比企の里山

日程:2023/11/13

概要:東秩父村の「和紙の里」から臼入山(細窪山)を経て官ノ倉山に登り、仙元山〜物見山〜大平山と比企の里山をつないで武蔵嵐山駅へ下る、山友・常吉さん一周忌追悼山行。

⏿ PCやタブレットなど、より広角(横幅768px以上)の画面で見ると、GPSログに基づく山行の軌跡がこの位置に表示されます。

山頂:臼入山(細窪山) 421m / 官ノ倉山 344m / 仙元山299m / 物見山 286m / 大平山 179m

同行:---

山行寸描

▲石尊山の山頂の様子と周辺の眺め。遠くに都心のビル群、筑波山、男体山ほかの日光の山々、赤城山ほかの上州の山々。(2023/11/13撮影)
▲大平山山頂近くの東屋で、常吉さんと酌み交わす。(2023/11/13撮影)

この日は昨年11月に亡くなった山友・常吉さんの一周忌。最初は普通にお墓参りでもと思っていましたが、もう少し山屋らしい追悼の方法があるのではないかと考え直した結果、常吉さんが晩年の折々に足を運んでいた地元・比企の山々を歩いてその足跡[1]を偲ぶことにしました。

2023/11/13

△08:40 和紙の里バス停 → △09:30 臼入山(細窪山) → △10:30-35 官ノ倉山 → △13:15-25 仙元山 → △14:20 物見山 → △16:40-50 大平山 → △17:20 武蔵嵐山駅

常吉さんが住んでいた小川町は関東平野が外秩父の山並みに接するところにあり、建具、酒造や1300年の歴史を持つ和紙作りといった伝統産業で栄えた「武蔵の小京都」。私が住んでいる渋谷界隈からは地図で見るとそこそこ遠く感じるのですが、実際には池袋から東武東上線で1時間余りで着いてしまいます。

出がけの渋谷はどんより曇り空でしたが、小川町に着いてみるとまだ雲が多いもののお日様の姿も拝めました。駅前のコンビニで買い求めたサンドイッチを朝食として、バスで向かったのはお隣の東秩父村にある「和紙の里」です。本当はさらに先の「東秩父村役場」バス停で降りた方が登山口が近かったもののなんとなく名前に惹かれてここで降りたのですが、和紙製造所やふるさと文化伝習館やフードコートなどを備えたこの施設(道の駅)は営業時間が9時からだった模様。未だ活気のない外観を眺めただけで歩き始めました。

のどかな里の雰囲気の中で山を見上げつつしばらく歩いて、登山口となる奥沢神社に到着しました。石段を登ってこじんまりした境内に建つ社殿の前でこの日のハイキングの安全を祈って二礼二拍手一礼の後、境内左手から尾根に向かう登山道に入ります。道はよく整備されて歩きやすく、途中で小さな祠を経由して登り詰めたらいったん鞍部に下って登り返したところがこの日最初のピークとなる臼入山の山頂でした。

北西に向かって展望が開けているこの山は『山と高原地図』では「細窪山」だとされていますが、麓からの道標も山頂の標識も「臼入山」となっています。『山と高原地図』がわざわざ「臼入山」は誤りだと書いているのには何か明確な根拠があるのだと思いますが、もはや「臼入山」が定着していると考えてよさそうです。

臼入山からは小さいアップダウンを重ねて東南東へ向かいます。途中で1カ所だけ車道が横切っているほかはおおむね植林の中のやや暗い道に終始しますが、たまに切り開かれて北の展望が得られたり宗教的なモニュメントがあったりして意外に飽きません。

やがてそれまでとはっきり異なる岩がちの急斜面が現れて「嵓」っぽいなと思いつつこれを登り詰めたところが官ノ倉山の山頂でした。先ほどまでの宗教的モニュメントや「虚空蔵山」などといった山名からしてこのあたりの山々は修験道と関係がありそうだと想像がつきますが、そういえば「かんのくら」という名前も熊野の神倉山と共通するものを感じます。

一方、官ノ倉山の山頂直下には小さな石祠があって、これは浅間神社(=富士信仰)だそう。

さらに、それまでの植林帯とは打って変わって明るい広葉樹の尾根を歩くと展望の良い広場になっている石尊山ですが、こちらはその名の通り大山信仰の祠(阿夫利神社)が並んでいます。しかし、石祠の中にあった平成25年4月付の御札を見ると「熊野修験那智山青岸渡寺」の文字。官ノ倉山を主目的として修行登山で訪れた人が立派な祠のあるこちらに御札を納めたということなのかな?何はともあれ、ここで行動食をとりながら都心のビル群、筑波山、男体山ほかの日光の山々、赤城山ほかの上州の山々の展望を楽しんだ後に、下山しました。

麓近いところの道の左側に雨乞いの滝行用の樋と石組みが設けられており、もしやと振り返ると道の反対側には北向不動。ずいぶん急な石段を登ると小さな祠があり、その周囲や石段の左右に立てられた石碑のようなものは三十六童子です。これらを見ても官ノ倉山が信仰の山として大事にされていたことがわかります。

官ノ倉山を下って次の目標である仙元山までは里歩き。途中にある長福寺は8世紀に行基が開山したと伝える天台宗の寺で、14世紀に再興されて今日に至るとされていますからそこから数えても600年以上の歴史があります。

さらに驚いたのは八幡神社の立派さ。こちらの創建も14世紀ですが、鎮守の森と相撲の土俵を擁する境内は広く、長い参道の向こうにある拝殿の左にはいくつもの摂社が並び、反対側には御神木と思われる大欅が聳えていて、往時のこの地の繁栄を偲ばせます。

小川町の街中を横断して次の目標である仙元山まではアスファルトの道歩き。朝方のどんよりした曇り空は明るい青空に変わっています。

仙元山の小川町市街寄りの中腹には青山天満宮があり、近くには町指定天然記念物「青山天満宮のヒサカキ」の木があって注連縄が掛けられていました。

さらに高度を上げると山頂直前に百庚申。その名の示す通り庚申碑がずらりと並んでおり、その一番奥にひときわ大きな庚申碑があたりを威圧するように立っていてなかなかの壮観です。そしてここには明治の終わり近くまで浅間神社があったということが案内板に記されていました。他の史跡についても言えることですが、小川町教育委員会はいい仕事をしていると思います。

百庚申からほんの少しの登りで着いた仙元山の山頂からは小川町の街並みを見下ろすことができましたが、この頃から風の音と共に妙に寒くなってきました。このときは気づかなかったのですが、後でニュースサイトを見たらこの日は木枯らし1号が吹いたのだそうです。

仙元山から縦走路は南に向かい、途中で直角に折れて東へ向かうL字型を描きますが、その縦の画の途中にあるのが町指定史跡の青山(割谷)城跡です。詳細は不明ながら城郭の構造はよく残されており、この山並みの西にあって現在八高線が通る谷筋を扼する位置にありますが、本来の築城意図はわかりません。

L字の縦画の南端にあたる大日山を経て東へ向かうと途中で物見山を通過しますが、その名前から見晴らしがいいのだろうと思っていたら樹林に囲まれた縦走路上のなんでもないところにぽつんと(しかし立派な)山名標識があるだけ。がっくりしつつさらに進むと「庚申」や「仙元大日神」と彫られた石碑がかたまっている一角に出て、手元の『山と高原地図』ではここにも「仙元山」という山名が付けられていました。

縦走路を進んで峠から登り返した先にあるのが、この立派な小倉城跡。先ほどの青山城跡も含め比企地方には何十もの城館跡が残っているそうですが、その中で規模や保存状態の良さなどから菅谷館跡(畠山重忠の居館)・松山城跡・杉山城跡と共に「比企城館跡群」の指定を受けて整備されています。ここは北条氏の家臣である遠山光景の居城であったとされ、豊臣秀吉の小田原攻めの際に陥落して廃城となったようですが、現在は整備途上にあるらしくそのあたりの消息を伝える解説板は設置されていませんでした。

小倉城跡を越えてそのまま進めば最終目的地である大平山まではほんのわずかですが、ここは少し欲張ることにして先ほどの峠まで戻り、そこから里に降りて大平山の西にある小さい山群を目指すことにしました。

▲常吉さんによる山名同定(左)とヤマレコの地図に登録されている山名(右)とでは「寒沢山」「寺山」の認識が異なる。歩行時に参照していた『山と高原地図』では「寒沢山」の位置は前者と同じだったが、現地の山名表示は後者を採っているようだった。

最初に登った臼入山⇔細窪山もそうだったように、この小さい山群についても上記のように山名の同定には揺らぎが見られます。このあたりは仕方ないものと諦めて、とにかく踏めるだけピークを踏もうと山に踏み込みました。

かつて愛宕神社があったという愛宕山の山頂には祠と共にこれまた町指定天然記念物の「下里のスダジイ林」の解説板。「青山天満宮のヒサカキ」と共に、これも小川町教育委員会の仕事です。

常吉さんはこのあたりを歩いたときにうっかり寒沢山を踏み忘れてきてしまったと少し後悔していましたが、大丈夫。縦走路の分岐から往復してみたところ、山頂には何もありませんでしたから。そして標高220mのピークには誰が設置したのか「←八頭山」「寺山220m」のプレートが木に止めてありましたが、ここを寺山とするのは誤りであろうというのが常吉説です。

大平山の西の小ピーク群を歩き回っているうちに(しかも和具山を踏み損ねているにもかかわらず)いつの間にか時間が押してきてしまいました。思いの外に整備されているトレイルをジョグで走って、大平山の北の峠に着いたときにはちょうど日没を迎えるところ。そこから大平山の山頂までは登り20分弱で到着しました。

山頂の方位盤や石の祠を横目に見てさらに進んだところにある東屋が、この日の最終的な目的地です。東北東に開けた展望を眺めながら、今回の山行の趣旨である常吉さんの追悼のために持参した日本酒を、私が職業人としてのキャリアを終えたときに常吉さんといず姫・ニシさんが開いて下さったご苦労様会でいただいた有田焼の酒器に注いで、ひそやかに乾杯。この日、臼入山からここまで常吉さんと一緒に歩いていたような気がしていたので、故人を偲ぶというより「今日も一日お疲れさまでした」という気持ちでぐい呑みを打ち合わせました。

彼方の空がピンクから徐々に赤みを失って暗くなっていく様子を見ながら持参した酒を飲み干したら、正面に向かって下っていく道を辿って武蔵嵐山駅を目指すばかりです。秋の日は釣瓶落としとはよく言ったもので、あっという間にあたりは宵闇に包まれていきましたが、かろうじてヘッドランプを出さずに下界に降り立つことができました。

武蔵嵐山駅前の貴重(希少)な呑み所は「駅前嵐山食堂」です。ここもいわば常吉さん聖地の一つで、常吉さんはここでランチを食していいお店見つけましたと喜んでいたところです。

まずはグラスのビールで喉を潤してから、お酒は地元・嵐山町の「純米吟醸 武蔵嵐山」をおいしくいただき、一緒に注文したご覧の3品(豆腐は白胡麻豆腐)がお酒のアテとしても食事としても文句なく、満ち足りた気持ちで山行を締めくくることができました。

脚注

  1. ^今回の山行に際して参照した常吉さんのブログ「常吉の酔いどれ日記」の該当記事は次の通り(2023年11月13日閲覧)。