片品川栗原川〜ツバメ沢〜ケヤキ沢下降

日程:2025/06/28-29

概要:栗原川林道のゲートを出発し、栗原川に入渓。遡行の後、大膳ノ滝の手前から右岸に上がって円覚址(林業集落跡)を通り不動沢に再入渓し、適宜の場所で幕営。翌日、尾根を越えてツバメ沢に入渓し、これを詰めていったん栗原川林道に上がり、短時間の歩行の後にケヤキ沢に下り、栗原川まで下降を続けて起点に戻る。

◎PCやタブレットなど、より広角の画面で見ると、GPSログに基づく山行の軌跡がこの位置に表示されます。

山頂:---

同行:MIHOさん / ノリコさん / kusutto氏

山行寸描

▲〔動画〕栗原川の遡行のあらまし。(2025/06/28-29撮影)

◎本稿での地名の同定は、主に『新版 東京起点 沢登りルート100』(山と溪谷社 2020年)の記述を参照しています。

東京近郊でナメが売り物の沢を探したところ、ヒットしたのが片品川水系の栗原川。難しい登攀を伴うことなく遡下行でき、幕営適地にも困らない穏やかな沢である上に、いや、である「だけに」と言った方がいいのかもしれませんが、この栗原川流域はかつて皇海山の東側へ尾根を越えて足尾銅山に用材を供給していた林業拠点が点在し、それらをつなぐ径路も四通八達していたところです。2019年に同じ片品川水系で栗原川の北を流れている泙川の小田倉沢を遡行し津室沢を下降した後、その記録をまとめる過程で根利山古道の存在を知った自分にとっては、今回の栗原川での沢登りは自然探勝と産業遺跡探訪との二つの意味を併せ持つ山行となりました。

2025/06/28

△10:35 栗原川林道ゲート → △11:40 栗原川入渓 → △14:45 大膳ノ滝 → △16:00 円覚址 → △16:40 幕営地

今回の同行メンバーは、昨年の泉水谷小室川谷(大菩薩嶺東面)を一緒に遡行したMIHOさん / ノリコさん / kusutto氏。初日の行程は長くないので当日の朝出発とし、練馬高野台駅で早朝に合流してkusutto号で現地を目指しました。

沼田から赤城山の北麓を横切る片品川(利根川の支流)沿いの道に入り、やがて幹線を離れて栗原川林道に入ったのですが、路面に散乱している鋭利な落石のために目的地から3kmの場所でタイヤがパンクするアクシデント。えらいこっちゃと慌てたものの、kusutto氏が手際よくタイヤを交換して走行を継続でき、どうにか山行の起点となるゲート前の駐車スペースに到着できました。

このゲート前で沢靴に履き替えて、すぐに出発です。道はすぐ二手に分かれていて、左のやや古そうな道が栗原川林道でまずこちらを進み、右の新しい道は川の近くまで降りている道で明日そちらからここへ戻ってくる予定です。歩きやすい道を30分ほど歩き、トポに書かれた尾根に着いたところでヘルメットやハーネスを装着して、ピンクテープを目印に下降にかかりましたが、下り始めてわずかのところで左隣の尾根へと乗り移るのがポイントです。ここを見逃さなければあとは斜度も緩く危険なく下ることができますが、フェルトソールの場合はチェーンスパイクを履いた方が無難です。

15分ほどの下りで栗原川に入渓。穏やかな河原を歩くとすぐに黄色いナメが広がり始め、歓声が上がります。水量が多すぎるとこのナメ歩きを楽しむことができなくなるようですが、幸い前日が終日晴れだったので、この水量は「適量」と言えそうです。

やがて出てきた見栄えのする滝は岩塚ノ滝。高さはさほどあるわけではありません(トポによれば5m)が、川幅いっぱいに水を落として豪快です。ここでマイナスイオンを浴びまくったら、少し戻って右(左岸)から巻きにかかります。

明瞭・安全な巻き道を辿って岩塚ノ滝の上流に降り立つと、この沢で一番と思われる広さのナメが待っていました。これはすばらしい。

右岸に石垣を見てさらに進み、地形図上でも顕著にわかる右岸の平地に上がってみると、そこが源公平でした。最初は草むらの中に石組みらしきものの痕跡や古いビールの瓶が見られる程度でしたが、上流側に歩いていくと石垣が立派になり、その最も状態のよい石垣が残っている場所には山神社があったことを示す金属の記念碑が立っていました。

冒頭に記したように、泙川流域・栗原川流域は共に足尾銅山への用材供給地として古河鉱業により開発されたのですが、その拠点は栗原川上流の砥沢(1168標高点付近)に明治37年に設けられた根利林業所でした。そこから西へ伸ばされた空中索道がこの源公平(地名の由来は、源義経が奥州へ逃れる途中で滞在したという言い伝え[1])に達したのは翌年で、ここの置かれた出張所を中心に徐々に林業集落としての体裁を整え、往時は100人を超える人々が住んでいたそうですが、昭和13年にこの地域での事業が終了し、その翌年に根利林業所はじめ林業拠点はすべて撤収されたということです。

源公平の集落跡は山神社よりもさらに上流側の森の中に続いているようですが、そうして歩いている間にもちらちら右手を見ると綺麗なナメが続いていたので、ここは断腸の思いで遺跡探索を切り上げ沢歩きに回帰することにしました。

だだっ広いナメと深そうな釜を前に置いた源公ノ滝は源公平の住民の子供達の遊び場だったというところ。しかしグリーンの釜の中には白く泡立つ水流がぐるぐると渦を作っていて、ハマったら浮かび上がってこられないようにも見えます。一方、トイ状の滝は右からでも左からでも容易に登ることができました。

続く小滝二つをいずれも右寄りから越えていくうちに、さしものナメも終わりを迎え、そして前方に大膳ノ滝[2]の前衛滝が姿を現しました。

これから向かう円覚址へはこの前衛滝の手前左側(右岸)を登ることになるのですが、その前に大膳の滝を見物することにしました。最初はこのまま沢筋を進んで前衛滝の左横を抜けようとしたのですが、外傾した岩が行きは良くても帰りが怖そうな感じ。ところが同じく滝見物に行っていた先行パーティーが戻ってきたところを見ると、右岸の少し高いところを横断しています。トポを読み返してみると確かにここは1段上がった巻き道を行くと書いてありました。

前衛滝の左上を通過し、その先の蛇行した沢筋を少し進むと大きな釜が現れて、その奥に豊富な水量を落としている滝が姿を見せました。トポはこれを大膳ノ滝の前衛8mとし、その奥に二つ滝が連続していると記していますが、この滝を登った遡行者の記録を読む限り大膳ノ滝は3段滝と認識されていて、これはその1段目と見るのが一般的であるようです。この手前から左上に上がれば2段目・3段目を視界に納めることもできたかもしれませんが、私以外のメンバーは円覚址への登り口で待っているので、1段目だけで満足して戻りました。

円覚址へはもともと源公平から道が通じていたはずで、周囲の地形から考えるとその道はやはりこの位置から急登していたと考えられますが、派手なガレの押し出しが斜面を埋めていてそれらしい痕跡は微塵も残っていません。我々はまずは右岸に切れ込んでいる小沢を忠実に辿ることとし、出だしの段差を越えて谷筋の奥に進んだのですが、すぐに行く手に越えられそうにない6m滝が現れたため、左の小尾根へ逃げることになりました。斜度が強く足元が崩れやすいこの小尾根を慎重に登ると、先ほどの6m滝からずいぶん上がった頃に右に外傾バンドが続いていることに気づいたので、ロープで確保してもらってこのバンドを渡り、木の幹にスリングを巻いてロープをフィックスして女性2人はヴィア・フェラータの要領で後続してもらい、最後にkusutto氏を迎え入れました。少々嫌らしいトラバースだったので「これはルートを誤ったかな」と思ったのですが、ロープをフィックスした場所から左へ谷の向きに沿って左に回り込んでみると明らかにそこは道になっており、トポに書かれているように滝上に懸垂する必要もなくそのまま石垣が点在する地帯に入っていくことになりました。ここが円覚(址)です。

そこには、栗原川から大膳ノ滝と円覚ノ滝の高さの分だけ上がった中腹に広がる台地のあちこちに石垣が残されていますが、源公平が川沿いの平地で明るく開けた場所だったのに対し、こちらは木々に囲まれつつ地形をうまく利用した平面プランになっていて、どこか山城っぽい雰囲気が漂います。そして、こうした場所の常としてあれこれの落とし物がここにも残されていましたが、栗原川林道が通行可能だったときには釣り師が車でこの上までやってきて山道を下り円覚から上流へ行くことができたそうですから、遺物が必ずしも林業集落時代のものとは限りません。それでも時間があればあちこちを見て回りたいところですが、すでにこの時点で16時であるため、ここも先を急ぐしかありませんでした。

「円覚」とは何やら抹香臭い名前ですが、大膳という名前の僧侶が円覚寺というお堂を建てたことに由来するのだそうです[1]。そしてここは源公平と砥沢とをつなぐ空中索道の中継地で、索道の停車場、発電所、社宅があったところです。源公平に山神社の記念碑があったように、この円覚址にも根利山会が建立した碑が残されているそうなので、せめてそれだけでも見ることができていたらと思うものの、後悔先に立たず。

円覚址を通り抜けると大膳ノ滝の上で栗原川本流から分かれる不動沢の円覚ノ滝の落ち口に出ることができました。そこにはかつて架かっていた吊り橋のワイヤーが残されており、円覚と砥沢を結ぶ道はここで不動沢を渡って対岸を進むか、あるいは尾根を登って高いところを通っていたようですが、我々はそのまま右岸を進みます。当初の計画ではこの後さらに尾根越えをしてツバメ沢出合付近で幕営する予定でしたが、時間が押しているのでそれは諦めてこの不動沢の中に幕営適地を探すことにしました。

先行パーティーは不動沢と栗原川本流とを分ける尾根の1105標高点から北に伸びる尾根の末端のわずかに高いところに絶好のテン場を見つけて盛んに煙を上げていましたが、その平地の沢側には石垣が組まれていたので、これはおそらく径路跡。いいところを見つけたなあと羨ましく思いながら先に進み、ようやくメンバーの全員が納得できる平坦地が見つかったときには16時40分になっていました。そこから急いでテントやツェルトを設営し、皆で薪をかき集め、そしてやっと乾杯です。今日一日、お疲れさまでした。

2025/06/29

△06:15 幕営地 → △07:00 ツバメ沢入渓 → △09:35 栗原川林道 → △11:55-13:35 ケヤキ沢ノ大滝 → △16:35 栗原川林道ゲート

すでに明るくなってきている4時に起床。どうやら今日も天気に恵まれそうです。

昨夜幕営した場所は1105標高点の東の鞍部のわずかに手前で東北へ張り出している小尾根の対岸でしたが、本来のルートはこの小尾根の下流側から斜面に取り付き、斜上して鞍部に達するものです。しかし我々はその取付きポイントを過ぎていたので小尾根の末端から直登するラインをとったのですが、するとやはり下流方向から明瞭な径路が上がってきていて、これを使って鞍部に達したところ、径路はさらにこの尾根の南側(栗原川本流側)をトラバースして栗原川上流を目指していました。つまり、この径路は円覚ノ滝の落ち口上で吊り橋を渡った道の延長線上(行き先は砥沢)だということです。

実は不動沢から小尾根に取り付く前に見回したところ、そのあたりの不動沢右岸にも径路の石組みが残されていることに気づきました(冒頭の動画の09:41頃)。立派な石組みの存在は径路が重量物の運搬に用いられたことを示していますから、不動沢上流で伐採した材木がこの径路を使って円覚に運ばれ、そこから空中索道に載せられて砥沢から銀山平製材所まで運ばれていたのでしょう。一方、我々が歩いた円覚から砥沢方面への道はそうした頑丈な作りにはなっておらずあくまで人が歩くための径路ですが、源公平や円覚に住む従業員の子供たちは砥沢に設けられた分教場に通って義務教育を修了したということです[3]から、まさにこの道を毎日のように通学していたのでしょう。

1105標高点の東の鞍部から南斜面を横断する径路は部分的に荒れてはいるものの概ね歩きやすく、やがてルートはこの径路を離れて南西へ下ります。

降り着いたところは東へ伸びる栗原川本流と南へ分かれるツバメ沢との二俣で、その周辺にはトポに書かれているとおり幕営適地が広がっていましたが、幕営の痕跡は見当たりませんでした。

ツバメ沢の中にはいくつかの小滝が連なっていますが、どれも側壁を直登したりトラロープを目印に小さく巻いたりして、容易に越えることができるものばかりです。

そうした中で例外的に大きさがある10m滝は左壁が階段状になっていますが、ヌメりがあるために慎重を期してkusutto氏にロープを引いてもらいました。すいすいと滝の上に出たkusutto氏はピトン2枚で確保支点を作り、中間の二人はタイブロック登攀、ラストは普通に引き上げです。

10m滝の先の標高1140m二俣では、右に進めばショートカットになりそうですが、ここは多少長くはなるものの一貫して傾斜が緩い左俣を選択しました。炭焼き窯の跡や陶器片、ビールの瓶、さらにナメまで出てきて飽きずに登り続けているうちに前方に石垣が出てきたら、それが栗原川林道の基礎部分でした。この林道をわずかに西北へ歩き、栗原川本流とツバメ沢との分水嶺上の支線を分けて西斜面に回り込んだらそこがもうツバメ沢の源頭部。適当なところから林道を離れて笹の斜面を下ると、そのままツバメ沢の中に入っていくことになります。それにしても、地形図で見るこの林道の規模には驚きます。まるでお釈迦さまの掌中にあるように、我々は栗原川林道が作る輪の中で遊ばせてもらっている感じです。

ツバメ沢の下降には難所はなく、初めて出てくる小さな滝は左から踏み跡を辿って下り、きれいなナメを歩いた先の標高1030mあたりの10m滝は右岸をちょっと上がったところから滝の(上流側から見て)右斜面につけられた明瞭な巻き道を使って巻き下ります。

最後の大物はケヤキ沢ノ大滝40mで、トポには次のように記されています。

大滝の手前に2条の小滝が懸かり、右岸側を少し上がった地点にあるトラロープをたどると右岸ルンゼに突き当たるので、その手前から立ち木を支点に懸垂30mでルンゼ下部に下る。

ここを「小滝を下ってから右岸側を少し上がる」と読んでしまうと行き先を見失うことになるのですが、正解は「小滝を降りずにそのまま右岸側の斜面を登る」で、そこにはザレたトラバース道にトラロープがフィックスされていました。とは言えトラロープだけでは心許ないので自前のロープを出し、円覚址手前の外傾バンドのトラバースと同様の手順でトラバースにかかりました。この道はザレ斜面の上を20mほど進んで岩が露出した角を回り込み、さらにはっきりしたバンドの上を進むのですが、角のところでトラロープが切れているために一瞬悩みます。しかし回り込んでみるとすぐにトラロープが復活し、トポの記述通りにルンゼにぶつかってその手前のしっかりした木の幹に回された残置スリングを使って懸垂下降するようになっていました。それにしても40m滝を下るのに30mロープ2本で足りるというのはどういうことかと不思議だったのですが、見れば納得、20mほど懸垂下降すると緩い傾斜でなだれ落ちているルンゼの中程に降りられ、そこからルンゼ右岸の踏み跡へ逃げることができますし、30mの長さをフルに使えば右岸の木にセルフビレイをとるところまで確保された状態を維持することもできるというわけです。

こうして全員が無事に40m大滝を巻き終え、沢の底に降り着いて振り返ると、この大滝は実に立派です。裾に綺麗なナメの斜面を持ち、中段は立体的な岩の積み重なりの中に幾条にも水流が分かれ、そして上段は狭い落ち口から垂壁に沿って一気に水を叩き落としていて、どこに出しても恥ずかしくない風格を備えており、しばらく見入ってしまいました。

40m大滝を巻き終えるとまたしても林業の痕跡が現れます。最初に左岸に出てくる堰堤のように立派な石組みはトポにはワサビ田跡と書いてありますが、これは明らかに物流のための径路跡です。さらに下流へ進むと右岸に広がる台地の中に、幅3mほどの石垣が延々と下流方向へ続いていました。源公平の出張所による伐採事業は時代が下るにつれてその範囲を広げ、ケヤキ沢流域まで及んでいたということですから、これはこの周辺で伐採した材木を載せて源公平に運ぶトロッコの軌道跡に違いありません。そうだとすれば、昨日源公平の手前の右岸に見た石垣はその軌道が川を渡るための橋脚だったかもしれません。

ケヤキ沢の下降にはこうした昔の仕事道の跡が作る右岸の平坦な地形を利用することができて助かるのですが、ふと見ると左下を流れるケヤキ沢は深くえぐれたゴルジュ状になっていました。そして右岸の平坦な地形がえぐれて行き詰まったときにケヤキ沢の中へ下らなければならなくなったのですが、幸いにもそこはゴルジュの終点に近い場所で、おかげでゴルジュ内に閉じ込められることなく下降を続けることができました。

ケヤキ沢が栗原川本流に合流する二俣手前には低いナメ滝が二つ続き、最初のものはクライムダウンも可能と思えるものの安全第一で懸垂下降、次のものは右から簡単に巻き下って、栗原川に戻りました。そこから下流にもきれいなナメが随所に広がっていたのですが、昨日の遡行で十分ナメを堪能しているのでもはやお腹いっぱい。早く終わらないかなと思いながら沢の中を進んだり右岸や左岸の河原を歩いたりして、最後は首尾よく真新しい林道の末端を見つけ出してこれを登り、起点に帰り着くことになりました。

栗原川は期待通りにナメが美しく、穏やかな沢でした。大膳ノ滝やケヤキ沢ノ大滝の立派さも滝見としては充実したもので、2日間を通じて飽きさせません。円覚址への登りのパートだけはルートファインディングの力を求められますが、あとは迷う要素がほとんどなく、安心・安全の遡下行を楽しめます。シューズの選択に関しては、この沢は総じてナメがヌメって滑りやすいものの、ガレの登りや土付き斜面の歩行の場面も少なくないので、全体を通して見ればラバーソールの方が有利だと思われます。

なお、我々は東京都内を初日の朝に出発しての1泊2日としたのですが、もし産業遺跡に興味を持っているなら、源公平と円覚址を心ゆくまで探索し、ついでに大膳ノ滝をじっくり眺めるために、朝早くにゲートを出発することを勧めます。

脚注

  1. ^ab水資源開発公団栗原川ダム調査所編『幻の集落-根利山-』(水資源開発公団栗原川ダム調査所・利根村教育委員会 2003年)
  2. ^国土地理院の地形図ではこの滝を「円覚大膳滝」、円覚址を通過したところに出てくる滝を「不動滝」と記していますが、複数の識者が指摘するところによればこれは誤りで、この滝は「大膳ノ滝」、円覚址を通過したところに出てくる滝は「円覚ノ滝」であり、「不動滝」とは不動沢のさらに上流にある地形図に滝記号のない滝だということです。
  3. ^高桑信一「足尾銅山の索道」『古道巡礼』(中日新聞社 2005年 → 山と溪谷社 2015年)ヤマケイ文庫版 p.118-155

参考

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