皇海山〜砥沢

#1020 - 根利山探訪

日程:2026/10/10-12

概要:銅親水公園から松木川を遡って初日はニゴリ沢出合に幕営。二日目に皇海山に直登してから根利山側に下り、砥沢集落を訪問。三日目に六林班峠を越えて銀山平へ下る。

◎PCやタブレットなど、より広角の画面で見ると、GPSログに基づく山行の軌跡がこの位置に表示されます。

◎GPSログのダウンロードは「ヤマレコ」から(要ログイン)。

山頂:皇海山 2144m

同行:ノリコさん

山行寸描

▲東尾根上の裸地から見上げた皇海山。紅葉にはまだ少し早いが、空の青さが眩しい。(2026/10/11撮影)
▲砥沢の山神祠。石段が残っているが、その手前左右の石灯籠は倒れ崩れていた。(2026/10/11撮影)
▲権兵衛原動所跡。稼働を止めてから80年以上たつが、朽ち果てることなく往時を偲ばせる。(2026/10/12撮影)

足尾銅山への用材供給地として明治31年(1898)から昭和14年(1939)まで皇海山西面に展開した林業集落群「根利山」。その遺構と径路跡を辿る山旅はこれまで片品川泙川流域と片品川栗原川流域の二つの沢登りとして行い、前者では津室周辺、後者では源公平付近を歩きましたが、今回はいよいよ根利山の中心地である砥沢を訪ねる山旅です。ただし今回はこれまでのような西(群馬県側)からの遡行によってではなく東(栃木県側)からのアプローチとし、その途中で皇海山に登頂する欲張りなプランとしました。それだけに脚力が必要となりますが、今回相方を勤めてくれるノリコさんのアスリートぶりはこれまでの山行を通じて折り紙つき。むしろ私の体力がもつかどうかが心配です。

2026/10/10

△10:35 赤倉バス停 → △10:55 銅親水公園 → △13:40-55 ウメコバ沢出合 → △15:45 ニゴリ沢出合

東武日光駅からバスに乗って赤倉バス停で下車。バス停近くのトイレを使い、身繕いを整えてからおもむろに出発です。

銅親水公園入口までは徒歩20分で、道中には大煙突や宿舎跡など足尾銅山の遺構を眺める楽しみもあってかっこうのウォーミングアップになりました。と言うよりこの日は10月とは思えないほど気温が高く、早めにレイヤリングを調節しないとヒートアップになってしまいそうです。

松木渓谷に入るのはこれが3回目ですが、過去2回はいずれも冬季にアイスクライミングを目的としたものだったので、雪のない松木渓谷の景色は新鮮です。道の途中にある休憩施設「みちくさ」周辺にはたくさんの人が集まっていて、聞いてみたところ植樹イベントの参加者だった模様。銅山の副作用として荒廃してしまう森林資源を回復させようとする取組みは昨年見学した別子銅山でも見られたことですが、でかいリュックサックにヘルメットをくくりつけた物々しい出立ちの我々を見て異口同音に「お気をつけて」と声を掛けてくれました。ありがとうございます。

松木川沿いの道は基本的に左岸の道を進みますが、ここは前方に崩壊地があるため道が右岸に渡るように付けられています。前回ここを通ったのは去年の2月のことでしたが、そのときはどうやってここを通過したのか……忘却の彼方。

試みに右岸の道の下に続く河原を進んでどんづまりの堰堤にぶつかったところで対岸に渡り左岸の道に乗り上がることを模索しましたが、こちらから見ると左岸の道までの高距が大きく、安全に乗り上がれるかどうか確信が持てません。そこで戻って左岸の崩壊地を横断してみたところ意外にガレの堆積は安定していて、さほど危険を感じることなく先に進むことができました。なお、堰堤の手前から見下ろしてみると堰堤の下段の手前から道に上がるラインにロープが設置されていたので、ガレの横断を避けることも可能だったようです。

懐かしのブルドーザー広場を過ぎてウメコバ沢出合に達すると、松木川沿いの車道(跡)は終わり沢の中を歩くようになります。よってここから沢靴を履き、ヘルメットをかぶることになりますが、登攀要素はないはずなのでハーネスはしまったままです。

穏やかな水流を数回渡渉して右岸の明瞭な踏み跡を辿ると六号ダムに到着しました。ここは堰堤の手前を左岸に渡ってそこに設置されたロープをつかんで一段上がり、さらに堰堤に突き当たったら右側のコの字階段を登って容易に越えられます。

その後も穏やかな流れの中を地形を見ながら右へ左へと渡って遡行を続けましたが、六号ダムから1時間ほど進むと沢の様相がやや厳しくなり、そして唐突にこの関門のような小滝が現れました。よし、正面突破だ!と右寄りから近づいてみたものの、釜が意外に深くてホールドまであと10cmが届きません。試行錯誤をしているうちにシュラフが濡れる危険性を感じたため、この滝の突破は諦め、右斜面からすごすごと巻くことになりました。

ようやくこの日の泊まり場となるニゴリ沢出合に到着しました。昭文社の『山と高原地図』には松木川右岸に「ニゴリ小屋跡」と記してありますが、それらしい平地は見つかりません。おかしいなと思いながらニゴリ沢と松木川本流に挟まれた尾根=皇海山東尾根の末端に上がってみると、テントを10張り以上も楽に張れそうな平坦地がそこに広がっていました。

荷物を下ろし、各自テントを張ったら薪を集めて焚火・乾杯タイムです。夏の間の天候が不順だったために泊まり沢はこれが今年たったの3度目ですが、その鬱憤をはらすようにしっかりした焚火を作ることができました。

2026/10/11

△05:50 ニゴリ沢出合 → △10:10-40 皇海山 → △11:25-40 不動沢のコル → △13:55 皇海橋 → △14:45 八丁峠 → △15:30 砥沢

前夜は19時過ぎに就寝しましたが、夜を通して冷え込むことがなく、持参したダウンの上衣を着ることなく快適に眠ることができました。

あたりが十分明るくなった6時前に出発。松木川からの皇海山登山はニゴリ沢からモミジ尾根を登って国境平から南下するコースがよく歩かれていますが、近年は皇海山東尾根をダイレクトに登る登山者も少なくないようで、我々もこれにならって幕営地の背後の尾根に取り付きました。最初のうちは見通しのきかない樹林帯の登りになりますが、木々の間隔は歩行を妨げない程度にまばらであり、要所にピンクテープもつけられていてルートに迷う心配はありません。

しかも標高を上げるとところどころに開けて展望のよい平坦地が現れ、そこからは前方に皇海山がすっくと立っているさまを眺めることもできました。

笹原や白樺の森などを楽しみながら着実に高度を上げていくこのコースは快適で、ノリコさんと互いに「つくづくいいコースだなあ」などと言葉を交わしました。

しかし、世の中そうそう都合よくはできていません。標高1770mあたりから始まる針葉樹林帯の中の怒涛の登りは、ピンクテープを見逃すと倒木に行く手を阻まれて難儀することになります。そうした我慢の登りを1時間ほども続けて、ようやく登山道に登り着いたときにはほっと一息。この日は三連休の中日とあって登山者の数も多く、先に登山道に着いた私が後続のノリコさんの到着を待っている間にもひっきりなしに登山者が通過していきました。

皇海山の山頂に到着。ノリコさんは初登頂、私は29年ぶりです。そのときは再びこの山に登ることがあるなどとは夢にも思っていませんでしたが、長く山登りを続けていれば何が起こるかわからないものです。

皇海山の山頂は展望がないことで有名ですが、それでも木の間越しに日光白根山や錫ヶ岳を見ることができ、登山道をわずかに戻ったところからは尾瀬の燧ヶ岳の姿も眺められました。

さらに不動沢のコル方向へしばらく下ったところからは、南から西にかけての展望が広がりました。写真ではわかりにくいですが、目視では左から右へ富士山・南アルプス・八ヶ岳・北アルプスが霞みがちながらもよく見えていました。

不動沢のコルまで降りてきて、ここから群馬県側の皇海橋へ下ります。ここは栗原川林道が閉鎖(2019年10月の台風被害のため)されるまでは最短で皇海山の頂上に立てるルートとして活用されていた登山道ですが、今は廃道扱いとなっているので安全を期してヘルメットをかぶりました。

廃道になってからさほど時間がたっていないためか、このルートは随所に標識やピンクテープが残っていて歩行を助けてくれましたが、何しろ笹が覆い被さっていて道型が判然としない場所も少なくありません。不動沢に沿って下ればいいとわかってはいてもかなり勘を働かせないと道を追うことが難しく、いざとなったら笹を漕ぐくらいの覚悟を持って取り組むことが求められます。

それでもどうにか無事に皇海橋に到着したら、雨量観測所がある新八丁峠と呼ばれるらしい尾根上の鞍部まで移動して、ここから鋸山西尾根に踏み込みます。

この何の変哲もない鞍部が八丁峠ですが、ここはかつて北の平滝や津室と南の砥沢をつないでいた道が越えていた由緒ある場所です。

「左ヤブ道 砥沢下リ口」と記された標識に挨拶してから、南の砥沢に向けて下りにかかります。まずはこの鞍部から左下へ進んで砥沢から上がってくる沢筋に入り、これをしばらく下ると右岸に人の手になる径路が現れました。これをしばらく下って崩壊地にぶつかったところで切り返して沢筋に戻ると、この切り返し道は沢筋の左隣の枝沢に続き、さらに左岸の斜面に刻まれた細い道へと続いていました。あらかじめ予習したところによれば、八丁峠から砥沢に降りる道は沢筋を忠実に下りきるのではなく途中から左岸の斜面をトラバースして高度を下げていたので、あるいはこれがその道か?と思えましたが、その道の際どい着き方は先行きに不安を覚えさせるものだったため、安全第一で引き続き沢筋を下ることにしました。

結局これといって危ない場面もなく無事に六林班沢に降り着くことができ、ここで「念のため」と持参した補助ロープやギア類はただの重石になることが確定しました。それはさておき、下ってきた沢筋の対岸には木々の間に青く予想外に大きな建物が見えています。あれこそ、この砥沢を中心とする根利山に住んだ人たちやその関係者からなる「根利山会」(1967-2005)の人々が砥沢を訪れるときの集会所・泊まり場として1980年に設けた皇海荘に違いありません。写真でしか見たことがなかったこの皇海荘を見上げたとき、ようやく憧れの地・砥沢に到着したという実感が湧きました。ところが……。

江戸時代には幕府直轄の銅山だった足尾銅山は、明治に入って古河鉱業が経営することになり、有望な鉱床も発見されて日立銅山・別子銅山と共に日本を代表する銅山として発展することになりました。鉱山経営には坑木・燃料・施設の建築用材として山林資源が必要になりますが、早くも明治20年代には足尾の山林資源が枯渇しはじめたことから、古河鉱業は群馬県側に自社が所有していた山林と根利国有林の一部を用材の供給源として開拓することとし、その中心地として根利林業所が置かれたのが砥沢です。

上の地図(クリックすると拡大します)に示されるように、足尾側の銀山平から砥沢までの間には六林班峠を越えて架空索道が引かれ、さらに砥沢から源公平や平滝へも架空索道が伸ばされて、伐採された木材を足尾側へ運搬すると共に、林業集落に暮らす人々のための生活物資が足尾から各集落へと運ばれました。明治の末には従業員とその家族を合わせて1,500〜2,000人くらいの人々が山で暮らしていたと言われており、寺社・病院・学校も備えた集落の暮らしぶりは沼田側の麓のそれよりも豊かだったそうです。

▲往時の砥沢の様子(後掲『幻の集落―根利山―』より引用)。

皇海荘の建つ平地に上がってみて愕然。驚くほどの巨木が倒れて皇海荘を押し潰しており、とても近づける状態ではありませんでした。根利山会が活動を停止した後も砥沢のシンボルのようにここに存在し続けていた皇海荘が、かくも無惨な姿になっていようとは。

皇海荘の周囲には搬器の残骸などがあって往時を偲ばせましたが、同時に比較的近年ここを訪れた者が残した酒類の空き缶も捨てられていて残念な思いをしました。ともあれ、日没までの間に見るべきものを見て回らなければここに来た意味がありません。テントの設営や薪集めは後回しにして、砥沢探索を行うことにしました。

▲砥沢の遺構群。詳しくは〔こちら〕。

六林班沢と八林班沢の合流点に位置する砥沢は尾根の末端の地形を巧みに利用して事務所や架空索道の停車場、土場(木材集積場)、各種住居、それに小学校が設置され、それらが道路でつながれていました。かたや現在の砥沢の敷地内には木々が密に生えていて見通しがきかず、石垣と道型がよく残っているとは言っても主要な訪問先の位置を予習しておかないと迷子になることは必定ですが、我々はまずは山神祠を目指しました。そこには根利山会が設置した「根利の郷」のオベリスク型の標識(1972年設置)が立ち、その奥に山神祠と稲荷社が並んでいました。山神祠の周囲には社殿の基礎が残り、その前の石段も姿をとどめていましたが、石段下の左右にあった石灯籠はどちらも倒壊していました。

ここから先はノリコさんと別れてそれぞれ散策することにし、私はまず南側の住宅群跡を通り抜けて分教場跡を訪れました。するとそこにもオベリスク(1989年設置)があり「東村尋常高等小学校砥澤分教場跡」と彫られていました。児童数が最も多かった大正9年にこの分教場の生徒数は147人だったと言いますから驚きですが、そこには砥沢に住む家族の児童だけでなく、下流の源公平から通ってきた児童も含まれていたことでしょう(そうした遠くからの児童たちは、雪の季節になると寄宿舎に入ったということです)。そうした子供たちの姿を想像しながらさらに近くの役宅跡を歩き、道を引き返して尾根の北側に回り込むと六林班沢を渡って北岸の小高い位置にある平地である専念寺跡から、さらに50mほど登った場所にある焼き場の慰霊碑を訪ねて手を合わせ、北岸を下流に進んで源公平へ通じる立派な径路の跡を確認して探索を終えました。

時間に追われ急ぎ足での周回だったので、往時の砥沢の様子を脳裏に再現できるほど体系的な探索はできませんでしたが、それでもかつてのこの地の繁栄ぶりの一端には触れることができたような気がして、一応の満足を得ることができました。

テントは六林班沢に近い場所に張り、沢沿いの適地を選んで二晩目の焚火・乾杯。この夜も早々にシュラフにもぐりこみ、暖かく眠ることができました。

2026/10/12

△06:00 砥沢 → △06:50 八丁峠 → △07:45-08:15 砥沢橋 → △09:35 権兵衛原動所跡→ △10:35-45 六林班峠 → △13:30 庚申山荘 → △15:25 銀山平

最終日は六林班峠を越えて銀山平へ下山する日ですが、ここから峠道の起点となる栗原川林道の砥沢橋に向かうには四通りの道筋が考えられます。すなわち、①昨日八丁峠から下ってきた道をそのまま登り返す、②六林班沢の遡行、③同沢の左岸にあった旧径路、そして④六林班沢・八林班沢界尾根を辿るルートです。このうち②は地形図を見る限りは難所がなさそうですが、それでも所要時間が読めないという問題があり、④は近年ここを下った記録があるものの広葉樹林マークが下草のうるささを予感させるのでこれもパス。そして今回の砥沢訪問の趣旨に照らせばぜひ③を使いたいところですが、この手の径路は斜面崩壊のリスクが避けられずどうしてもこの日のうちに帰京しなければならない我々にとっては採用しにくいルートです。このため、面白みには欠けるものの最も確実な①を採用することにしました。

さようなら、砥沢。もう二度とここを訪れることはないでしょう。それとも今から29年後に再びここに立つことになるのでしょうか?しかし、そのときの自分は90代半ばですが……。

八丁峠への登り返しは下りに比べてはるかに容易で、順調に八丁峠に登り着き、栗原川林道へ戻ることができました。

そこから徒歩30分弱で着く六林班沢に架かる橋が砥沢橋で、その近くには営林署の砥沢小屋が白骨化したような残骸となっていました。

砥沢からここまで旧径路を使うことを諦めた代わりに、こちらから砥沢へ下る旧径路の痕跡を確認してみたところ、少なくとも見通せる範囲内ではしっかりした道の痕跡が林間に残されていました。このことを確認したら、踵を返して六林班峠への登りにかかります。

六林班沢は出だしすぐに大きな堰堤があり、旧径路は沢の左岸の斜面をしばらく登って尾根を越えて堰堤の上流で六林班沢に戻っていたようなのですが、試行錯誤の結果、素直に砥沢橋から六林班沢の右岸を進むことにしました。堰堤の先も概ね右岸を辿り、ところどころで沢を対岸へ渡る場面がありましたが、こちらもご多分に漏れず踏み跡が薄く、すいすいと進めるわけではありません。

しかし、標高1570mあたりの二俣から中間尾根に取り付くと、とたんに踏み跡が明瞭になってひと安心。どうやらこれは営林署による作業道のようです。

登り着いたところはそこだけ笹が消えた広場になっており、白い煉瓦が散らばっています。ここは権兵衛の見張所と想定されている場所です。

刻された「SHINAGAWA」の文字は、この煉瓦が品川白煉瓦株式会社の製品であることを示しています。そしてここから右方向へ向かうと、行く手にはこんもりした森に囲まれた一角。

その中に、権兵衛原動所跡がありました。銀山平から六林班峠を越えて伸びる架空索道は明治35年にまずここまでが開通し、伐採域の拡張に伴い翌々年に砥沢まで延伸されて、その後、砥沢を起点に各地へ四通八達するようになります。その架空索道に動力を供給するのが原動所で、ここでは薪を原料としボイラーで40馬力を生み出していたということです。

この木製の櫓は想像していたよりもずっと大きく、根利山の事業が終了した昭和14年(1929)から今日まで朽ち果てることなくここにその姿をとどめていたことに畏敬の念を禁じえません。なお、周囲には根利山会が建てた記念碑や石組みの跡もあるということですが、すっかり笹に覆われていて気がつきませんでした。ともあれ、今回の山旅で見るべきもののラストに数えていたこの遺構に無事に対面することができて幸いでした。

原動所跡からさらに斜面に対して右に進み再び六林班沢の谷筋に入って、笹の中のあるかないかの踏み跡を辿ると、いつの時代のものかは不明ながら金属製の輪が落ちていて、そのたびに写真を撮ろうとする私に対し、終電が気になっているノリコさんはやきもきしていたようです。

営林署の仕事道が斜面を横断するポイントからはしばらく歩きやすい道が続きましたが、倒木や笹薮漕ぎなどもあって簡単には通してもらえません。

我慢の登りを続けてようやく六林班峠に到着しました。ここからは一般登山道の下りになるので、ずっと楽になるはずです。

……というのは甘い考えで、ところどころに際どい箇所はあるものの概ね歩きやすく美しい道でしたが、しかし六林班峠から庚申山荘まで2時間ひたすらトラバースというのは長い、長すぎる。

改修工事を終えて今春から2年ぶりに利用できるようになった庚申山荘。ここまでの歩きで肩に食い込む重荷にへばりかけていたので、よほどこの避難小屋にリュックサックを置こうかと思いましたが、もちろんそういうわけにはいきません。したがってここから終点の銀山平まで、さらに2時間の歩きがプラスされることになります。やれやれ。

そんな具合に最後は長時間歩行でうんざりすることになってしまいましたが、それでも楽しく実りある2泊3日の山旅でした。最後に帰路について付言すると、銀山平に着いたところで足尾からタクシーを呼び、わたらせ渓谷鉄道の通洞駅まで送ってもらってぎりぎり16時台の列車(これを逃すと次は18時台)に間に合って、二人ともその日のうちに各自の自宅へ帰宅することができました。このタクシーは1台しか運行していないために予約していないと時間がかかったり迎車してもらえないこともあるそうなので、1時間待ちで来てもらえた我々は運が良かったのですが、もしタクシーが使えなかった場合は銀山平から最寄駅までさらに1時間半の歩きが加算されることになり、たぶんそれは私の体力・精神力がもたなかったでしょう(笑)。

なお、これから根利山を訪れる人にとって多少なりともこの記録が参考になれば幸いですが、そうした人たちには「何も持ち出さず、何も残さない」ことを期待したいと思います。たとえば世の中にボトル・ディギングという趣味があることは承知していますが、たとえ打ち捨てられた瓶であってもその地に暮らした人々の暮らしぶりを偲ぶよすがとなるものであり、その地の歴史の一部と考えるべきなのではないでしょうか。今回見かけた搬器、車輪、軌条など直接的な産業遺物はなおさらです。また、砥沢のあちこちに放置されていた空き缶には落胆しました。皇海荘が倒木の下敷きになっていたように、時の経過と共に自然現象によって朽ちていくことは受け入れられますが、人為的な汚損は容認できません。訪問者がこの地に対して敬意を持って訪れていたなら、そうしたことにはならないはずだからです。

参考

  • 砥沢を中心とする林業遺構とその歴史に関して