです。このため日帰りは諦めて菰釣避難小屋を絡めた1泊2日とすることにし、どうせ菰釣山に登るのであればと屏風岩山を東から西へ横断して地蔵平からこれまた未踏のシキリ尾根を登るプランにしました。
2025/01/15
△09:35 大滝橋 → △11:35-50 屏風岩山 → △12:45-50 地蔵平 → △15:35-40 菰釣山 → △16:00 菰釣避難小屋
今日は平日なので、電車もバスも比較的ゆとりあり。いずれも問題なく座れて、寝不足を補いながらの楽ちん移動で大滝橋に降り立つことができました。
大滝橋で降りたのは私と、畦ヶ丸へ行くという単独の女性の合計2名だけ。中間着をリュックサックにしまって身軽になってから自分も畦ヶ丸方向へわずかに進み、ゲートを通り過ぎたところで左手の緩やかな斜面から屏風岩山東尾根に乗りました。この尾根を屏風岩山への登路とするのはこれが初めてですが、実は2013年に箱根屋沢の遡行を終えてからの下りでこの尾根の下半分を使っていることを、今回の山行のプランニングの中で思い出しました。ただしそのときの記憶はきれいさっぱりなくなっており、まったく初見のようなものです。
東尾根の下部はなかなかの急斜面になっていて、よくこんなところを降りたものだなと思うほど。当時はチェーンスパイクなど使用していなかったはずです。この斜面をがんばって登り続けると標高650mあたりから傾斜が緩むと共にミツマタが目立つようになってきて、春はこのあたりもミツマタの黄色がきれいだろうと期待させてくれました。その後、明るい自然林になったり植林になったりしながら尾根は屏風岩山へ向かいますが、ミツマタを漕ぐ場面がわずかにあったことを除けばずっと歩きやすい尾根道が続いていて、効率よく標高を上げることができました。
歩き始めてちょうど2時間で屏風岩山に到着。ここまでぽかぽか陽気でしたが、山頂に着いた頃から雲が広がって気温が下がってきました。このため、そそくさと行動食をとってただちに地蔵平への下降にかかりました。
下りに使う尾根は、つい半月ほど前に逆コースで地蔵平から屏風岩山へ上がるのに使った西尾根です。当然登りよりも下りの方がルートファンディングに慎重さが求められるわけで、あらかじめ道迷いをしそうな分岐にマーカーをセットしたGPSアプリを見ながらの計器歩行になりますが、枯葉が踏み跡を覆い隠しているこの時期にこうした文明の利器なしに尾根を下るのは、現代人である私には至難の業です。
やれやれ、どうやら無事に地蔵平に降り着くことができました。ルートファインディングと共に気にしていたのは植林帯の急斜面でしたが、上から見るとジグザグの踏み跡がはっきり見えて、これを辿ることで安全に歩くことができました。
地蔵堂に詣でてここまでの御礼とこれからの加護を願ってから、富士見橋を渡りました。これまで地蔵平には何度か来ていますが、この橋を渡るのはこれが初めてのことです。
富士見橋を渡っていったん南に向かい、城ヶ尾山から降りてくる尾根の南端を回り込んで北に向かうと、向こうにこんもりした尾根の末端が見えてきました。あれが目指すシキリ尾根で、目の前の沢はニボシ沢(上流に白水沢、白石沢、本水沢など)、左奥へ向かっている沢はイデン沢。この位置関係は1935年の『山と溪谷』第33号で菰釣山を紹介した記事[1]に記されているとおりです。ちなみに御正体山の南西尾根も「シキリ尾根」と呼ぶそうですが、どういう意味を持つ名前なんでしょうか?
林道をニボシ沢沿いに進み、白水沢橋を渡ったらシキリ尾根の山腹にタッチできますが、ただちにこの尾根に取り付くわけではなく、今度はシキリ尾根の南端を回り込むことになります。
緩やかに高度を上げているこの林道は富士見林道ということになるのだと思いますが、この道がシキリ沢を渡ってすぐのところで明るく開けた場所があって、そこは富士見林道と忍橋林道の分岐点でした。「忍橋」というのは富士見林道のさらに奥に進んだところにあるらしいのに、なぜあさっての方向に向かう林道に「忍橋林道」という名前が付けられているのか不思議でなりませんが、林業行政による地名などのネーミングのいい加減さは今に始まったことではないので、ここは黙って右を目指します。
富士見林道は比較的よく整備された状態を保っていましたが、忍橋林道に入ると途端に道が荒れてきました。人が歩行する分には支障ありませんが、これでは車両を通行させるための再整備は不可能でしょう。
先ほどの分岐点にあった「忍橋林道新設工事起点」碑と同じものがしばらく登ったところにもあって、こちらも同様にそこだけ気持ちよく開けた広場になっていましたが、先ほどのは「昭和55年度」、こちらは「昭和56年度」です。そして、この碑の少し先で林道はシキリ尾根をまたぎ越しました。
シキリ尾根の上方向に向かっていったん右にまたぎ越した林道はすぐに左へまたぎ返し、ついで再び右に回り込みます。地形図を見るとここから林道はシキリ尾根の右(東)斜面をトラバースしていって尾根筋から離れることになっているため、ここで林道を離れて植林の中の踏み跡を辿ることにしました。
シキリ尾根は、最初のうちは歩きやすくはあるものの植林の中の潤いの少ない坂道が続きましたが、標高1000mからがらっと植生が変わってブナが卓越する気持ちの良い尾根になりました。これは新緑の季節や紅黄葉の時期などはステキなことになるに違いありません。
さて、実は事前にこのあたりの地形を研究する際に林班図を参照していたのですが、これによればこの尾根の標高1033mで城ヶ尾歩道が交差しているはず。林班図に載っている「歩道」とは国有林野事業のための巡視路のことでしょうから三ヶ瀬古道のような歴史的意義があるわけではないのですが、それでも道が交差しているならその様子を見たくなるのは人情というものです。そして確かにそのあたりの北側斜面に思わせぶりなピンクテープがあるにはあったのですが、見下ろした限りではそこに道がある(あった)ようには思えません。
むしろもう少し登ってシキリ尾根の斜度が強くなる少し手前の左右になんとなく道の痕跡のようなものが見られたのですが、この程度の道型ではけもの道と区別することは困難です。結局、真相を明らかにすることはできないままに、ここを通過することになりました。
高度を上げるにつれ、甲相国境稜線が同じ高さに見えるようになってきました。右寄りに見えているのはモロクボ沢の頭と畦ヶ丸かな?だとしたらその左は大界木山ということになるかな。
幅広く歩きやすいシキリ尾根ですが、短い区間ながら密生したアセビの木をかき分け、さらに痩せ尾根を渡るところがありました。いずれもさほどの支障にはなりませんが、痩せ尾根を通過してから振り返り見ると片斜面は侵食によってザレが稜線直下まで急角度で上ってきており、万一ここでバランスを崩したらただではすみそうにありません。
あとはひたすら足を上げ続けるだけ。行く手に菰釣山の山頂も見えるようになってきました。あと少しだ。
ようやく菰釣山の山頂直下の登山道に合流しました。そこには木道の階段があったので、チェーンスパイクで傷つけないようその脇を通って山頂に達すると……。
お約束の富士山の大展望が待っていました。時間的に逆光になるのですっきりした絵にはならないものの、やはり菰釣山からの富士山はいつ見ても見事です。そして富士山の山頂は雪煙が激しく舞っており、あちらが暴風の中にあることがわかります。
いつまでも富士山を眺めていたいところではありますが、とにかく寒いので短時間の滞在で山頂を後にし、避難小屋を目指しました。それにしても、この道にこんなに木の階段があったかな?と首をひねりながら下っていくと、道の脇にはさらなる資材が置かれています。しかしよく見ると、その資材は登山道整備のためのものではなく、植生保護柵(いわゆる鹿柵)のパーツでした。
そして菰釣山から避難小屋までの間には、真新しい植生保護柵が設置されている区間がありました。これはなんとも興醒めな……と思っているうちに避難小屋に到着し、この日の行程を終えました。
この日、菰釣避難小屋に泊まったのは私だけ。誰に遠慮することなくテーブル上に食材を広げ、iPhoneの音量を大きくして音楽を聴きながら夕餉をとりました。紙パックの「鬼ころし」をちびちび呑みつつ調理しながら聴いたのは、かなり久しぶりのレベッカ『Poison』です。『IV』の方が好きだというファンも多いと思いますが、いかにも80年代風のキラキラした音作りを懐かしいと許容できさえすれば、このアルバムの完成度の高さは誰しも認めるはず。NOKKOのボーカルと作詞能力も、本作で頂点に達した感がありますね。
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それにしても、冬の避難小屋泊ではおでんはマストアイテムですな。おかげですっかり身体が温まって、ぬくぬくのままにシュラフにもぐり込むことができました。
2025/01/16
△05:00 菰釣避難小屋 → △06:45-50 城ヶ尾峠 → △07:45 道志の森キャンプ場 → △08:10 道の駅 どうし
何度か目を覚ましては再び寝入ることを繰り返してから午前4時に起床。手早く朝食をとり、パッキングをすませ、小屋内に忘れ物もゴミも残していないことを確認した上で出発しました。
見上げれば空にはおぼろ月。ゴールになる「道の駅 どうし」までの所要時間は約3時間なのにこんなに早く出発しているのは、下山地点から外界へ出られるバスが12月から3月までの間は午前6時台と午前9時台しかないからです。
曇りがちのせいかなかなか明るくなりませんでしたが、城ヶ尾山に着いて衣類などを調整しているうちにヘッドランプは不要になりました。そこから少し進んだところは地蔵平から上がってくる尾根(すなわち城ヶ「尾」)が国境稜線に合流する場所ですが、そこにもがっちり植生保護柵が作られていて、これでは地蔵平から登ってきた登山者は立ち往生するのでは?と心配になってしまいました。しかしよく見ると柵には扉が付けられており、その扉は太い針金でおおらかに留められているだけなので開閉可能です。これには胸を撫で下ろしたものの、この調子ではいずれ、西丹沢を歩く登山者はひたすら植生保護柵を横目に見ながら歩くことになってしまうのではないかと暗澹たる気持ちになりました。
そんなことはありましたが、ようやく城ヶ尾峠に到着しました。今回の山行の眼目は冒頭に書いたとおりここから道志へ下る区間を歩くことにあり、いわばここまでの1日とちょっとの行程は城ヶ尾峠に立つためのアプローチだったというわけです。かくしてここで丹沢の山々に別れを告げ、道志側の登山道に入りました。
地図で見るこの道は点線でもなんでもない一般登山道ですが、『山と高原地図』に「!」マークが付いているとおり部分的に荒れており、ザレた下り斜面の歩きは少々緊張しました。さらに路肩が崩壊しているためフィックスロープをがっちりつかんで渡らなければならない箇所もあり、少なくともハイキングレベルではない危険を感じました。
これは2020年に三ヶ瀬古道の城ヶ尾山から南側を歩いたときにも思ったことですが、こうした際どさを伴う地形の上を輜重・馬匹を含む軍勢が通ったとはちょっと考えにくいものがあります。もちろん昔と今とでは地形も変わっているでしょうから現在の登山道の荒れようを元に古道の付き方を云々することはナンセンスなのですが、それにしても城ヶ尾山の南北とも峠越えではなく尾根通しに上り下りする方が自然なのではないか……とこのときは思ったものの、帰宅してからあらためて『甲斐国志』を読み返してみるとはっきり「峠」を越えると書かれていました。うーん。
城ヶ尾峠からトラバースする道が城ヶ尾山の北尾根に乗ってしまえばあとは歩きやすい下り道になり、やがて車道に出て山歩きは事実上終了です。
道志の森キャンプ場で、この寒いのにキャンプをしているキャンパーの姿を奇異の目で眺めながら(←向こうもこちらを奇異の目で眺めていたと思いますが)三ヶ瀬川を渡るとき、そこにあった標識に「SANGASEGAWA」と読みが記されていることに気づきました。これは歴史的に言って「SAGASEGAWA」でしょう!山梨県は何をしているのか、いや、一級河川の管理者である国土交通省の問題か?などとぷりぷりしながら歩いているうちに道は道志川が流れる開けた谷筋に入り、ゴールとなる「道の駅どうし」の手前では西の方に御正体山と富士山も眺められて機嫌を直すことができました。
最後に帰路を記すと、「道の駅 どうし」の前にある中山バス停から1日2便のバスに乗って山中湖旭日丘まで行き、そこで高速バスに乗り換えて午後1時頃に新宿バスタ着です。交通手段の制約のためにずいぶんバランスの悪い1泊2日行程になってしまいましたが、それでも屏風岩山を東から西へ横断してシキリ尾根から菰釣山に登る初日の行程は充実していましたし、2日目も行程自体は短いとは言えここ数年の宿題を果たすことができて、2025年の初丹沢は十分に意義ある山行になりました。
脚注
- ^加藤秀夫「水ノ木澤から菰釣シ山」『山と溪谷』第33号(山と溪谷社 1935年)p.152。菰釣山への登路はいろいろあるという文脈の中に次の記述がある。
なほ南面水ノ木側から前記の三登路の他地蔵平からシキリ尾根(菰釣シ山高點から略東南に派出し、地蔵平西方のニボシ澤(本水澤)とイデン澤の合流點に終る尾根)に取付くもの……(中略)……多種多様のルートを選擇する事が出來る。