天城峠〜八丁池
日程:2021/10/24
概要:天城峠から上り御幸歩道を歩いて八丁池に達し、下り御幸歩道を辿って水生地下へ下る。
⏿ PCやタブレットなど、より広角の画面で見ると、GPSログに基づく山行の軌跡がこの位置に表示されます。
山頂:---
同行:ユキ
山行寸描
2021/10/24
△09:25 天城峠バス停 → △10:05 天城峠 → △12:35 見晴台 → △12:55-13:10 八丁池 → △15:05 水生地下
河津駅から修善寺行きのバスに乗って、天城トンネルを抜けてすぐの天城峠バス停で下車。ここがこの日の歩きの起点となります。
意外に交通量の多い車道を横断して登山道に入り、しっとりした雰囲気の山道を登ることしばし。
これが天城山隧道〈重文〉です。修善寺から下田へ通じる下田街道の一部で明治34年(1901年)に貫通、同37年に完成。川端康成の『伊豆の踊子』にも出てきますが、作家自身が踊子たちを追ってこのトンネルを通ったのは大正7年(1918年)のことです。
トンネルの右からジグザグの道をがんばって登り着いたところが明るい雰囲気の天城峠。何人かのハイカーやトレイルランナーが先行していました。
峠から道は平らになり、すこぶる歩きやすくなっておおむね東に向かいます。この道は昭和5年(1930年)に昭和天皇が八丁池のモリアオガエルを観察するために歩いた道で、現在「上り御幸歩道」と呼ばれています。
向峠を越えた先、藤ヶ沢の最上流では大きなわさび田が目を引きます。そして周囲は一貫してブナやヒメシャラの明るい林に覆われていて、この明るさはいかにも伊豆ならではという気がします。
これはアセビの林?ぐねぐねと曲がった幹や枝は、ゴッホの絵にでも登場しそうな奇怪さ。それにしてもこんなふうに下草が繁茂しないのはなぜなのか。
おおむね平ら、ただし全体としては登り基調の道を歩き続けてやがて八丁池を見下ろす見晴台への分岐に到着しました。ここにあるトイレは手元の地図では「閉鎖中」とされていましたが、問題なく利用可能でした。
見晴台の上から見下ろした八丁池。対岸の草地には大勢のハイカーの姿が見えていますが、実はその上の方にわずかに富士山の山体も見えていました。
反対側(南東)には海岸線と海。しばし展望を楽しんでから、分岐に戻って八丁池へと下ります。
紅葉にはまだ早い時期でしたが、それでも少し色づいた木があって目を楽しませてくれました。
懐かしの八丁池。かつては天城山の火口湖と考えられていたこの池は、現在では断層のずれによって生じた窪地に水が溜まってできたものであることが明らかになっているのだそうです。
見晴台の上からも見えていた草地。ハイカーの多くは奥にある石段に腰をかけて寛いでいましたが、そこには昭和30年代にはレストハウスのような建物が建てられていたらしいことが、近くの解説板に掲載されていた写真でわかります。その写真ではたくさんの人が池の上(!)に乗っていましたが、おそらく冬に凍結した湖面でスケートでもしていたのでしょう。
池の畔でお弁当を食したら、今度は「下り御幸歩道」を使って下ります。しばらくの間は、素晴らしいブナの林が広がる気持ちの良い緩斜面の中をゆるゆると下っていきます。
登山道が車道を横断するあたりから道は雨に侵食されて荒れ気味になってきますが、一方で白い花をつけたシロヨメナの見事な群生にも出会いました。
車道に降り立ち、しばらく下って突き当たった道が旧下田街道の一部で、今は「踊子歩道」と呼ばれます。その名の通り、水生地下バス停へと下る道すがらには踊子文学碑が立っており、そこには川端康成の肖像の浮彫と共に『伊豆の踊子』の冒頭の一節が彫られていました。
道がつづら折りになつて、いよいよ天城峠に近づいたと思ふころ
雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追つて来た
なお、帰りは踊子一行とは逆に修善寺へ向かう予定でしたが、バスの時刻を確認したところ河津へ戻る方が早いことがわかり、河津・熱海経由で帰京しました。